EP 2
空の魔王の素顔と、揺れる照準
1938年、初夏。ニュージャージー州の陸軍航空基地。
鼓膜を震わせる航空機エンジンの轟音の中、フリー記者・ジャックに扮した坂上真一は、プレスの腕章をつけて滑走路の脇に立っていた。
青空の下、銀翼を光らせて並んでいるのは、後に「フライング・フォートレス(空の要塞)」と呼ばれ、日本全土に絶望の雨を降らせるB-17爆撃機の初期型モデルだ。
(……見事な機体だ。だが、数年後、あれの発展型(B-29)が空を黒く染め上げる)
坂上はカメラのファインダー越しに、冷徹な目で機体の構造や基地の警備体制をスキャンしていく。マーシャルの死により陸軍全体の近代化は遅れているとはいえ、航空戦力という「未来の兵器」の発展は完全に止まってはいなかった。
その中心にいるのが、本日の視察の主役――ヘンリー・H・アーノルド准将だ。
「ハハハ! 素晴らしい飛行だったぞ、ジョンソン中尉。だが着陸の時、少し右の車輪に癖があったな。整備班長、ブレーキの遊びを調整してやってくれ!」
滑走路の奥から、恰幅の良い初老の軍人が、快活な笑い声を上げながら歩いてきた。
彼こそが将来、陸軍航空軍を創設し、戦略爆撃という名目で何十万もの日本の民間人を焼き殺すことになる「空の魔王」。
だが、坂上のファインダーに映ったアーノルドの姿は、冷酷な殺人鬼などでは到底なかった。
彼は「ハップ(Happy)」という愛称の通り、常に絶やさぬ笑顔で兵士たちの肩を叩き、末端の整備兵の名前すら暗記して気さくに声をかけていた。
『准将! 先日は妻の出産祝いをいただき、ありがとうございました!』
『おう、元気な男の子だったそうだな! 未来のパイロット候補生に、よろしく言っておいてくれ!』
基地全体が、アーノルドという指揮官を心から慕い、家族のように温かい空気に包まれている。
特戦群で部下を率いていた坂上には、痛いほどよく分かった。アーノルドは、間違いなく「理想の指揮官」であり、人間的にも魅力に溢れた立派な男だ。
(……ふざけるな。こいつが、俺の故郷(広島)を焼く男だというのか?)
坂上は、カメラを握る手にギリッと力を込めた。
凶悪なレイシストや、戦争狂であれば、どれほど楽だっただろう。だが、目の前にいるのは、部下を愛し、国を愛する良き父親のような男なのだ。
「おお、そこの若い記者さん! 我々の『鳥』はどうだい?」
不意に、アーノルド本人が坂上の方へ歩み寄り、屈託のない笑顔で声をかけてきた。
周囲の警護兵がわずかに緊張するが、アーノルドは気にする素振りも見せない。
「……ええ。素晴らしい機体です、将軍。空の未来を感じます」
坂上は完璧な「愛想の良い青年記者」の仮面を被り、微笑み返した。
「未来、その通りだ!」
アーノルドは坂上の肩を力強く叩いた。その手は温かく、分厚かった。
「我々の翼は、決して他国を侵略するためのものじゃない。愛する家族と、この美しい国を、空の脅威から守るための盾なんだ。君のペンで、どうか国民にそう伝えてやってくれ」
真っ直ぐな、一点の曇りもない愛国者の瞳だった。
「……承知いたしました、将軍。素晴らしい記事を書かせていただきます」
坂上は笑顔で答えながら、腹の底でドス黒いヘドロのような吐き気が込み上げてくるのを必死に抑え込んでいた。
(愛する家族を守るため、だと? ……俺も同じだ、アーノルド)
あんたが家族を守るために作るその巨大な盾と剣が、数年後、俺の家族の頭上に死の雨を降らせる。
だから、俺はあんたをここで殺さなければならない。どんなに立派な男であろうと、俺の娘(真奈美)の未来を脅かす芽は、この手で完全に摘み取る。
アーノルドが去った後、坂上はメモ帳に万年筆を走らせた。
書いているのは記事ではない。明後日、アーノルドが搭乗予定の視察機の「整備計画表」と、警備の死角だ。
立派な人間を、暗殺という卑劣な手段で闇に葬る。
ペンを握る坂上の右手が、マーシャルの命を奪った時の感触を思い出して、小刻みに震えていた。
「……俺は鬼だ。地獄に落ちるなら、一人で十分だ」
青空に飛び立つ爆撃機を見上げながら、坂上はポケットの中で、もはや血の味しかしないコーヒーキャンディをガリッと噛み砕いた。




