第二章 『摩天楼の錆びた血(コーヒー)』
偽装のペンと、消えない両手の感触
1938年、春。
ジョージ・C・マーシャル准将の「急死」から数ヶ月が経過したニューヨークは、ヨーロッパの不穏な情勢とは裏腹に、かりそめの平穏を保っていた。
マンハッタンの中心部にあるビルの一室。
タイプライターの乾いた音が響く中、坂上真一は、新調したプレスの腕章を机の上に放り投げた。
『フリーランス・ジャーナリスト、ジャック・ジャスティン』
それが、裏社会から奪った資金と偽造屋を使って手に入れた、坂上の新しい身分(隠れ蓑)だった。
新聞配達員という「透明な底辺」の立場は街の地形を把握するには最適だったが、軍の中枢に接近するには限界がある。しかし、記者の肩書きさえあれば、軍の公開演習や記者会見に堂々と入り込み、標的の動線を合法的に探ることができるのだ。
「……身分証(ID)の偽装は完璧だ。だが……」
坂上はネクタイを乱暴に緩めると、洗面台へと向かい、冷水を蛇口から勢いよく出した。
バシャリ、と顔を洗う。
鏡を覗き込むと、そこには上等なスーツを着こなし、知的な記者を装った23歳の白人青年の顔がある。
だが、その青い瞳の下には、濃い疲労の色と隈がこびりついていた。
不眠症だった。
マーシャルを暗殺したあの夜から、坂上はまともに眠れていなかった。
(……くそっ)
目を閉じると、今でも鮮明にフラッシュバックする。
ホテルのスイートルーム。
特戦群の技で組み伏せたマーシャルの巨体。
毒を染み込ませたハンカチ越しに伝わってきた、男の荒々しい呼吸。生への執着。そして――命が完全に途絶え、巨体がフッと軽くなった瞬間の、あのひどく生々しい両手の感触。
「うっ……!」
突如として胃の底からせり上がってきた吐き気に、坂上は洗面台に両手をつき、胃液を吐き出した。
酸っぱい匂いが鼻腔を突く。
陸上自衛隊・特殊作戦群の隊員として、死線は幾度も潜り抜けてきた。極秘任務で引き金を引いたこともある。
だが、それはあくまで「戦場」でのことだ。相手も武装し、互いに殺し合う覚悟を持った上での戦闘だった。
しかし、マーシャル暗殺は違う。
国のため、家族のためとはいえ、あれは完全に無防備な相手を一方的に毒牙にかける「冷酷な謀殺(あるいは屠殺)」だった。標的にされたマーシャルにも、彼を愛する家族がいただろう。それを自分の手で、この世から強制的に消し去ったのだ。
平和な日本で、妻の明子と娘の真奈美に囲まれ、毎日笑顔でカレーを作っていた「坂上真一」としての人間性が、特戦群としての「鬼の論理」を激しく拒絶し、悲鳴を上げている。
「……俺は、化け物だ」
震える手で口元を拭い、坂上はポケットからいつものコーヒーキャンディを取り出した。
精神安定剤代わり。これを舐めれば、明子が淹れてくれた香ばしいコーヒーの匂いと、平和な日常の記憶が少しだけ戻ってくるはずだった。
ガリッ。
噛み砕いた瞬間、坂上は顔を顰めた。
甘くない。
舌の上に広がったのは、鉄錆のような、血の味。
「……味覚まで、イカれてきやがったか」
自分の心が少しずつ、だが確実に壊れ始めていることを坂上は自覚していた。
人を殺し続ければ、いずれ「坂上真一」という人間の魂は完全に崩壊し、ただの殺人狂になり果ててしまうかもしれない。
だが、ここで立ち止まるわけにはいかないのだ。
坂上は洗面台から離れ、壁に貼られたターゲットリストを睨みつけた。
次に赤い斜線が引かれるべき男の名前。
『ヘンリー・H・“ハップ”・アーノルド』
数年後、空を黒く染め上げるほどのB-29爆撃機の大群を日本へと差し向け、東京を、そして広島を火の海にする「陸軍航空隊の父」。
「俺の心が壊れるのが先か……アメリカの牙を全てへし折るのが先か……」
坂上は手元の取材手帳を掴んだ。
明日は、ニュージャージー州の航空基地で、アーノルドが視察に訪れる公開演習がある。記者として彼に肉薄し、必ず「次の事故」のシナリオを書き上げなければならない。
地獄の底へ向かう片道切符を握りしめ、孤独な亡霊は再び摩天楼の喧騒の中へと歩き出した。




