EP 1
カレー屋の親父、摩天楼の亡霊となる
スパイスの香りが染み付いたエプロンを外し、坂上真一は小さく息を吐いた。
時刻は深夜。広島市内の路地裏にある小さな店舗、「カリー&珈琲 サカガミ」のシャッターを下ろすと、瀬戸内海から吹く夜風が火照った体を冷やしていく。
50歳。無駄な肉のない引き締まった体とはいえ、流石にワンオペでの仕込みと営業は骨にくる。
「……今日は、やけに疲れたな」
坂上は愛車の運転席にどっかりと腰を下ろすと、胸ポケットからハイライトを取り出し、火を点けた。紫煙と共に、妻・明子の明るい笑顔と、大学生の娘・真奈美の呆れたような顔が脳裏に浮かぶ。
「お父さん、また店で寝泊まりする気?」なんて小言が聞こえてきそうだ。
だが、今日ばかりは本当にハンドルを握る気力が湧かなかった。
エプロンのポケットからいつものコーヒーキャンディを取り出し、ガリッと噛み砕く。強いカフェインと甘味が脳に染み渡るのを感じながら、坂上は車のシートを深く倒した。
目を閉じる。
ほんの少し、仮眠を取るだけだ。
それが、坂上真一が「平和な日本」で過ごした最後の記憶となった。
* * *
――寒い。
骨の髄まで凍りつくような、刺すような冷気。
そして、鼻をつく石炭の燃える匂いと、馬糞、それに安酒が混ざったような強烈な悪臭。
「……ッ!」
坂上は反射的に跳ね起きた。
長年の陸上自衛隊・特殊作戦群(特戦隊)で培われた危機察知能力が、全身の警報を鳴らしていた。
車のシートではない。固く、冷たい石畳の上だ。
周囲を見渡す。
視界に飛び込んできたのは、赤茶けたレンガ造りの薄汚れたビル群と、天を突くような巨大な摩天楼のシルエット。非常階段が這うように伸びる薄暗い路地裏。
広島ではない。それどころか、日本ですらない。
坂上は即座に壁を背にし、警戒態勢をとろうとして――自分の手を見て息を呑んだ。
「なんだ、これは……?」
白く、細い腕。
長年の過酷な訓練で節くれ立ち、無数の傷跡が刻まれていたはずの50歳の男の手ではない。
まだ若く、ひ弱な、完全な白人の青年の手だった。
混乱する脳内に、突如として見知らぬ「記憶」が濁流のように流れ込んでくる。
ジャック・ジャスティン。23歳。
アイルランド系移民の末裔。両親は早くに他界。
その日暮らしの、しがない新聞配達員。
「俺が、白人の若者に……憑依したのか?」
非科学的な事象だが、特戦隊員たるもの、いかなる極限状況でも「今ある現実」を即座に受け入れなければ死ぬ。
坂上は足元に転がっていた、ジャックが配達するはずだった新聞の束を拾い上げた。
薄明かりに照らされた一面の印字を見て、坂上の心臓が大きく跳ねた。
『The New York Times』
――1937年。
「1937年、だと……?」
声に出した瞬間、全身の血が沸騰するような悪寒に襲われた。
1937年。太平洋戦争が開戦する、わずか数年前のアメリカ・ニューヨーク。
坂上の脳裏に、凄惨な歴史の事実がフラッシュバックする。
このまま歴史が動けば、日本は泥沼の戦争へと突入する。
東京は大空襲で焼け野原になり、愛する故郷である広島には、あの忌まわしい原子爆弾が落とされる。
祖父は特攻隊員として、南の海で無念の死を遂げることになる。
そしてなにより、このまま歴史が「史実通り」に進めば、未来で出会うはずの妻の明子も、愛娘の真奈美も、この世に生まれてこないかもしれないのだ。
「……冗談じゃない」
坂上は、ぐしゃりと新聞を握りつぶした。
路地裏の冷たい風が吹く中、ジャック・ジャスティンという若者の青い瞳の奥に、かつて極秘任務で幾人もの命を刈り取ってきた「特戦群の鬼」の光が宿る。
原爆投下。本土決戦。無条件降伏。
そんなふざけた未来、断じて迎えさせるものか。
「俺が、すべて叩き潰す」
標的は、この巨大な超大国アメリカそのもの。
開戦までに、米軍の中枢を担う「有能な頭脳」をすべて闇に葬り去る。
そして、無能な連中を生かして内部から腐敗させる。
たった一人。誰の支援もない、絶対に知られてはならない孤独な戦争。
だが、守るべき者のためならば、坂上真一は喜んで歴史の悪鬼になる覚悟があった。
新聞を入れたずだ袋を肩に担ぎ、坂上――いや、ジャック・ジャスティンは、夜明け前のニューヨークの街へと静かに歩き出した。




