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一夜分の隣

作者: 稲神蘭
掲載日:2025/12/25

永遠を約束しない、触れない名前も呼ばない、でも、その夜だけは確かに隣にいる。

毎年恒例のクリぼっち……今年でもう何年目だろうか。


数えようとしたことは、確かに何度もある。

指を折ってみて、途中でやめて、また別の日に思い出して、やっぱりやめる。その繰り返しだった。数えたところで何かが変わるわけでもないし、数字が増えた事実に耐えられるほど、私は強くもなかった。


最初の頃は、少しだけ寂しいという程度だった。

二十歳を過ぎてすぐのクリスマスは、友達と予定が合わなかっただけ、仕事が忙しかっただけ、そうやって理由を並べることができた。自分自身も、周囲も、それで納得してくれた。


けれど、年を重ねるにつれて、クリスマスはだんだんと質の違う日になっていった。


「誰かと過ごすのが当たり前の日」。

そういう前提が、年々、露骨になっていく。


十二月二十四日。

街は今年も、疑いようもなく幸福だった。


駅前に立つ巨大なツリーは、白と金の光を惜しげもなく放ち、通りを行き交う人々を照らしている。肩を寄せ合う恋人たち、子どもの手を引く家族、仲間同士で笑い合う若者たち。誰もが「一人ではない」ことを当然のように受け入れて、この夜を生きている。


私は、その光の外側を歩いていた。


仕事は定時で終わった。

特別忙しかったわけでもないし、引き止められる理由もなかった。むしろ、さっさと帰る前提でスケジュールが組まれていたようにさえ感じる。


スマートフォンを確認する。

通知は、業務連絡とアプリの自動メッセージだけ。メッセージアプリを開いて、閉じる。開いて、閉じる。意味のない動作を、何度も繰り返した。


誰かに連絡を取ろうとしたわけじゃない。

ただ、「何も起きていない」という事実を、もう一度確認したかっただけだ。


家に帰れば、ワンルームの部屋が待っている。

コンビニで買った弁当を電子レンジで温めて、テレビか動画を流し見しながら食べる。それが、ここ数年のクリスマスだった。


それが分かっているからこそ、今日はどうしても、まっすぐ帰る気になれなかった。


「……帰りたくないな」


ぽつりとこぼした声は、イルミネーションのざわめきに飲み込まれて消えた。


私は人の流れから外れ、駅から少し離れた道へと足を向けた。

不思議なことに、その瞬間から、胸の奥に溜まっていたざわつきが、ほんの少しだけ静まった。


人が減る。

光が減る。

代わりに、夜の輪郭がはっきりしてくる。


──そういえば。


ふと、思い出した。


子どもの頃、祖母に連れられてよく行った神社があった。住宅街の奥、坂の上にあって、境内には狐の像が二体並んでいた。年末になると必ず参拝して、祖母は決まって言った。


「狐さまに、ご挨拶しようね」


当時は意味も分からず、ただ頷いていた。

でも、祖母の手はいつも温かくて、あの神社に行くと、なぜか安心したのを覚えている。


祖母が亡くなってから、もう何年も経つ。

あの神社に行くことも、いつの間にかなくなっていた。


今も、あるだろうか。


そんなことを考えながら歩いているうちに、足は自然とその方向へ向かっていた。自分で決めたというより、引き寄せられるような感覚だった。


街の光は少しずつ遠のき、道は暗くなる。

坂道に入ると、街灯の数も減り、足音がやけに大きく聞こえた。吐く息が白くなり、気づけば空から細かな雪が舞い始めている。


「雪…?」


今年は降らないと、天気予報で言っていたはずなのに。


雪は音もなく、ただ静かに落ちてくる。イルミネーションの下では騒がしかった世界が、ここでは嘘のように静まり返っていた。


坂を上りきると、鳥居が見えた。


赤は色あせ、しめ縄も古い。けれど、それは確かに、記憶の中の神社だった。

変わっていないところと、変わってしまったところ。その両方が、胸の奥をくすぐる。


境内には誰もいない。

参拝客どころか、足跡すらほとんど残っていなかった。雪がすべての音を吸い込み、世界が一枚の白い布で包まれたように静止している。


私は賽銭箱の前に立ち、財布から小銭を取り出した。


願い事は、特に思いつかなかった。


健康

仕事

恋愛


どれも、今の自分にはどこか現実味がなかった。


ただ、手を合わせて、目を閉じる。


──今年も、なんとか生きました。


それだけでいい。

それ以上を望むほど、私は欲張りじゃない。


そう思った、その瞬間。


「……そんなお願い、久しぶりに聞いたわ」


背後から、女の声がした。


心臓が、はっきりと音を立てて跳ねる。


振り返ろうとしたのに、体が一瞬、固まった。

雪の夜に似合いすぎる、静かな声だったからだ。


誰かがいるはずのない時間。

誰もいないはずの境内。


「……誰……?」


かろうじて声を絞り出す。


返事はなかった。

けれど、確かに「気配」はあった。


背中が、じんわりと熱を帯びる。

怖い、という感情よりも先に、不思議な安心感が胸に広がっていた。


私は、ゆっくりと振り返った。


そこから先の夜が、

私の「いつものクリスマス」を、静かに壊していくことになるとは

まだ、この時の私は知らなかった。





振り返った先に、彼女はいた。


境内の石段に腰を下ろし、雪を受け止めるように静かに座っている。深い色合いの上着は夜に溶け込み、存在だけが輪郭を持って浮かび上がっていた。


柔らかな茶色の短い髪が、淡く街灯の光を反射している。前髪の隙間から覗く金色がかった瞳は、まっすぐこちらを見ていた。


そして

頭の上には、髪と同じ色をした狐の耳が、確かにそこにあった。


作り物には見えない。

かといって、現実とも言い切れない。


耳は小さく揺れ、まるで私の反応を測っているようだった。


「……見えているのね」


彼女はそう言って、わずかに口元を緩めた。


声は低すぎず高すぎず、夜の静けさに自然に溶ける音だった。恐怖よりも先に、胸の奥がじんわりと温かくなる。


「……誰……?」


もう一度そう尋ねると、彼女は肩をすくめた。


「名乗るほどの者じゃないわ。でも……」


一瞬、言葉を選ぶように間を置く。


「この神社では、“よい”と呼ばれている」


宵。

その名前は、どこか時間そのものを指しているようだった。


「……狐……なんですか」


「ええ。正確には、狐“だった”もの」


彼女は軽く耳を触りながら言った。


「今は、夜にだけ姿を借りている存在、というところかしら」


理解が追いつかないはずなのに、不思議と拒否感はなかった。

怖いと思うよりも先に、「ああ、そうなんだ」と納得してしまう。


「立ったままだと、冷えるわ」


宵は石段を軽く叩く。


「座りなさい。夜は長い」


迷いながらも、私は彼女の隣に腰を下ろした。

距離は、腕一つ分ほど。近すぎず、遠すぎない。


雪は静かに降り続け、狐像の耳や肩に白く積もっていく。

この時間だけ、世界が切り取られているようだった。


「……私、夢を見てるんでしょうか」


「そう思いたいなら、それでいいわ」


宵は空を見上げる。


「でも、夢にしては、あなたの顔は随分と現実的ね」


「……よく言われます」


苦笑すると、宵も少しだけ笑った。


「ねえ」


彼女が、こちらを見る。


「どうして、ここに来たの?」


簡単な質問のはずなのに、答えに詰まった。

頭の中には理由がいくつも浮かぶのに、どれも言葉にすると薄っぺらくなる。


「……家に、帰りたくなかったから」


「それだけ?」


「……それだけ、です」


嘘はなかった。

でも、全部でもなかった。


宵は否定しなかった。

ただ、雪を見るように、少しだけ視線を外す。


「人は、不思議ね」


「……どういう意味ですか」


「独りでいることを、そんなにも悪いことだと思う」


胸が、きゅっと締めつけられた。


「……だって……」


言葉に詰まる。


独りが嫌なわけじゃない。

独りで映画を見るのも、独りでご飯を食べるのも、嫌いじゃない。


ただ――

独りでいる自分を、価値がないみたいに扱われるのが、少しずつ、耐えられなくなっただけだ。


「私は、何百年もここにいるわ」


宵の声は、静かだった。


「誰も来ない夜も、雪の日も、嵐の日もある。名前を呼ばれることもなく、忘れられた年もたくさんあった」


彼女は、狐の耳をわずかに伏せる。


「でもね」


小さく息を吸って、続ける。


「夜はちゃんと巡るの。誰にも見られなくても、止まることなく巡る。」


その言葉は、胸の奥に静かに沈んだ。


「……寂しくないんですか」


そう聞くと、宵は少しだけ困ったように笑った。


「寂しさを知らないと言ったら、嘘になる」


「……」


「でも、寂しいからこそ、誰かがここに来た夜は、忘れられない」


宵は、ゆっくりとこちらを見る。


「あなたみたいな人が、ね」


視線が重なった瞬間、胸の奥が、きゅっと音を立てた気がした。


「……私、変ですか」


「いいえ」


間髪入れずに、宵は答えた。


「あなたは、ちゃんとここに来た。それだけで、十分よ」


それは、今まで誰にも言われなかった言葉だった。


時計を見ると、日付が変わるまで、あと少ししかない。


雪は、相変わらず静かに降っている。


「……もう、行かないと」


名残惜しさを隠せないまま、そう言うと、宵は立ち上がった。


「ええ」


狐の耳が、わずかに揺れる。


「夜は、永遠じゃないもの」


「また……来てもいいですか」


「来られるなら」


「……見えなくなっても?」


宵は、少しだけ微笑んだ。


「見えなくなっても、私はここにいる」


そして、静かに言う。


その瞬間、風が吹いた。


雪が舞い上がり、視界が白に包まれる。





風が止んだとき、境内には私一人だけが立っていた。


ほんの数秒前まで、確かにそこに宵がいた。

石段に座り、狐の耳を揺らし、私の言葉を聞いていた。


けれど今は、雪の降る音だけが残っている。


「……いない」


そう口に出してみて、ようやく実感が追いついた。


狐の宵は、夜の存在だ。

夜が深まり、日付が変われば、彼女は姿を失う。


分かっていたはずなのに、胸の奥に小さな穴が空いたような感覚があった。


境内を見回す。


狐像は相変わらず同じ場所に立ち、雪をかぶっている。

賽銭箱も、鳥居も、何も変わらない。


けれど、石段の一角にだけ、雪の積もっていない場所があった。


──誰かが、そこに座っていた跡。


私はゆっくりと息を吸い込み、その場所を見つめた。


「……ありがとう」


誰に向けた言葉かは、分からない。

それでも、言わずにはいられなかった。


境内を後にし、坂道を下り始める。

雪はいつの間にか弱まり、足元に静かに積もっていた。


街に近づくにつれて、光と音が戻ってくる。

イルミネーション、笑い声、音楽。


少し前まで、それらは私を追い詰めるものだった。

けれど今は、遠くから眺めている分には、ただの景色に見えた。


家に着き、鍵を開ける。


ワンルームの部屋は、相変わらず静かだ。

コートを脱ぎ、照明をつけ、靴を揃える。


コンビニで買ってきた弁当を電子レンジに入れ、温める。

いつもと同じ行動。


それなのに、不思議と胸は軽かった。


「……今年も、なんとか生きました」


声に出して言ってみる。


宵の前で呟いた言葉が、今は少しだけ重みを持って響いた。


その夜、私は久しぶりに、夢を見ずに眠った。




それから、一年が過ぎた。


季節は巡り、仕事に追われ、特別な出来事もないまま日々は流れた。

けれど、ふとした瞬間に、あの夜を思い出すことがあった。


雪の音。

狐の耳。

「あなたは、ちゃんとここに来た」という言葉。


そして、再び十二月二十四日がやってきた。


街は相変わらず、幸福で満ちている。

けれど私は、去年ほどその光を眩しいとは感じなかった。


今年も、予定はない。

今年も、一人だ。


それでも、足は自然とあの道へ向かっていた。


坂を上り、鳥居をくぐる。

境内には、去年と同じ静けさがあった。


「……こんばんは」


誰もいないと分かっていても、そう言った。


賽銭箱の前に立ち、手を合わせる。


願い事は、相変わらず浮かばない。


「今年も、生きています。」


 目を閉じた、そのとき。


「……去年より、声がちゃんとしているわね」


聞き覚えのある声がした。


心臓が、大きく跳ねる。


振り返ると、そこに宵はいた。


深い色の上着に、柔らかな茶色の髪。

狐の耳は、去年と同じように夜に溶け込んでいる。


「……宵……」


「ええ」


彼女は、穏やかに微笑んだ。


「来たのね。今年も」


「……来ました」


去年よりも、言葉がはっきり出た。


石段に並んで腰を下ろす。

距離は、去年よりも少し近かった。


「独りは、相変わらず?」


「……はい」


宵は、それを否定しない。


「でも、顔が違う」


「……そうですか」


「ええ。去年は、独りでいることを責めていた顔。

 今は……独りで立っている顔」


その言葉に、胸の奥が温かくなった。


「私、去年よりも、少しだけ楽になりました」


「それは良かった」


「でも、やっぱり寂しい夜もあります」


宵は、狐の耳を揺らす。


「それでいいのよ」


「……?」


「独りを選ぶことと、寂しさを感じることは、矛盾しない」


その言葉は、静かで、優しかった。


それから私たちはずっと二人で話していた。


ふと時計を見ると、もうすぐ日付が変わる。


「……また、消えますか」


「ええ」


 宵は笑う。


「私は、宵だから」


「でも……来年も、来ます」


「来られるなら」


「見えなくなっても?」


去年と同じ問い。


宵は、去年と同じ答えをくれた。


「見えなくなっても、私はここにいる」


そして、少しだけ付け足す。


「あなたが、あなたでいる限り」


風が吹く。


雪が舞い、視界が白に包まれる。


次の瞬間、宵の姿は消えていた。


けれど、もう不安はなかった。


私は深く息を吸い、神社を後にする。


街の光は、相変わらず賑やかだ。

けれど、今年はその中を、少しだけ胸を張って歩けた。


毎年恒例のクリぼっち。


その言葉は、もう自嘲ではない。


それは、私が私として夜を越えてきた、静かな証だった。


狐の宵は、きっと今もあの神社にいる。


夜が訪れるたび、

独りで歩く誰かの足音を、優しく迎えながら。

みなさん、クリスマスはどうお過ごしですか?

私は宵と会う前の主人公と同じ生活をしています。

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