一夜分の隣
永遠を約束しない、触れない名前も呼ばない、でも、その夜だけは確かに隣にいる。
毎年恒例のクリぼっち……今年でもう何年目だろうか。
数えようとしたことは、確かに何度もある。
指を折ってみて、途中でやめて、また別の日に思い出して、やっぱりやめる。その繰り返しだった。数えたところで何かが変わるわけでもないし、数字が増えた事実に耐えられるほど、私は強くもなかった。
最初の頃は、少しだけ寂しいという程度だった。
二十歳を過ぎてすぐのクリスマスは、友達と予定が合わなかっただけ、仕事が忙しかっただけ、そうやって理由を並べることができた。自分自身も、周囲も、それで納得してくれた。
けれど、年を重ねるにつれて、クリスマスはだんだんと質の違う日になっていった。
「誰かと過ごすのが当たり前の日」。
そういう前提が、年々、露骨になっていく。
十二月二十四日。
街は今年も、疑いようもなく幸福だった。
駅前に立つ巨大なツリーは、白と金の光を惜しげもなく放ち、通りを行き交う人々を照らしている。肩を寄せ合う恋人たち、子どもの手を引く家族、仲間同士で笑い合う若者たち。誰もが「一人ではない」ことを当然のように受け入れて、この夜を生きている。
私は、その光の外側を歩いていた。
仕事は定時で終わった。
特別忙しかったわけでもないし、引き止められる理由もなかった。むしろ、さっさと帰る前提でスケジュールが組まれていたようにさえ感じる。
スマートフォンを確認する。
通知は、業務連絡とアプリの自動メッセージだけ。メッセージアプリを開いて、閉じる。開いて、閉じる。意味のない動作を、何度も繰り返した。
誰かに連絡を取ろうとしたわけじゃない。
ただ、「何も起きていない」という事実を、もう一度確認したかっただけだ。
家に帰れば、ワンルームの部屋が待っている。
コンビニで買った弁当を電子レンジで温めて、テレビか動画を流し見しながら食べる。それが、ここ数年のクリスマスだった。
それが分かっているからこそ、今日はどうしても、まっすぐ帰る気になれなかった。
「……帰りたくないな」
ぽつりとこぼした声は、イルミネーションのざわめきに飲み込まれて消えた。
私は人の流れから外れ、駅から少し離れた道へと足を向けた。
不思議なことに、その瞬間から、胸の奥に溜まっていたざわつきが、ほんの少しだけ静まった。
人が減る。
光が減る。
代わりに、夜の輪郭がはっきりしてくる。
──そういえば。
ふと、思い出した。
子どもの頃、祖母に連れられてよく行った神社があった。住宅街の奥、坂の上にあって、境内には狐の像が二体並んでいた。年末になると必ず参拝して、祖母は決まって言った。
「狐さまに、ご挨拶しようね」
当時は意味も分からず、ただ頷いていた。
でも、祖母の手はいつも温かくて、あの神社に行くと、なぜか安心したのを覚えている。
祖母が亡くなってから、もう何年も経つ。
あの神社に行くことも、いつの間にかなくなっていた。
今も、あるだろうか。
そんなことを考えながら歩いているうちに、足は自然とその方向へ向かっていた。自分で決めたというより、引き寄せられるような感覚だった。
街の光は少しずつ遠のき、道は暗くなる。
坂道に入ると、街灯の数も減り、足音がやけに大きく聞こえた。吐く息が白くなり、気づけば空から細かな雪が舞い始めている。
「雪…?」
今年は降らないと、天気予報で言っていたはずなのに。
雪は音もなく、ただ静かに落ちてくる。イルミネーションの下では騒がしかった世界が、ここでは嘘のように静まり返っていた。
坂を上りきると、鳥居が見えた。
赤は色あせ、しめ縄も古い。けれど、それは確かに、記憶の中の神社だった。
変わっていないところと、変わってしまったところ。その両方が、胸の奥をくすぐる。
境内には誰もいない。
参拝客どころか、足跡すらほとんど残っていなかった。雪がすべての音を吸い込み、世界が一枚の白い布で包まれたように静止している。
私は賽銭箱の前に立ち、財布から小銭を取り出した。
願い事は、特に思いつかなかった。
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どれも、今の自分にはどこか現実味がなかった。
ただ、手を合わせて、目を閉じる。
──今年も、なんとか生きました。
それだけでいい。
それ以上を望むほど、私は欲張りじゃない。
そう思った、その瞬間。
「……そんなお願い、久しぶりに聞いたわ」
背後から、女の声がした。
心臓が、はっきりと音を立てて跳ねる。
振り返ろうとしたのに、体が一瞬、固まった。
雪の夜に似合いすぎる、静かな声だったからだ。
誰かがいるはずのない時間。
誰もいないはずの境内。
「……誰……?」
かろうじて声を絞り出す。
返事はなかった。
けれど、確かに「気配」はあった。
背中が、じんわりと熱を帯びる。
怖い、という感情よりも先に、不思議な安心感が胸に広がっていた。
私は、ゆっくりと振り返った。
そこから先の夜が、
私の「いつものクリスマス」を、静かに壊していくことになるとは
まだ、この時の私は知らなかった。
□
振り返った先に、彼女はいた。
境内の石段に腰を下ろし、雪を受け止めるように静かに座っている。深い色合いの上着は夜に溶け込み、存在だけが輪郭を持って浮かび上がっていた。
柔らかな茶色の短い髪が、淡く街灯の光を反射している。前髪の隙間から覗く金色がかった瞳は、まっすぐこちらを見ていた。
そして
頭の上には、髪と同じ色をした狐の耳が、確かにそこにあった。
作り物には見えない。
かといって、現実とも言い切れない。
耳は小さく揺れ、まるで私の反応を測っているようだった。
「……見えているのね」
彼女はそう言って、わずかに口元を緩めた。
声は低すぎず高すぎず、夜の静けさに自然に溶ける音だった。恐怖よりも先に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「……誰……?」
もう一度そう尋ねると、彼女は肩をすくめた。
「名乗るほどの者じゃないわ。でも……」
一瞬、言葉を選ぶように間を置く。
「この神社では、“宵”と呼ばれている」
宵。
その名前は、どこか時間そのものを指しているようだった。
「……狐……なんですか」
「ええ。正確には、狐“だった”もの」
彼女は軽く耳を触りながら言った。
「今は、夜にだけ姿を借りている存在、というところかしら」
理解が追いつかないはずなのに、不思議と拒否感はなかった。
怖いと思うよりも先に、「ああ、そうなんだ」と納得してしまう。
「立ったままだと、冷えるわ」
宵は石段を軽く叩く。
「座りなさい。夜は長い」
迷いながらも、私は彼女の隣に腰を下ろした。
距離は、腕一つ分ほど。近すぎず、遠すぎない。
雪は静かに降り続け、狐像の耳や肩に白く積もっていく。
この時間だけ、世界が切り取られているようだった。
「……私、夢を見てるんでしょうか」
「そう思いたいなら、それでいいわ」
宵は空を見上げる。
「でも、夢にしては、あなたの顔は随分と現実的ね」
「……よく言われます」
苦笑すると、宵も少しだけ笑った。
「ねえ」
彼女が、こちらを見る。
「どうして、ここに来たの?」
簡単な質問のはずなのに、答えに詰まった。
頭の中には理由がいくつも浮かぶのに、どれも言葉にすると薄っぺらくなる。
「……家に、帰りたくなかったから」
「それだけ?」
「……それだけ、です」
嘘はなかった。
でも、全部でもなかった。
宵は否定しなかった。
ただ、雪を見るように、少しだけ視線を外す。
「人は、不思議ね」
「……どういう意味ですか」
「独りでいることを、そんなにも悪いことだと思う」
胸が、きゅっと締めつけられた。
「……だって……」
言葉に詰まる。
独りが嫌なわけじゃない。
独りで映画を見るのも、独りでご飯を食べるのも、嫌いじゃない。
ただ――
独りでいる自分を、価値がないみたいに扱われるのが、少しずつ、耐えられなくなっただけだ。
「私は、何百年もここにいるわ」
宵の声は、静かだった。
「誰も来ない夜も、雪の日も、嵐の日もある。名前を呼ばれることもなく、忘れられた年もたくさんあった」
彼女は、狐の耳をわずかに伏せる。
「でもね」
小さく息を吸って、続ける。
「夜はちゃんと巡るの。誰にも見られなくても、止まることなく巡る。」
その言葉は、胸の奥に静かに沈んだ。
「……寂しくないんですか」
そう聞くと、宵は少しだけ困ったように笑った。
「寂しさを知らないと言ったら、嘘になる」
「……」
「でも、寂しいからこそ、誰かがここに来た夜は、忘れられない」
宵は、ゆっくりとこちらを見る。
「あなたみたいな人が、ね」
視線が重なった瞬間、胸の奥が、きゅっと音を立てた気がした。
「……私、変ですか」
「いいえ」
間髪入れずに、宵は答えた。
「あなたは、ちゃんとここに来た。それだけで、十分よ」
それは、今まで誰にも言われなかった言葉だった。
時計を見ると、日付が変わるまで、あと少ししかない。
雪は、相変わらず静かに降っている。
「……もう、行かないと」
名残惜しさを隠せないまま、そう言うと、宵は立ち上がった。
「ええ」
狐の耳が、わずかに揺れる。
「夜は、永遠じゃないもの」
「また……来てもいいですか」
「来られるなら」
「……見えなくなっても?」
宵は、少しだけ微笑んだ。
「見えなくなっても、私はここにいる」
そして、静かに言う。
その瞬間、風が吹いた。
雪が舞い上がり、視界が白に包まれる。
□
風が止んだとき、境内には私一人だけが立っていた。
ほんの数秒前まで、確かにそこに宵がいた。
石段に座り、狐の耳を揺らし、私の言葉を聞いていた。
けれど今は、雪の降る音だけが残っている。
「……いない」
そう口に出してみて、ようやく実感が追いついた。
狐の宵は、夜の存在だ。
夜が深まり、日付が変われば、彼女は姿を失う。
分かっていたはずなのに、胸の奥に小さな穴が空いたような感覚があった。
境内を見回す。
狐像は相変わらず同じ場所に立ち、雪をかぶっている。
賽銭箱も、鳥居も、何も変わらない。
けれど、石段の一角にだけ、雪の積もっていない場所があった。
──誰かが、そこに座っていた跡。
私はゆっくりと息を吸い込み、その場所を見つめた。
「……ありがとう」
誰に向けた言葉かは、分からない。
それでも、言わずにはいられなかった。
境内を後にし、坂道を下り始める。
雪はいつの間にか弱まり、足元に静かに積もっていた。
街に近づくにつれて、光と音が戻ってくる。
イルミネーション、笑い声、音楽。
少し前まで、それらは私を追い詰めるものだった。
けれど今は、遠くから眺めている分には、ただの景色に見えた。
家に着き、鍵を開ける。
ワンルームの部屋は、相変わらず静かだ。
コートを脱ぎ、照明をつけ、靴を揃える。
コンビニで買ってきた弁当を電子レンジに入れ、温める。
いつもと同じ行動。
それなのに、不思議と胸は軽かった。
「……今年も、なんとか生きました」
声に出して言ってみる。
宵の前で呟いた言葉が、今は少しだけ重みを持って響いた。
その夜、私は久しぶりに、夢を見ずに眠った。
それから、一年が過ぎた。
季節は巡り、仕事に追われ、特別な出来事もないまま日々は流れた。
けれど、ふとした瞬間に、あの夜を思い出すことがあった。
雪の音。
狐の耳。
「あなたは、ちゃんとここに来た」という言葉。
そして、再び十二月二十四日がやってきた。
街は相変わらず、幸福で満ちている。
けれど私は、去年ほどその光を眩しいとは感じなかった。
今年も、予定はない。
今年も、一人だ。
それでも、足は自然とあの道へ向かっていた。
坂を上り、鳥居をくぐる。
境内には、去年と同じ静けさがあった。
「……こんばんは」
誰もいないと分かっていても、そう言った。
賽銭箱の前に立ち、手を合わせる。
願い事は、相変わらず浮かばない。
「今年も、生きています。」
目を閉じた、そのとき。
「……去年より、声がちゃんとしているわね」
聞き覚えのある声がした。
心臓が、大きく跳ねる。
振り返ると、そこに宵はいた。
深い色の上着に、柔らかな茶色の髪。
狐の耳は、去年と同じように夜に溶け込んでいる。
「……宵……」
「ええ」
彼女は、穏やかに微笑んだ。
「来たのね。今年も」
「……来ました」
去年よりも、言葉がはっきり出た。
石段に並んで腰を下ろす。
距離は、去年よりも少し近かった。
「独りは、相変わらず?」
「……はい」
宵は、それを否定しない。
「でも、顔が違う」
「……そうですか」
「ええ。去年は、独りでいることを責めていた顔。
今は……独りで立っている顔」
その言葉に、胸の奥が温かくなった。
「私、去年よりも、少しだけ楽になりました」
「それは良かった」
「でも、やっぱり寂しい夜もあります」
宵は、狐の耳を揺らす。
「それでいいのよ」
「……?」
「独りを選ぶことと、寂しさを感じることは、矛盾しない」
その言葉は、静かで、優しかった。
それから私たちはずっと二人で話していた。
ふと時計を見ると、もうすぐ日付が変わる。
「……また、消えますか」
「ええ」
宵は笑う。
「私は、宵だから」
「でも……来年も、来ます」
「来られるなら」
「見えなくなっても?」
去年と同じ問い。
宵は、去年と同じ答えをくれた。
「見えなくなっても、私はここにいる」
そして、少しだけ付け足す。
「あなたが、あなたでいる限り」
風が吹く。
雪が舞い、視界が白に包まれる。
次の瞬間、宵の姿は消えていた。
けれど、もう不安はなかった。
私は深く息を吸い、神社を後にする。
街の光は、相変わらず賑やかだ。
けれど、今年はその中を、少しだけ胸を張って歩けた。
毎年恒例のクリぼっち。
その言葉は、もう自嘲ではない。
それは、私が私として夜を越えてきた、静かな証だった。
狐の宵は、きっと今もあの神社にいる。
夜が訪れるたび、
独りで歩く誰かの足音を、優しく迎えながら。
みなさん、クリスマスはどうお過ごしですか?
私は宵と会う前の主人公と同じ生活をしています。




