03. エンカウント
四月の半ばに入り、Q:UAR7Zのツアーも開幕から既に一か月は経っている。
僕は三月、初日と二日目の大阪公演には参戦していたが、そこから今日の神奈川公演までの数公演は行けなかった。悲しいかな、学生バイトの身では公演を全通できるほどの財力がないのだ。できる限りの出費は抑えているものの、チケット代以外でかかる諸経費のことを考えると、遠征するにしても東京からアクセスのしやすい箇所に限られてしまう。
今回のツアーで僕がチケットを取ったのは、大阪・宮城・神奈川・千葉・東京・静岡の10公演分──これは、Q:UAR7Zのライブツアーはいち会場ごとに二日で2公演行うのが定番となっているためだ。チケット代が定価で12,000円。それにシステム手数料やら何やらで大体1,000円くらいが加算される。これだけで13万円だ。
チケットの当選が決まった時点で公演日に関係なく一括で即座に引き落とされるシステムのため、支払いさえ乗り切っていれば当日の僕は無料でライブを楽しむことができる。この点に関して、当初は普段は支払うことのない桁の額に戦々恐々としていたが、金額よりも価値があるパフォーマンスを見るためなのだから、妥当なトレードオフだ。
うんうんと独りでに頷きながら、チケット発券のお知らせメールを開封する。本来、公演日の三日前には届いているものなのだが、「どうせ、どの座席でも行くことに変わりないから当日見ればいいだろう」という考えで、いつも家を出る前に座席確認をしている。
今日の座席──2階スタンド4列目。A1入り口。
個人的にはすごく当たりだ。アリーナ席よりも数段高い位置の上に、推しの芹澤聖がよく立ち位置になる上手側。
正直、今日は座席がどこかよりも、「くろさんとの約束の日」ということに気を取られていたから、物欲センサーに引っかからなかったのかもしれない。
ツアーグッズであるショルダーバッグの中に、財布・スマホ・ペンラ・双眼鏡など必要最低限のものをいつものように詰め込んで、靴を履きかけたところで忘れ物に気づく。
「あぶな、交換用のフォトカ……!」
カードが裸のままで渡すのはマナー的にどうなんだろうとインターネットで調べ、スリーブと厚紙で丁重に包装したうえで封筒に入れてまでおいたのに忘れるなんて。電車に乗る前に気づけて良かった。折り目をつけないように、そっとバッグの内ポケットに差し込む。
「忘れ物、ない……よね」
ファスナーを閉じる前にもう一度、確認を行う。今度はもう、大丈夫そうだった。
***
自宅から会場最寄り駅までは約1時間。
くろさんとは開演の30分前に会う手筈となっていた。電車の遅延情報は特になく、問題がなければあと数十分後にはご対面することになる。
空いていたからと電車内の椅子に座ったはいいものの、そわそわとしてしまって無意味にSNSのタイムラインの更新を行ってしまうし、スリープ状態にしては無駄に前髪を気にしてしまう。軽く人差し指で髪を掴んで流していると、突如として黒くなっていた画面が明るく点灯する。
『着いたら教えてね』
『今日は全身黒い服になっちゃったから、目立つかも笑』
続けざまに送られてくるメッセージを見て、僕は何だか少し安心した。
なぜかというと自分の服装もツアーTシャツ以外は全て黒になってしまっていたからだ。オタクは黒を選びがちという通説はあるが、くろさんも例に漏れないらしい。
会場の最寄り駅に到着したことを連絡して、くろさんが今、会場のどの辺りにいるかを尋ねる。つい最近ライブに来るようになったくろさんより、この会場にはもう5、6回足を運んだことのある僕が探して合流する方が早いと思ったのだ。
『駅、着きました! 今からそっち向かうんで、その場から見えるものとか建物とか教えてください』
『入場口の近くにいるよ。左側にコンビニが見えてて、右のほうはグッズ販売の案内板』
『わかりました。5分ぐらいで着くと思います』
メッセージを送信してすぐに、親指を立てた猫のスタンプが送られてきた。
開演時間が近づいているからか、会場付近の人も少しずつ増えだしている。人波の隙間を縫うように足早に歩を進めた。けれど、入場口近くならわかりやすい。すぐに合流できるだろう。
──なんて、楽観視していたのも束の間のことだった。
***
(……ど、どうしよう)
女性たちが壁に寄り掛かったり、その近くで座り込んで会場待ちをしている中で頭ひとつふたつ飛び出ているその人。
メッセージ通りに黒のツアーTシャツを着ているし、黒のスラックスを履いているし、スニーカーもバッグも真っ黒だった。どう考えても、くろさんである。しかし、緩くかけたパーマをワックスか何かで流したようなオシャレな髪型や、レンズに薄く色のついている高そうなサングラスをかけている身長170後半から180前半の男性──これは目測だが──に、躊躇いなく話しかけれる人間がどこに存在するというのだろう。
人違いであれば良かったのだが、僕の視界に入ってから彼は片手に持ったスマホへ定期的に視線を落とし、時折周囲に気を配っている。どう見ても、誰かと待ち合わせをしている様子だ。
(いかつい、怖い、無理かも)
すみません、人が多すぎて見つけられなかったのでフォトカードは後日郵送する形でもいいですか? そう、メッセージを送ろうかと思った瞬間だった。
バチッ。
──音がした。確実に。聞こえてしまった、彼と目が合った音が。
サングラスの奥にある目が、少しずつ見開かれる。
(あ、)
吸い寄せられるように、足が前に進んでいく。爆発しそうなくらいドクドクと音を立てる心臓のせいで、どうにかなりそうだった。
「人違いだったら、すみません。……『くろ』さん、ですか?」
目線は彼の手に握られたスマホに向けたまま。ぼそぼそとした聞き取りづらい声。彼が全くの別人なら最悪だし、くろさんだとしても第一印象は最悪だろう。返答までのコンマ数秒ですら、時が止まったように長く感じる。
「はい。こうやって会うのは初めましてっすね、『煮卵』さん」
聞きなれた低い声に、思わず顔をあげる。手慣れた様子でサングラスをネックレスの先端に引っ掛けた彼は、花が綻ぶような笑顔を浮かべた。
「は、初めまして」
「待ち合わせ時間になるにつれて人がめっちゃ増えたんでビビりました。もう少し、人のいないとこで待ち合わせたほうが良かったですよね?」
純粋な言葉が心に突き刺さる。実際は僕が話しかけるのに二の足踏んで時間を無駄にしていただけで、くろさんが悪い部分はひとつもないのだ。
「違うんです……! 僕が人見知りしちゃったから」
罪悪感から本音がぽろりとこぼれる。すると、彼は弾かれたように笑い出した。
「あははっ、素直ー。そこは言い訳しても良かったのに」
「さすがに申し訳なくて。でも、サングラスなんて目立つもの着けてるなら前もって言ってください」
「え。……あー、確かに。じゃあ、この件はおあいこってことで」
流れるような仕草で、くろさんは僕の頭を軽くポンポンと撫でる。急な感触に思わず肩が跳ねた。パーソナルスペースがかなり狭い人なんだろうか。
「あ、あと15分くらいで開演になっちゃうし、とりあえず交換だけでもしときましょ」
くろさんの言葉に頷いてバッグから封筒を取り出す。手渡されたのは、開封跡はあるもののほとんど新品同様の銀袋だった。
「一応、中身が合ってるかの確認だけしといてもらってもいい?」
「はい。あの、僕、結構しっかりめに包装しちゃったんですけど、平気ですか?」
「んー? 大丈夫そうっすよ。……うん、颯くんのが入ってるの確認できました! 煮卵さんは大丈夫だった?」
粘着テープを剥がし、中身を確認する。
「え、これ」
約束通り、推し・芹澤聖のフォトカードが入っていた。
けれど、通常のものとは違う。シークレットのサイン入りのものだ。僕がくろさんに手渡した常盤颯くんのフォトカードは通常種で、シークレットではないのに。これは対等な交換とは言えない。
「さすがにもらえないです、お金……」
慌ててフォトカードを銀袋の中に戻して、財布を掴もうとした僕にくろさんが声をかける。
「聖くん推しの人が持ってたほうがいいと思うんで、もらってください」
「でも……」
「じゃあ、今度カラオケとかコラボカフェとか一緒に行って、ドリンクとか奢ってくださいよ!」
押し切られる形で財布をバッグの中に戻す。
いつの間にか「次」の約束をしていることに気づかないまま。
周囲は先ほどよりもさらに大量の人で溢れていた。
拡声器を持ったスタッフが、「開演15分前ですー! お早めにご入場くださーい!」とアナウンスを繰り返す。
「……あ、そろそろ入場しないとまずそうです」
「そうっすね。僕アリーナBブロックなんですけど、煮卵さんは?」
「僕はスタンドだから、別の入場口に行かないと」
「残念! ……じゃあ、またそのうち今日のライブのこととかいっぱい話しましょう」
「はい。じゃあまた」
軽く手を振り、くろさんと別れる。
スタンド席の入場口では、空いている入場レーンへと進み、早々に手荷物検査を行う。身分証を提示し、QRコードをかざせば、スムーズに会場内に入ることができた。
開演時間はもう、あと10分を切っているところだった。




