20. 見ないふり
店内の狂騒が、分厚いガラスドアの向こう側へと遠ざかっていく。
足元がおぼつかない僕の腕を蓮が支え、人混みをかき分けるようにして店外へと連れ出してくれた。
会計は僕が放心している間に蓮が済ませてくれていたらしい。
誘われたときには「奢る」なんて言われていたけど、本当のところ、自分で頼んだ分はきちんと払うつもりだった。
それなのに財布を出す素振りさえ見せられなかったことが、今の自分の無力さを際立たせ、惨めさを加速させる。
「湊、とりあえずここ座れ」
蓮が顎で示したのは、店のすぐ近くにあるガードレールだ。
僕は言われるがまま、へたり込むようにそこに腰を預けた。足に力が入らない。
「ちょっと待ってて。水、買ってくる」
「あ……うん、ごめん」
「謝んなって」
蓮は短く言うと、少し先の道路の向かいにあるコンビニへと駆けていった。
一人、道端に取り残される。
先ほどまでいたカフェの店内とは対照的に、ここは嘘のように静かだ。
瞼を閉じると、少し楽になるような感じがするのに、先ほどの光景がフラッシュバックしそうで怖かった。膝の上で固く拳を握りしめる。
すると突然、冷たい感触が頬に触れた。
「湊、生きてるかー? ほら、飲みな」
戻ってきた蓮が、ミネラルウォーターのペットボトルを差し出していた。
キャップは既に開けられている。こういう細やかな気遣いが、今の弱った心には痛いほど染みた。
「……ありがとう」
受け取り、一口飲む。冷たい液体が食道を通り抜け、熱を持った内臓を冷やしていく。
大きく息を吐き出すと、乱れていた鼓動が少しだけ落ち着きを取り戻した。
「……落ち着いた?」
「うん。だいぶ、マシになった」
「そ。なら良かった」
蓮は隣のガードレールに腰掛け、何も聞かずに自分の分のコーヒーを啜った。
本当なら、蓮はきっとメンバーと会えたことについて語り合いたいはずだ。けれど、今の僕がそれに答えられる状態じゃないことを察してくれているのだろう。
「湊」
「なに?」
「今日はもう、解散しよっか」
「……せっかくの来たのに、悪いよ。蓮はまだ楽しみたかったでしょ」
「バーカ。お前がこんな青い顔してんのに楽しめるわけねーだろ。グッズも買えたし、生メンバーも見れたし、俺はもう十分元取ったわ」
「それにお会計だって」
「元々奢りって言ったろ? 気にしなくていいって」
あっけらかんと笑う蓮の横顔に、胸が詰まる。
彼はいつだって、僕のペースに合わせてくれる。
「ほら、立てるか? 最寄りまで送ってく」
「え、いいよ。悪いって」
「遠慮すんな。お前、今にも倒れそうだし」
「本当に大丈夫。それに──」
言葉を濁す。
今は、一人になりたかった。
蓮の優しさは嬉しいけれど、この胸に詰まった「何か」は自分ひとりじゃなければ消化できない。
「……電車、乗り換えの駅までは一緒でしょ。そこで別れよう。一人で頭冷やしながら帰りたい気分なんだ」
「…………」
蓮は少しの間、僕の顔をじっと見つめ、それから「わかった」と短く頷いた。
「じゃあ、乗り換えの改札までは送らせろ。それならいいだろ?」
「うん。ありがとう」
帰りの電車内は、無言だった。ガタンゴトンという走行音だけが、気まずい沈黙を埋めている。
やがて乗り換えのターミナル駅に到着し、僕たちはホームに降り立った。
「じゃあな。気をつけて帰れよ」
「うん。蓮も。……今日は、本当にごめん。あと、ありがとう」
「いいって。また埋め合わせしてもらうから」
ひらひらと手を振り、蓮が人混みの中へと消えていく。
その背中が見えなくなるまで見送ってから、僕は反対方向の電車へと乗り込んだ。
***
自宅の鍵を開け、逃げ込むように自室へと入る。
見慣れた天井。静寂。
張り詰めていた緊張の糸が切れ、その場に崩れ落ちるように座り込んだ。
トートバッグの中身が床に雪崩れ、無造作に放り込んだままとなってしまっていた聖くんのコースターがこちらを見つめていた。
今はそれを見るのが怖くて、触れることにすら少し躊躇いながらもクリアファイルに収納する。
一刻も早く、今日の出来事を意識の外へと追いやりたかった。
ブブッ、とポケットの中でスマホが震える。
画面を見ると、蓮からのメッセージ通知が表示されていた。
『家着いた?』
『体調落ち着いたらでいいから、連絡くれ』
『心配だから』
短い文面に滲む、不器用な優しさ。
僕は画面を握りしめ、天井を仰いだ。今日はもう何も考えたくない。
既読をつける気力もなく、僕はスマホの電源を落とし、深い溜息と共に目を閉じた。




