18. 答え
「お、聖もサイン書き終わった?」
遼くんが踵を返し、スタッフにペンを返却している聖くんの元へと歩いていく。
二人の姿が数メートルほど遠ざかった。
それだけで、首を絞められていたような圧迫感がふっと緩む。
僕はテーブルの下で、震える膝を両手で押さえつけた。
大丈夫だ。何事もなかった。
聖くんがサインを書いている間、手持ち無沙汰になった遼くんが、たまたま視界に入った男性客で暇つぶしをしただけ。
その客が、偶然にもデビュー当時を知っている古参ファンだっただけ。
単純な話だ。それ以上の意味なんてない。
聖くんの隣に戻った遼くんが、何やら耳打ちをしている。
聖くんが顔を上げ、バケットハットのツバの下からこちらを一瞥した気がした。さらに、遼くんが僕の方を指差したような気もする。
僕はすぐに顔を伏せた。気のせいだ。気のせいだと思いたい。
けれど、悲しい性だろうか。視線はどうしても二人の姿を追ってしまう。
いや、あえて彼らが仲睦まじげに話している様子を見ることで「彼らは遠い世界のアイドルであり、僕の人生とは交わらない存在だ」と、自分に言い聞かせたかったのかもしれない。
しかし、そのささやかな防衛線は、残酷にあっさりと踏み越えられた。
「ほら、この子!」
僕の安堵をあざ笑うように、遼くんが聖くんの腕を引き、僕たちのテーブルへと舞い戻ってきたのだ。
逃げ場はない。整いすぎた顔立ちが、僕の目の前に迫る。
「……っ」
息が止まる。
バケットハットの影に隠れていた、アーモンドアイ。
その瞳が、僕を捉えた瞬間、大きく見開かれた。
「聖推しなんだってさ。貴重な男の子ファンだし、なんかファンサしてあげなって」
遼くんが無邪気に煽る。
聖くんは一瞬、遼くんの方を見て、呆れ混じりの溜息をついた。
「遼はまた、そういうこと勝手に言って。困らせちゃダメだろ」
低く、落ち着いた声。
それは僕が画面越しによく知っている「クールな常識人」としてのトーンだった。
そうだ。彼はこういう人だ。
無愛想だけど、メンバーの暴走を止めるストッパー役。
僕が知っている「芹澤聖」そのものの反応に、少しだけ拍子抜けする。
ああ、よかった。彼は僕のことなんて覚えていない。ただの困っているファンとして扱ってくれている。
「サインとかは怒られるかもだけどさ、一言くらいなら許してもらえるんじゃね?」
「はぁ……。お前なぁ」
聖くんはもう一度ため息をつき、それからゆっくりと僕に向き直った。
「ごめんね。急に驚かせて」
整った唇が弧を描く。
完璧な、アイドルとしての微笑み。
「まだ今は、難しいかもしれないけど」
その声の温度が、ふっと変わった気がした。
周囲の喧騒が遠のく。
彼の瞳だけが、僕の網膜に焼き付く。
「──絶対、ドーム連れて行くから」
時が止まった。
ドクン、と心臓が破裂しそうな音を立てる。
今度は僕が目を見開く番だった。
周囲のファンからすれば、その言葉は「これからの目標を語った、一般的なファンサービス」に聞こえただろう。
違う。
そうじゃない。
その言葉は、数年前。
僕が初めて足を運んだ、リリースイベントでのライブ終わりの特典会。
詰まりながらも懸命に紡いだ聖くんへの言葉に対する、数年越しの回答だった。
『いつか、聖くんがドームに立つまで、ずっと応援し続けます!』
彼は覚えていたというのか。
何年も前の、数秒間の会話を?
あんな、有象無象の中の一人のことを?
「──じゃあな! 応援ありがと!」
思考がショートして固まる僕を置いて、スタッフに促された二人は出口へと向かっていく。
背筋が凍るような戦慄と共に、僕はその場で呆然とするほかなかった。




