17. 邂逅
「お客様! お席を立たないでください!」
「通路を塞がないようにお願いします!」
黒いスーツを着たスタッフ数名が、訓練された動きで客とアイドルの間に壁を作った。
怒号に近い注意喚起。興奮するファンたち。向けられる多数のスマホカメラ。
混沌と化した店内で、僕は石化したように椅子に張り付き俯いていた。
逃げだしたい。今すぐこの場から消滅したい。けれど、出口へ向かうには彼らの目の前を通らなければならない。
スタッフに先導され、二人の青年が店の中央へと歩を進める。
照明を反射する艶やかな髪。毛穴など存在しない陶器のような肌。
ステージと最前列の間の距離よりも、近い距離から見ることができる二人は、圧倒的な質量と匂いを伴ってそこにいた。
「みんなー! 来てくれてありがとー!」
遼くんが太陽のような笑顔で手を振る。
その背後で、バケットハットを目深に被った聖くんが無言のまま小さく会釈をした。その視線がどこを向いているのか、帽子のツバに遮られて見えない。
「今日はここにサイン書いちゃいまーす」
遼くんがスタッフから太い油性ペンを受け取り、壁に飾られた特大パネルの前に立つ。
キュッ、キュッ。
静まり返った店内に、ペン先が走る音だけが響く。
それは本来、ファンにとっては垂涎ものの光景のはずだ。けれど僕にとっては、処刑までのカウントダウンにしか聞こえなかった。
(書き終わって告知を撮ったら、すぐに出ていくはずだ。それまで気配を殺していれば……)
僕は手元にある聖くんのイメージドリンクが入ったグラスを両手で握りしめ、なるべく体を小さくした。
隣の蓮はといえば、「うっわ、マジかよ。生・遼くんじゃん。顔ちっせぇー」と、驚いてはいるものの、どこか他人ごとのように感心している。暢気なものだ。
数分後。
迷いのない筆致でサインを書き終えた遼くんが、くるりと振り返った。
聖くんはまだ、隣のパネルに丁寧に署名を入れている最中だ。
手持ち無沙汰になった遼くんが、ふと店内を見渡す。
その視線が、僕たちのテーブルで止まった。
心臓が跳ねる。
まずい。
この空間において、男の客は僕たち二人だけ。どうあがいても目立つのだ。
遼くんの目が、面白がるように細められる。
「あ、男の子いるじゃん!」
終わった──。
僕の絶望をよそに、遼くんはスタッフの制止を笑顔でかわし、軽やかな足取りでこちらへ近づいてくる。
周囲の女性客の視線が、一斉に僕たちへと突き刺さる。嫉妬、羨望、好奇心。様々な種類の感情が向けられて、針の筵に座っているかのような心地だ。
「来てくれてありがとう! 男の人に来てもらえるの、すげぇ嬉しい」
テーブルの横に、トップアイドルが立っていた。
爽やかで、けれど甘い柑橘系の香水の匂いが鼻腔をくすぐる。
僕は硬直して声が出ない。代わりに、蓮が愛想のいい笑顔で応対した。
「マジっすか! いやー、まさか会えると思ってなかったんで嬉しいです。オーラすごいっすね」
「あはは、ほんと? ありがと。……あ、コースター! 颯じゃん!」
遼くんが、蓮の前のテーブルに置かれたコースターを指さす。
「はい。俺、颯くん推しなんで。自引きできてマジ運良かったです」
「へー! 颯推しかぁ。あいつダンスうまいもんね。見る目あるじゃん」
蓮の物怖じしない態度は、さすがと言うべきか。アイドル相手にも、ファンとしてお手本のような会話を成立させている。
このまま蓮とだけ話して去ってくれればいい。そう祈った瞬間だった。
「で、そっちの君は?」
遼くんの視線が、僕にスライドした。
逃げ場のない問いかけ。
僕は反射的に、手元にあるコースターを指で隠そうとした。けれど、遅かった。
卓上に置いてあるのは、先ほど受け取った聖くんの顔がアップになっているコースターと、蓮からもらった『サイン入りの聖くんのフォトカード』が見える透明なクリアケースに包まれたスマホ。
言い訳のしようがないほどに、推しは明確だった。
「聖推しか!」
肯定も否定もできない。喉が張り付いて、酸素がうまく吸えなかった。
ただ、小さくコクコクと頷くことしかできない。
すると、遼くんは「ふーん」と僕の顔を覗き込み、小首を傾げる。
「あれ?」
その純粋な瞳に、疑問の色が浮かんだ。
何かを記憶の底から手繰り寄せるように、遼くんは顎に指を添えた。
やめてくれ。思い出さないでくれ。僕はただの、有象無象のファンの一人でいい。
「……ねぇ、君さあ」
無邪気な声が、僕が勝手に引いた境界線を無遠慮に踏み越えてくる。
「数年前、しょっちゅうリリイベ来てくれてたよね?」
ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。
隣で蓮が「え?」と素っ頓狂な声を上げる。
「えっと……確か、いつも学校帰りだったのかな。制服着てたよね? 紺色のブレザーの」
血の気が引いていくのがわかった。
メジャーデビューからまだ半年も経っていなかったあの頃。
固定のファンが数十人しかいなかった、インストアライブを連打していた時代。
平日、学校が終わると同時に電車に飛び乗り、制服のまま彼らを見ていた、あの日々。
まさか。
何年も前の、ただの男子高校生の姿を、彼らが覚えているはずがない。
そう思っていたのは、僕だけだったのか。
「……っ」
「やっぱり! 聖がさ、言ってたんだよね。『いつも来てくれる男の子のファンがいる』って」
爆弾のような言葉が投下される。
視界がぐにゃりと歪んでいく感覚。世界から音が消えていく。
その時、唯一耳が拾っていたペンの音が止まった。ゆっくりと、聖くんがこちらに振り返る気配がした。




