目の前の幸せを感じる
「仏教の修行では様々な身体的な訓練を通じて、手足が動かせる、あるいは呼吸ができるといった、普段当たり前にやっていることに対して感謝できる状態になることを目指します。忙しい現代社会に生きていると、もっと物質的な豊かさを求めたり、承認欲求を追い求めたりといったことに心が惑わされがちですが、実は生きている状態そのものがとてもありがたく、幸せなことなんだよ、という。そのことに気づけた人間は、邪心に心が振り回されることが自然となくなるものなのです。」
この発言は、先日、僕が著名な禅僧とYouTubeで対談したときに聞いたものである。この言葉を聞いたとき、僕の中でストンと腹に落ちた感覚があった。今まで無意識に理解していたことがきれいに言語化された状態、とでも言おうか。
考えてみれば、僕も大学時代に柔道部に所属していたときに、身体をとことんまで苛め抜いた経験がある。身動きが取れないくらいの筋肉痛を経験した後は、苦痛なく身体を動かせることのありがたさが身に染みてわかるし、身体を動かした後に口にする食事は、無条件に美味い。どうやら、僕の場合は若いころからの多様で濃密な人生経験から、西洋医学を学びつつも自然と仏教の神髄をも身体で理解していたようである。このことに気づいたとき、僕は我ながら深く感動した。
翻って、精神疾患の患者たちはスポーツや楽器の演奏など、何かを身体的に習得した経験が少ない者がほとんどだ。だから、彼らは僕のYouTubeをいくら見ても根本的に学びが浅いままだし、生きていることに対する感謝も感じられないのである。
少し考えてみればわかることだが、今の日本には生活保護もあるし、最悪でも餓死する心配はないのだから、何も悩み苦しむことなどないのだ。それでも幸せが感じられないとしたら、それは認知が歪んでいるという証左に他ならない。この歪みを取り除くために、前述の禅僧の言葉を聞かせることや、実際に座禅やマインドフルネスなどの身体的な訓練を行わせることは、非常に有効だろう。僕はすでに、(五分間しかない診察の時間に)何人かの患者に「目を閉じて五分間じっと座っていなさい。」と指示を出してみたのだが、案の定、誰も五分間座っていることができなかった。すぐに雑念に支配されてしまうのである。
こういう状態では、心の治癒は、とてもじゃないが達成できない。禅僧の言葉を僕なりに要約すると、「目の前の幸せを感じる」となるだろうが、その状態を目指すことは、治療的にも有効だろう。よし、決まりだ!僕自身のオリジナルの治療メソッドの集大成である「夏田療法」の二つの柱は、「なすがままに」と「目の前の幸せを感じる」にしよう!
これらの二つの言葉を、頭で理解するだけではなくて自然と体感できたときに、精神疾患が治癒したと言えるのである。夏田療法が目指す状態は、わかりやすい例で言うと、「腹が減りながらも仕事をできている」ような状態である。トラウマや辛さが完全になくなることはないが、それらに振り回されずに、社会の中で合理的な行動を取れる状態を目指すのである。
実は、この「なすがままに」と「目の前の幸せを感じる」という治療の柱は、明確な治療のスローガンになっているだけではなく、「諦観」と「実存」という近代精神医学の本質を捉えており、さらにそれらを日本という東洋の島国にマッチした形で言語化したものでもある。
言うまでもなく、近代精神医学は西洋のカルチャーだが、日本は西洋社会に取り込まれつつも独自のカルチャーを有しており、西洋のものをそのまま翻訳した形で伝えるのでは、日本人にはうまく通じない感覚が、かねてからあった。
「なすがままに」はビートルズの”Let it be”に由来する言葉であり、これは西洋のものではないか、と思う方もおられるかもしれないが、日本にも「人事を尽くして天命を待つ」という言葉があるように、物事の成り行きに身を任せるという思想は、とても日本的である。だからこそ、この歌は日本でも人気があるのだろう。
この歌の歌詞は、作曲者のポール・マッカートニーが「困っていた時に、お母さんのメアリーが夢に現れて、『なすがままにしなさい』という知恵の言葉をつぶやいた」というものだが、「なすがままに」はまさに過酷な時代を生き抜いてきた先人たちの英知が詰まった、「知恵の言葉」である。この歌を僕に紹介したマリーノが親日家であったことも、大きかっただろう。日本文化にも造詣が深い彼だからこそ、この歌の思想が一際響いたのだろう。
心の治癒のためには、まずは、自分の今の有様を「なすがままに」という諦観を以て受け入れることが必要だ。だが、それだけだと、極端な場合はニヒリズム(虚無主義)に陥る危険性もはらんでいる。「なすがままに」しかならないのなら、何をしても無駄だ、という危険な状態である。
これを防ぐために、夏田療法では「目の前の幸せを感じる」というもう一つの軸も設けてあるのだ。これにより、物事の成り行きを一定の諦観を以て眺めつつも、自分がこの世に存在できることの喜びを感じ、「人間が実際に存在しながら、自らその生きる意味を考え、生き方を自由に選び取っていくことができる」(僕なりの解釈では、何を幸せと感じるかは自分次第だ、となると思う)というサルトルらの実存主義的な教えにも無意識に触れられるようにしている。別の言い方をすると、夏田療法は、「諦観」と「実存」との間の、絶妙な塩梅のバランスを目指しているのだ。
ここまで深いメソッドを作り上げられたとは、我ながら感動ものである。。精神医学におけるイノベーションが、今まさに起こったのだ。




