邂逅
家に辿り着けば、居場所がある。『立場』はないけれど、この四畳に閉じこもれるだけの自我は持ち合わせている。
「スミレ! あんた早く買い物行ってきてよ!」
「母さんは一日中何してるの? 買い物行くのが専業主婦じゃないの」
自室の扉を閉め、ベッドに鞄を投げ捨てる。高校生を象徴する革の艶が、こちらを見ている。わたしは、幼稚だ。反抗期を拗らせながら進学し、未だ母に刃向かうわたしの、子供らしさ。それを大切に、どこにも行かなくて済むように、どこにも行かせないように、抱えて生きている。誰にもわかられないように、誰にもわたしを理解させないように、この場所にいる時だけのわたし。
本棚から読みかけの本を取り出す。表紙から数十枚目のところに挟んであった銀色のしおりが顔を出し、それを皮切りに、世界に入り浸る。
少年たちがヴァーチャルの世界でクリーチャーと戦い、相手と向き合い、自分自身を見つめる……そんな内容である。小学生の頃にふと手に取ったものの、分厚さから母親が辞書か何かと間違えて、購入後何年も仕舞い込まれていた本。児童文学とはいえど、本作が発表された年月日の割に時代を先取った内容で話題にもなった。
もし、この作品の主人公たちのように団結できる友人がいれば、わたしの生き方も違ったのだろうか。そもそも、わたしは生き方を間違えていたのだろうか、わからないな。
小学生の頃は今よりも友達はいたし、毎週のように遊びに出かけ、同級生と公園やら駄菓子屋やら、自転車で駆け回った。わたしにとってそれは普通だった。し、それは、少なくとも小学生のうちは、揺るがない事柄だと感じていた。だけれど、一年また一年と学年を経るごとにみんなは外に出なくなり、習い事もピアノやサッカーより塾などの勉強を優先し始めた。わたしはいつの間にかひとりになった。今思えば、これが人生において必要なはずの助走だったんだと思う。孤独な小学校高学年を過ごし、普通の公立中学に入学し、その差を実感した。わたしはみるみるうちに周囲からあぶれ、授業中は訳もわからないまま聞きなれない日本語を聞き、惰眠を貪った。三年間続いたその生活はもう、世の中に戻れるほど一時的なものではなくなっていたのだ。
わたしと同じクラスのあの子を、恨んでいる。きっと、ずいぶん温い世界で生きてきたのだろう。否、それはわたしか。温いところに湧き出た、同族嫌悪の蛆虫。それがわたし。
どん。母が部屋のドアを叩いた。
「あんた、買い物行かないなら今日の夕飯ないよ」
「いいよ、いらない。ちょっと出かけるから」
聞こえた声に雑な返事をした。ぼんやり眺め続けて頁の進まない本、財布、携帯、イヤホンを安物のサコッシュに詰め込み、強く扉を開ける。わたしの方を母が見つめた。その目に反抗心を焼き付け、家を出た。
どれくらい歩いただろう。陽の指す方を見ると、もう随分と傾いている。気付けば十七時、小学生に帰宅を促すチャイムが鳴った。もうこれに従うことはないと思うと嬉しい。
ずいぶん歩いたな。もう見飽きるほど通った通学路、小学生の頃大人に内緒で通った学区外の道、地元の本屋までの道のり。気付けば、中核都市の象徴である少々大きめの駅まで来てしまった。わたしの地元って、こんなとこまで徒歩で来れるんだ。そんなことを考え、行く当てもないまま歩みを進める。とうに陽は沈み切っている。
またそこから地下鉄一駅ほどの距離を歩くと、昔ながらの街並みが残る場所にたどり着いた。母さんとわたしが、わたし達だけになったときに福祉が匿ってくれた場所。すぐそばの汚くて臭い川に架かる橋、の傍に、座っている人を見つけた。
「あ、ほたる」
教室で輝いていたはずの彼女が、このドブ臭い場所で、ひとり黄昏ている。くすんだ髪色に街灯が反射する。
「あ……」
わたしを見て、彼女は立ち上がった。長い時間をそこで過ごしたのか、細い足がぐらりふらついた。
「同じクラスの、スミレちゃんだ」
含んだ笑みに、わたしは勘ぐる。なんで話したこともないわたしの名前を彼女が呟いたのか。
「伊崎さん、なんでここにいるの」
「えぇ? やだな、名前で呼んでよ」
彼女の瞳は、憂いを帯びている。教室では見ない表情。わたしの悶々とした感情を彼女が浄化していく、そんな感覚にすらなる。
「あたし、そこのアパートに住んでるの」
彼女は、過去にわたしが住んだ部屋の方を指差した。窓のカーテンは閉じている、そこに仄かに蛍光灯が光っていた。過去にその下で暮らしたことを思い出す。
「そうなんだ」
わたしも住んでた、とは言わなかった。惨めだから。あそこにいた時よりも今の方が地獄だなんて、虚しいだけだから。
「あそこは、ダメな人が住むお部屋なんだ。ママが言ってた」
そんなことない、と言った。彼女は笑う。わたしは虚しいと思った。
「ううん、あたし頭良くないから」
また川上の、遠い上流を見つめて彼女は言った。あたしは何も言えなくなった。
「ほたるちゃん、は、いい子だよ。わたし、いつも見てる」
なんだか告白の文言のような言葉が口を衝いた。
「……そう、ありがとう。もう遅いし、あたし帰るね」
「え、うん」
彼女はわたしから逃げたい様だった。わたしの口は、待って、が言えない。
サコッシュの中から着信音が響く。
「夜はここいるよ。スミレちゃんも暇だったらまた、お話ししようね」
彼女は学校で見る時の笑顔になって言った。そしてアパートへ駆けて行く、窓のカーテンから蛍光灯の灯りは消えていた。