(8)次第に日は暮れる
鍋の中のママリガをかき混ぜる手伝いをし、出来上がった黄色い塊を皿へ。
たっぷりと鍋いっぱいに詰まったそれは、イタリアではポレンタと呼ばれる料理なのだとか。
「硬すぎても柔らかすぎてもダメです」
混ぜるだけの単純作業がほとんど、とはいえ、微妙な加減は素人のチカにはわからない。イオンに見てもらいながらチカはママリガを完成させた。
「夜には一週間分のチョルバを作ります。なので暇な吸血鬼は手伝ってくださいね」
パンやチーズを用意しながらイオンがピシュティの方を見る。視線を受け取ったピシュティは、イオンの言う「暇な吸血鬼」が自分のことだとは気づかないまま了承した。
「ん? 私なら暇だぞ。喜んで力になろう」
「ミルチャも暇ですよね? スラヴァは来ないでください」
料理には関わってほしくないのか、イオンがスラヴァに先手を打つ。案の定、スラヴァからは文句が飛んだ。
それから食事タイムとなり、パンと一緒にママリガをいただく。チカは初めての料理を少し警戒しながら口に運んだ。
(うん……意外と、おいしい……。苦手な味だったらどうしようと思ったけど、そもそもトウモロコシだもんね)
きつい味付けもなく、自然のまま。もちもちした食感だ。とっても美味しくておかわりが止まらない!という美味の部類ではないが、慣れてしまえば違和感もない。
チカがもぐもぐとママリガを咀嚼していると、イオンが話し掛けてきた。
「ちゃんとパンとチーズも食べてくださいね。以前、ママリガばかりを毎日食べていたら、ディーに怒られまして。こればかり食べていると栄養が不十分になるので、健康体でいたければ他のものも一緒に食べろと」
「へー。医者は健康にうるさいね」
ミルチャが皮肉げに笑う。するとスラヴァが異臭のするチョルバを皿によそって持ってきた。
「僕も健康にはうるさいよ! だから、ほら! 僕が頑張って考え出したこの特製チョルバを」
「いらない。拷問にでも使いなよ」
「諦めてくれスラヴァ。もう私の胃は血と酒しか受け付けないんだ」
素早い返しがダブルで飛んでくる。結局スラヴァは自分だけで手作りチョルバの効果を確かめたのだった。味は問題ないと言い張って。
***
さて、食後に掃除の続きとなったチカと二人の吸血鬼は、改めて殺風景な部屋を見回した。
「何か家具で足りないものはあるか?」
寝台に、テーブルに、椅子。長持の形状をしたチェスト。それから暖炉。
室内には必要最低限のものしかない。ピシュティに尋ねられ、チカは首を傾げて考えた。
「ベッドも椅子もある。あとはタペストリーとか? 防寒用に必要でしょ」
ミルチャの意見を聞きながら、チカは今朝の洗顔を思い出した。顔や手を洗う場所は必要だ。
「イオンくんの部屋で使った、顔を洗う台があると助かるんですが……」
「ああ、それなら俺の部屋にあるからあげるよ。俺、使わないし」
ミルチャがそう申し出た。仮面をつけているから顔を洗わないのだろうかと、チカはちょっぴり失礼なことを考える。
「そうか、君には必要だな。私も普段使わないから忘れていた」
どうやらピシュティも使わないらしい。
「えっ、じゃあピシュティさん達は、どこで洗うんですか……?」
「井戸だ。顔を洗うくらいなら、わざわざ部屋に水を運ばない。井戸の周りで水をかぶれば十分だ」
「俺も。昔はあんなのなかったし」
ミルチャが言う「あんなの」とは、ウォッシュスタンドのことだろう。単純にそれを使う習慣がなかったから使わないだけのようだ。
「じゃあシュテファニツァ、俺の部屋からここまで台を運んでおいて。俺はタペストリー探してくるから。チカも俺とおいで」
「待て、私一人で家具を運ぶのか!?」
「君ならできるよ。馬鹿力でしょ?」
「君は協力という言葉を知らないのか!」
「疑うって言葉なら知ってるよ」
ああ言えばこう言うミルチャである。このままではピシュティが家具運びを押し付けられると察し、チカは間に割り込んだ。
「私が運びます! 私が使うものなので……!」
「いや、細腕の君に持たせるわけにはいかない。折れたら大変だ」
「そんな簡単に折れませんから、大丈夫です!」
「なら私が一緒に運ぼう。ミルチャの部屋へ案内するから、ついてきてくれ」
「ちょっと! 俺の部屋なんだから俺が案内するよ。おいで、チカ」
ミルチャが歩き出し、チカが慌てて後を追う。
彼の部屋はチカの部屋と同じ階だった。長い廊下を二回曲がった先でミルチャが足を止める。
ミルチャの部屋はチカの部屋に負けず劣らず殺風景で、がらんとしていた。誰かが暮らしているとは思えない冷えた空間だ。
部屋の中央には長テーブルと長椅子。壁際にはチカの部屋のものと同じ形状をしたチェストと、木製のクローゼット。それから隅っこにはポツンと置かれたウォッシュスタンドが一つ。
寝台や暖炉は見当たらず、壁がアーチ型にくり抜かれた個室のような窓辺には石のベンチが向かい合わせに備えつけられている。窓は開いており、そこから細い長い光が差し込んでいた。
物があり過ぎるスラヴァの部屋を見てしまった後では、なんとも面白みのない室内だ。しかし、長テーブルの上だけは違った。そこには様々な笛やヴァイオリン、リュートのような楽器が置かれていた。
(この楽器、ここにあるってことはミルチャさんの……?)
お目当てのウォッシュスタンドではなくテーブルの側に寄り、チカがジッと楽器を見つめていると。
「それは俺のティリンカ。こっちはカヴァル。興味あるの?」
チカが見ていた笛を手に取り、ミルチャが話し掛けてくる。やはりこれらはミルチャの私物らしい。
「ミルチャさんが演奏するんですか……?」
「うん。俺はカヴァルとフルイエルが好きだからよく吹くよ」
「音楽に関してならミルチャの才能は凄いぞ。テケルーも私より上手いんだ。私が紹介した楽器なのに」
嬉しそうに、けれど少し呆れたようにピシュティが語る。
(音楽の才能、か……)
他者から「凄い」と評価されるなんて、チカはミルチャを羨ましく思った。
「俺は暇な時間を音楽に使うんだよ。シュテファニツァが筋肉に時間を使うみたいにさ。チカはどう? 何か演奏できる?」
「私は……ピアノなら、少しは」
「ピアノか……。この城にピアノはないな」
ミルチャが答えると、ピシュティが不思議そうに問い掛ける。
「ミルチャ、ピアノは弾かないのか?」
君なら弾けるんじゃないか?と言いたげだ。
「うん。演奏を聴きに行ったりはするけど、自分では弾かないね。俺は気軽に持ち運びできる楽器が好きなんだよ。散歩の途中で演奏できるからさ」
「ああ……確かにピアノは、森の中を歩きながらでは無理だな」
「でしょ?」
言いながらミルチャは一番短い長さの縦笛を構え、独特な旋律を吹いてみせた。
高い音が鳴る。暗いはずなのにどこか明るく聴こえる笛の音が、短いメロディーを繰り返す。それはチカがバルトークを弾いて耳にした民謡の抑揚と似ていた。
「チカはピアノで何を弾くの? どんな曲が好き?」
サラリと奏でて笛を置く。そんなミルチャからの質問に、もちろんルーマニア民俗舞曲だとチカは言いたかった。だが彼の笛を聴き、急に自分が恥ずかしくなった。
(本物だ……! ミルチャさんは本当に民謡が演奏できる人だ……!)
上手ねと褒められはしたが、チカの演奏は所詮日本人が弾いたものだ。それらしく奏でようと努力しても、本物にはなり得ない。現地の人間であるミルチャのリズム感や抑揚や緩急の付け方は彼の血と魂に刻まれているものであり、それはどう足掻いてもチカが手にすることのできない宝物である。
(言えない……。私なんかが、ルーマニア民俗舞曲を弾きました、なんて……)
自分とミルチャを比較して、そんなことをする必要もないのに、チカは落ち込んだ。
どんな曲が好きかという問いに、チカは小さな声で答える。
「……秘密です」
「なにそれ。隠されると暴きたくなるんだけど」
仮面で顔を隠しているミルチャにだけは言われたくない台詞である。
チカは探られたくないので今度こそウォッシュスタンドに近寄った。ピシュティも駆け寄り、チカと一緒に台を持ち上げる。
「むっ、やはり重いな。チカ、大丈夫か?」
「はい。ゆっくり歩いてもらえれば……なんとか」
ピシュティは足が長いため、一歩がデカい。チカはついていくのに自然と早足になる。
「待って、チカ。俺が持つよ」
見兼ねたのか、ミルチャがチカの背後に回った。チカをどかして台を抱え、ピシュティと合わせて歩き出す。
「あ、ありがとうございます、ミルチャさん……!」
「そう思うなら、後で君の血を」
「ミルチャ! ペースを上げるぞ、ついて来い」
「うわっ、いきなり速い! なんのトレーニングだよ!」
スピードを上げてズンズン進むピシュティに文句を言いつつ、ミルチャもついていく。チカも小走りで後を追いかけた。
それから無事チカの部屋にウォッシュスタンドを運び込み、埃や汚れを落としてからチカとミルチャは井戸へ。必要な分だけ水を汲み、ウォッシュスタンドの側に置いておくことでいつでも使えるようにするのだとか。この間にピシュティは新しいシーツを用意して、チカの寝台を整えた。
「シーツを探していて見つけたんだが、こういった布を敷くのはどうだろうか?」
そう言ってピシュティが見せてくれたのは、花や幾何学模様が描かれた大きな織物で、赤や黒や白が美しく配色されていた。
「床に敷いても良いし、椅子でも構わない。あれば冷えにくくなる」
「あ、それ壁に掛けても良いやつだね。シュテファニツァ、もっとないの? この布」
「下にあったぞ」
「持ってくるよ。いっぱいあった方が絶対あったかいから」
やけにミルチャが防寒に積極的だ。おかげでチカの部屋は色んな織物で飾られ、明るい雰囲気になった。
「チカって痩せてて肉ついてないし、無防備な部屋で冬を過ごしたら寒くて病気になっちゃうでしょ。そしたら俺に美味しい血を提供できなくなるからね。寒さ対策はしっかりしないと」
結局は自分のためだったらしい。それでも気遣われないよりはマシだと思うことにしたチカだった。
「掃除は終わりましたか?」
部屋の飾り付けが終わった丁度その時。イオンとスラヴァが様子を見にやって来た。
「へー、こんな綺麗な部屋があったんだねぇ」
「なかったよ! 綺麗にしたんだよ! 俺達が!」
スラヴァのボケにミルチャが反応し、ピシュティが苦笑する。イオンは印象の変わった部屋を見回してチカに言った。
「では魔術を施していいですか?」
約束していた「暖炉を使わなくとも部屋を暖かくする魔術」とやらを掛けるらしい。チカは喜んで頷いた。
「イオン、何するの?」
魔術と聞いて、スラヴァが興味ありげに問い掛ける。
「部屋を暖かくするんです」
「あっ、ならさ。僕も試してみたい魔術があるんだけど、チカの部屋でやってみてもいい?」
「金貨何枚?」
ミルチャが直ぐさま、からかうように訊く。チカも怖々スラヴァを見た。
「必要ないよ。成功するか失敗するか、僕にもわからない段階のものだから」
「魔術で何をするつもりだ?」
訝しんで尋ねるピシュティに、スラヴァは天井を指差した。
「光の魔術。ほら、蝋燭無しでも部屋を明るくできないかなと思って。かなり前から考えてた魔術なんだけど、最近やっと思うようにいってね。自分の部屋で試してはみたんだけど、他でも上手くいくかやってみたいんだ」
この城に電気はなく、どの部屋も基本は蝋燭の光に頼っている。木製の窓を開ければ少しは明るくなるが、寒いので冬は閉めておくのが当たり前だ。吸血鬼の体なら冷えても平気だろうが、チカはそうはいかない。
(部屋が暗いのは困るし、タダならお願いしようかな……)
チカが了承すると、スラヴァは笑顔で喜んだ。
「じゃあ、作業中は外で待っててね。邪魔されたくないんだ」
こうして関係のないチカとミルチャとピシュティは追い出され、隣のイオンの部屋へ。
「それにしても俺、今日は凄く頑張ったよね。他人のためにこんなに頑張ったの久しぶりだよ。だからチカ、ご褒美に君の血を」
「ま、待ってください!」
部屋に入るなりミルチャに抱き寄せられ、血をねだられ、チカはピシュティが間に入るよりも早く自分で大きな声を出した。
「ドラクさんに会って、魔術を習いたいって話しませんか?」
「えー、そんなの明日でいいでしょ」
「良くないですっ! 今からドラクさんに会ってくれるなら……そ、そしたら……吸っても良いですよ」
また拒絶かと思いきや、チカからの提案にミルチャがハッと息を呑む。そしてチカを見下ろし、ゆっくりと微笑んだ。
「へぇ……君、俺を思い通りに動かそうっていうの? 良いね。気に入ったよ、その根性」
ゾッとするほど美しい微笑だった。ミルチャの表情を形作る唇が、妖しく弧を描く。
「俺はすぐ諦めるやつが嫌いなんだ。諦めるくらいなら狡猾にならないと、すぐ喰われちゃうよ」
他人に従わなければならない屈辱に怒りを覚えるものの、ミルチャはチカに好感を抱いた。なんとかして自分が支配する側に立とうと、チカはミルチャに抗ったのだ。それはミルチャがよく知る生き方だった。
「行こうか。ドラクは地下かな?」
イオンの部屋を出てミルチャが先頭になり、チカとピシュティがついていく。
スラヴァの部屋も地下だったが、ドラクが普段いるという場所はスラヴァの部屋よりも見つけづらく、奥深くにあり、チカは一回で道順を覚えられなかった。
「えっ、この部屋の奥に、階段が……?」
「そう。わかりづらいよね。なんでこんな所に地下への階段があるんだか」
「もともとあったのか、悪魔が付け足したのかはわからないな。私が来た時には既にあったはずだ」
「うん。そんなに城の構造は変えてないって言ってたけど、それってつまり、少しは改造してるってことだからね」
喋りながら地下へ続く階段を下りていく。この階段は倉庫のような広い室内の奥にあり、教えられなければそこに階段があることすら気づかないだろう。
階段が終わると入り組んだ廊下が続き、ミルチャは松明に照らされた道を奥へ奥へと進んでいく。最終的に突き当たった部屋にドラクはいた。
「おや、珍しいお客様ですね。ミルチャにイシュトヴァーン、それからチカ。皆さんそろって、どうしましたか?」
薄暗い闇の中、室内のあちこちにふわふわと沢山の蝋燭が浮かぶ。魔術で浮遊するゆらゆらとした光に囲まれ、修道士のような姿をした美しい悪魔は大きな肘掛け椅子に腰掛けて本を開いていた。
「時の魔術ってやつ、教えてもらいたいんだけど」
単刀直入に話し出すミルチャ。ドラクはにこやかに答えた。
「良いですよ。やはりこうなりましたか。嬉しいですね、貴方に魔術を教えることができるなんて」
「……こうなるよう、君が仕向けたの?」
疑り深いミルチャが刺すような声で訊く。ドラクはすぐに否定した。
「いえ、違いますよ。可能性の一つとしてわかってはいましたが、チカがどうするかは彼女次第ですから」
そう言ってチカを見る。ドラクの視線に気づき、チカはビクリと怯えた。隣にいるピシュティの後ろに隠れたい衝動に駆られる。
「しかし、私としても丁度良かったです。少し前まではイオンに付きっきりで色々と教えていたんですが、もうあまり私を必要としなくなってしまって退屈していたんですよ。やるからには厳しくいきましょうか。しっかりついて来てくださいね、ミルチャ。まずは聖書を丸暗記していただきます」
ニコニコと良い笑顔で、悪魔がテーブルに聖書をドンと置く。ミルチャは一瞬固まった。
「は? 悪魔がなに言ってるの? 今更改心して布教活動? というか、それ関係なくない?」
「できないのですか? ヴラディスラフもイオンもこの課題をクリアしましたが」
「クソッ……そう言われると、やらなきゃ負けな気がする……!」
負けず嫌いなミルチャの闘争心に火をつけて、悪魔は楽しそうに笑う。
「フフッ。神は魔術を異端と見なします。ですから、聖書の言葉を積極的に魔術に使用することで神を冒涜できるのです」
「悪趣味だな。俺そこまで信仰心、堕ちてないけど」
「吸血鬼になった時点で、貴方に神はついていませんよ」
「ああ、そう。やっぱり俺のキリストは兄さんだ」
話は終わりとばかりにミルチャはドラクに背を向けた。
「授業は夜中でいい? チカが寝たらここに来るよ」
「良いですよ。では今夜から。忘れてすっぽかさないように」
ミルチャを先頭に、一言も喋ることなくチカとピシュティも部屋を出る。そのまま三人は無言で上へと戻った。
(取り敢えず、これでミルチャさんは魔術を勉強してくれるよね)
一安心だ。約束通り血をあげなければいけないが、いつ切り出せば良いのだろう。
チカが廊下を歩きながら、前にいるミルチャを見つめていた時だった。隣にいたピシュティがまるで今までずっと息を止めていたかのように、大きく息を吐き出した。
「ハァ……やはりオルドグのことは好きになれないな」
「オルドグってドラクのこと? わかりづらいからハンガリー語混ぜるのやめなよ」
「私がどんな言葉を話そうと、私の自由のはずだが?」
「自由! 素晴らしい言葉だね。俺は自由が大好きだよ。でも自分の自由と他人の自由がぶつかり合えば、生まれるものは争いさ」
「わかっているのなら、少しは私の気持ちも理解してもらいたいがな」
「理解できても感情的に難しいから諦めてよ」
振り向いたミルチャがチカへと顔を向ける。彼が何か言いかけた、その時。
「チカー!!」
廊下の奥から元気なスラヴァの声が飛んできた。チカの部屋から出てきた彼が、作業の終わりを知らせてくれる。
「終わったから来てよ! 成功したから、大丈夫だよ!」
呼ばれて薄暗い部屋に入れば、まずチカは室内が暖かいことに気がついた。
「あったかい……!」
「それは僕の魔術ですね」
思わず声を漏らすチカに、イオンが近づいてくる。彼は詳しい説明を始めた。
「夏に太陽の熱を魔術で集めておくんです。それを冬のために保存しておき、寒くなったらその熱を少しずつ部屋に流し込む。そうすることで、暖炉を使わずとも室内が暖かくなるようにしています」
「す、すごいですね。魔術って、そんなこともできるんだ……」
「ただ、集めた熱にも限りがありますから、城全体に使うことはできません。そんなことをしたら冬が終わる前に集めた熱がなくなります。なので廊下は寒くても我慢してください」
勿論と、チカは大きく頷いた。寝室だけでも大助かりだ。廊下もなどと、贅沢を言ってはダメだろう。
「じゃあ次は僕の魔術を試すよ!」
そう言って、スラヴァが部屋の真ん中に進み出た。
「光あれ!」
パッと天井が輝く。まるで頭上に電球があるかの如く、室内が明るくなった。
「どう? ちゃんとできたよ! 成功して良かったー! この方法ならどの部屋でもいけるね」
目を細くして見上げれば、天井には文字が連なったような模様が描かれていた。恐らくスラヴァの魔術に関係あるものだろう。
「眩しくないか? チカ、大丈夫か?」
横に視線を向けると、ピシュティも目を細めて天井を見ていた。
「大丈夫です。丁度いいですよ」
「光あれ、だっけ? 聖書からの引用か……」
ミルチャの独り言に、満足そうな顔でスラヴァが頷く。
「うん。光あれって言ったら反応して明るくなるからね。逆に、暗くしたい時はこう言って」
スラヴァはまた中央で叫んだ。
「ともし火は寝台の下に!」
フッといきなり光が消える。言葉の通り、光が寝台の下に集まった、というわけではなく、本当に室内は暗闇となった。
「チカ、覚えてね。ともし火は寝台の下に、だよ! まあ、忘れちゃったら訊いてよ。僕でもイオンでもいいからさ」
「は、はい……」
忘れないよう、何度か口の中で暗闇の言葉を繰り返す。真っ暗な室内でそんなことをしていたら、ふとチカの視界をボヤッとしたオレンジ色の球体が横切った。
(え? なに、これ……)
ふわふわと宙を漂うそのオレンジ色の球体は、墓地などに現れるだろう人魂を彷彿とさせる。
(ま、さか……幽霊?)
吸血鬼がいるのだから、あり得なくはない。というより、悪魔が言っていたではないか。
――この城は地上にありながらも私の領域でして、私のコレクションとなった魂達の檻なのです。私と契約した人間の魂は死後、この城に囚われます
この城には、幽霊が、いる。
ドラクの言葉を思い出し、チカが固まっていると、人魂らしき物体がチカの肩に擦り寄って来た。
「ひゃあっ!?」
「どうした?」
一番近くにいたピシュティが直ぐさま反応する。
「ああ、もうそんな時間ですか」
チカの悲鳴の原因を見たイオンが冷静にそんなことを言っていると、ミルチャがクスリと笑った。
「チカ、怖がることないよ。ただの魂だから」
やっぱり人魂か。チカは泣きそうになった。そんな怯えるチカを見て、スラヴァが口を開く。
「あれ? チカは見るの初めて? 夜になるとね、城のあちこちで、いろんな色の魂が美しく輝くんだよ。魂は動くけど喋れないし、僕達を傷つけたりもできないから安心して」
周りを見れば、肩に擦り寄って来たオレンジ色の人魂の他に、輝くものがいくつか宙をふよふよと動いていた。まるで意思があり、遊んでいるかのようだ。
「怖いなら、魔除けのイコンを差し上げますよ」
「そうそう! 害はないけど部屋にいられるのが鬱陶しいから僕もイコン置いてるんだ」
「イコン……?」
イコンとは主に聖人やキリスト、天使などを描いた絵のことだ。部屋に飾ったり、信者が祈りの時に用いたり、小さなイコンはお守りのように持ち歩くこともあるらしい。
「作ったものが僕の部屋にあるので、持ってきます」
そう言って、イオンが自室へ戻る。すると、チカの側にいる魂を見つけてピシュティが声を上げた。
「カーチ! チカを驚かせたのは君か!」
「えっ……知り合い、なんですか……?」
「ああ。生前、私と同じで騎士だった。私の……友だ」
オレンジ色に光るカーチの魂がピシュティの腹へと突撃する。それは勢い良くピシュティの体を通り抜け、正面から入り背中から出てきた。どうやら魂と接触はできないようだ。
「私が死んで吸血鬼となった後、カーチの魂が側にいてくれたんだ。私がこの城に来たからカーチもここにいる。早く天へ逝けばいいものを……私のことを恨んでいるのか、心配しているのか……離れてくれないんだ」
ピシュティの肩の周りをくるくる浮遊し、再びカーチがチカの側にやって来る。
「悪い奴じゃないから、仲良くしてやってほしい」
お願いされ、チカは怖々頷いた。よく見れば動きがユーモラスで可愛いかもしれない。幽霊だと意識しなければ単なる綺麗な発光物だ。
しばらく魂を眺めていると、イオンが戻ってきた。
「ありましたよ。これです」
イオンが部屋に入ってくる。それと同時に、周りにいた魂達が一斉にぷるぷるし始めた。
「光あれ」
イオンが室内を明るくする。魂は見えなくなったが、イオンの持つイコンがハッキリとチカの目に映った。
聖母マリアが彫られた、小さな木製のイコン。緻密なその木彫りの絵画に色は塗られておらず、聖母の顔からは自然な木の温もりが感じられる。
「魂を排除する魔術が掛けてあるので、これが置いてある部屋に魂は入れません。ちなみに、トイレにも置いてあります」
イオンはイコンをテーブルの上に置くと、嬉しそうな表情でチカを見た。
「さて……魂達が現れたということは、夕食に丁度良い時間ということです。チョルバを作りに厨房へ行きましょう」
どうやら、三度目の食事の時間が始まるらしい。




