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愛の瞳のリリアック  作者: vlad
二月、邂逅
3/10

(2)運命のコイン投げ

 


「上手ねぇ! 初めて聴く曲だったわ」


 そう言って、スタッフのおばさんが笑顔で褒めてくれたのを、チカは一生忘れない。





 ***


 チカは五歳の時にピアノを習い始め、某音楽教室でずっとレッスンを受けていた。母親がピアノの先生で、自宅でピアノ教室を開いていたため、チカはろくに楽譜も読めない頃から練習にグランドピアノを使うという贅沢すぎる環境で育った。

 それなのに。


「んー、まだちょっとねぇ……。今度仕上げにしましょうか」

「……はい」


 譜読みが遅い。そのせいで一曲仕上がるまでに時間がかかる。しかも音が弱い、指が寝てる、指使いが楽譜通りじゃない、などなど。毎度注意されてから直す癖が多過ぎて、小学生の頃にチカは練習が嫌いになった。

 毎日毎日、準備運動のハノンからは逃げられず、練習曲のツェルニーは三十番、四十番、五十番と、どんどん増えていき終わりが見えない。バッハも簡単なインヴェンションですら泣きながら「できないー!」と叫んで、チカは鍵盤を叩いていた。そんなチカとは反対に、彼女の母親は「難しいが楽しい」と言ってバッハの平均律を好んで練習していたのだが、チカは全く共感できなかった。


(練習は大嫌いだけど……ピアノは好き。音が、好き)


 赤ちゃんの時から、母親が奏でるグランドピアノの音を耳にして眠ったり遊んだりしていたせいか、チカにとってピアノの音は全ての音の基本だ。自分の中に当たり前に存在するそれを、練習が嫌いだからという理由で切り離せるわけもなく、チカはただ綺麗な音が聴きたいからピアノを続けていた。


 そう、弾ければ何でも良かったのだ。絶対弾いてみたい憧れのクラシック曲があるわけでもなく、先生から課題として出された興味もない曲をただこなすだけの日々。

 中学生になって、初めてショパンのワルツを練習していた時もそうだった。ワルツの弾き方がおかしい、ワルツに聴こえないと何度も注意されたチカだったが、教えられても改善点がわからず、結局合格するまで半年もかかってしまった。


(私って本当……才能ないよなぁ……。もっとスラスラできちゃう子なんて、いっぱいいるのに……)


 自分はピアノができない。このままダラダラとレッスンを受け続けたところで、意味はあるのだろうか。

 そんなことを思い、ちょっとチカが落ち込んでいた、ある日。


「今度の発表会、出るわよね? いくつか曲を選んできたんだけど、どれがいいかな?」


 こんな雰囲気だと、冒頭の部分だけを次々と先生が弾いていく。その中に、チカの人生を変える曲があった。それを聴いた瞬間、珍しく「弾いてみたい」と強く思ったチカは、直ぐさま言った。


「先生、この曲がいい。この曲、弾きます」


 楽譜を見ると、そこには「ルーマニア民俗舞曲」と書いてあった。チカがルーマニアと出会った瞬間である。これがきっかけとなり、チカはこの曲とルーマニアに興味を持った。


 それから発表会までの間、チカは初めてのことだらけになった。初めて自分でCDを探し、プロのピアニストが弾く「ルーマニア民俗舞曲」を何度も聴いた。今まで発表会は毎年出てきたが、曲のためにプロの音を聴き込むなんて一度もしたことがない。

 それから作曲者であるバルトークについても自ら調べ、ルーマニアがどこにあるのかも世界地図を開いて確認した。


「バルトークさんはハンガリーの人? 生まれた場所は今の地図で見るとルーマニアだけど、十九世紀の頃はハンガリーの一部であってルーマニアじゃなかったって……なんだか複雑」


 彼の出生地は現在のルーマニアだが、ハンガリーの作曲家として知られている。バルトークと言えば、ハンガリーやルーマニアを中心に各地の民謡を採集したことで有名だ。蓄音機を持って様々な土地を旅し、そこで聴いた土着のメロディーやリズムを楽譜にし、ピアノで弾けるように自ら編曲する。ルーマニア民俗舞曲も、そんな彼の努力から生まれた作品の一つだ。


(じゃあ、この曲はルーマニア風、とかじゃなくて、本当にそこに住んでる人達が演奏してたメロディーなんだ……!)


 なぜか小さな感動を覚え、チカは譜読みをし、練習をし、一ヶ月もかからず曲を形にしてみせた。

 いつもより早い仕上がりに先生は驚き、まだ発表会本番まで時間があるから他の曲も練習するように、とちゃっかり課題を追加。それらはバルトーク作品でなかったため、チカは直ぐ様のろのろペースに戻ってしまった。


 バルトークの作品は人によって、合う合わないがハッキリ分かれるらしく、チカの母親の場合「私は無理。リズムがわけわからない」とのこと。


「私にとっては、ワルツの方がわけわからなかったな……」


 というのはチカの素直な感想だ。何より、バルトークの曲は弾いていて、チカから「楽しい」という感情を引き出してくれる。練習していて、チカは初めてクラシックを楽しいと思えた。そのためチカはバルトークと、彼の作品に出会わせてくれた先生に何度も心の中で感謝したのだった。


 そして中学二年の七月。チカはピアノ発表会の大ホールにて、大勢いる音楽教室の生徒達とその保護者達、そして先生やスタッフの人達を前に、ほとんどミスなくルーマニア民俗舞曲を弾ききった。


「上手ねぇ! 初めて聴く曲だったわ」


 弾き終わった直後、袖に引っ込んだタイミングでスタッフのおばさんが笑顔で褒めてくれたのを、チカは一生忘れない。

 自分が褒められて嬉しかったというよりも、バルトークの曲が好印象のようで嬉しかったのだ。自宅で母親に弾いて聴かせた時、感想を求めたら「変な曲ねぇ」だったのがトラウマ過ぎた。


 それから、ピアノを続ける明確な楽しみを見つけたチカは、先生から出される課題とは別にバルトークの曲を練習するようになった。

 取り敢えず、片っ端からバルトークの作品を譜読みして弾いてみる。


「ちょっと、チカったら、ゴ◯ラのテーマ弾いてるの?」

「ゴジ◯じゃないもん! バルトーク!」


 アレグロ・バルバロを練習していた時、母親から言われたジョーク。否定はしたものの、チカはちょっと考えた。確かに中盤、少しだけ某怪獣映画のテーマが聴こえてこなくもない。


「バルトークもいいけど、ドビュッシーも練習しなさいよ?」

「うぅ……」

「やればできるんだから。すごい綺麗な音でアラベスク弾いてたじゃない」

「でも……」


 つまんない。

 一ミリも感情移入できなかったアラベスクは「音が綺麗!」と先生や母親から絶賛された。

 気持ちが伴わなくとも、音を綺麗に出すことはできる。技術と感情は違う。それをハッキリとチカに示してくれたのが、ドビュッシーの「アラベスク第一番」だった。


 好きという感情だけでは、上手く弾けるようにはならない。技術があるからって、弾ければその曲を好きになるわけでもない。


「……好きな曲を、弾きたいな」


 何のために小さい頃から練習を重ね、ゆっくりペースでも諦めず、様々な音を出す技術を身につけてきたのか。言われるままに色んな曲を弾いてきたが、チカが自分から求めたのは結局、中学二年の発表会で弾いたあの曲だけだった。


「またレッスンでバルトークさんの曲、みてくれないかな……」


 そんな思いを抱えていたチカは、ある日のレッスンで先生から初めて「発表会で弾きたい曲ある?」と尋ねられ、その瞬間、勢いよく首を縦に振っていた。

 こうして高校生の時、チカはバルトーク「十五のハンガリー農民歌」を発表会で演奏した。

 満足だった。また舞台の上で、尊敬する作曲家の、自分が心から楽しいと思える大好きな曲を演奏できたのだから。


 この頃からチカはヨーロッパに興味を持ち、大学ではヨーロッパの歴史を詳しく勉強したいと思うようになった。

 クラシックというものは、つまるところヨーロッパの音楽だ。その歴史や文化的背景を知らずして、彼らが作った曲を、そこにこめられた思いを、理解できるだろうか。チカが出した答えは、否だ。

 特にチカはバルトークの故郷、ルーマニアやハンガリーについてもっと知りたいと思った。東欧の歴史など、高校の世界史ではサラッとしか教わらないため、深堀りするには大学に行って自分で調べて勉強するしかない。


 そのような理由を説明して、チカは母親に行きたい大学の希望を伝えた。すると「良いんじゃない?」という、何ともあっさりとした返答が。

 てっきり「音大に行け!」と怒られるのかと思っていたチカは、拍子抜けして母親を見つめた。


「音大じゃなくて、いいの……?」

「いいわよ。音大にとらわれなくても音楽はできる。チカが他に勉強したいことがあるなら、それができる大学に行けばいいわ。ピアノをやめるわけじゃないんでしょ?」


 その通りだった。ピアノをやめるという後ろ向きな考えは全くない。むしろ、これからも弾き続けたいピアノ曲への理解のためだ。

 それからチカは真面目に勉強をして第一志望の大学に合格し、史学科の生徒となった。



「というわけで、無事チカも大学に入れたし、今年の夏は家族で海外旅行とかどうかな?」


 第一志望にちゃんと入学できたお祝いとして、母親がそんな提案をしてくれたのはチカにとって嬉しい驚きだった。


「海外旅行かぁー。グアムとかハワイか?」

「えー、やだ。行くならヨーロッパ行きたい。お母さん、私フランスかイタリアがいい!」


 父親の発言をズバッと却下して、妹のマチが欧州行きをねだる。チカもヨーロッパという意見は大賛成なのでマチの隣で大きく頷いた。


「お姉ちゃんは行きたいところある?」

「私は……ルーマニア行きたい。それか、ハンガリー」

「えっ、ルーマニアってどこ? アフリカ?」

「ヨーロッパだからっ! かなり東だけど、ギリギリヨーロッパだから!」

「ふーん……。あ、なんか前、そんな名前の曲、お姉ちゃん弾いてたっけ?」

「そうそう」


 妹のマチはピアノよりも絵が好きで、ピアノのレッスンは小学生で辞め、その代わり絵画教室に通い始めた。親戚に画家の叔父がいて、昔その家に遊びに行った時、叔父のアトリエに魅了されたのがマチの絵画好きのきっかけだ。そのため絵には詳しいが、音楽のこととなると、ピアノの先生が親だとは思えないほど知識が乏しくなる。家でチカが何を練習していようと、ほとんど興味を示さないのがマチの通常だ。


「ルーマニアなぁ……。ヨーロッパ旅行なんて初めてだし、お父さんは行くなら有名なところがいい。それか、飯がうまい国」

「料理が美味しそうな国って言ったら……やっぱりイタリアとか、スペイン?」

「フランスは? フランス料理! オシャレっぽくない?」


 父親の飯うま発言から、母親とマチが候補をあげていく。どうやらルーマニアもグアム、ハワイに続き却下されたらしい。チカは黙ったまま家族の話し合いを聞いていた。


(まあ、どこになったとしても、ヨーロッパに行けるってだけでありがたいから……)


 ルーマニアやハンガリーには、いつか自分だけで行こう。チカはそう決めて、今回の旅行先は妹と母親に任せることにした。


「よし、百円投げて百の方が出たらフランス。花の方が出たらイタリア!」


 そしてなぜか始まったコイン投げ。マチがピンッと指で弾き、百円玉が宙を舞う。チカの妹はイタリアかフランスかを天の意志に任せたらしい。

 そしてイカサマ無しのコイン投げの結果、旅行先の国はフランスに決定したのだった。




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