十九世紀、パリのとある香水店
「最近どう? こんな所に店を構えるなんて……パリの街は君にとって、よっぽど住み心地が良いのかな」
足を組み、椅子に腰掛けている仮面の青年が口元だけで店主に微笑む。彼の瞳は仮面の奥に隠されており、外から覗うことはできない。
店主のニコロは馴染み客である青年に笑みを返した。新作の香水を、彼の手首に試しながら。
「ええ、それはもう。金も人も死も集まる。魅力的な場所ですよ、ここは」
「ふーん。てっきり君はヴェネツィアで店を開くと思ってた」
店内にはたくさん香水の瓶が並んでおり、ここが表向きは香水店であることを教えてくれる。しかし実際は裏で、美肌用の化粧水や媚薬、毒薬といった類いの商品も取り扱っていた。ニコロのお得意様のほとんどはそちらのリピーターだ。
「あそこは古巣なので、少々動きづらいのです」
「顔が知られ過ぎてるから? 貴族の女を誑かすのも程々にしないと、いつか首が飛ぶんじゃない?」
手首の内側につけた新作の香りを楽しみながら、仮面の青年が皮肉げに笑う。これに対してニコロは明るく答えた。
「切られたところで死んでますから、何も問題ありませんよ」
そう、死んでいる。
ここはパリの片隅にある香水店。店主は生者ではなく、吸血鬼。既に死んだ人間が蘇った存在だ。ニコロは自身が吸血鬼だと大っぴらにはしていないが、この仮面の青年とはそこそこ付き合いが長い。お互いが吸血鬼であることはとっくに知っている。
「ところで、いかがでしょう。新作の香水は」
「うん。良いね。好きな香りだ。もらうよ」
「気に入っていただけましたか。それは良かった。ではこちらを、亡国の王子様に」
棚から新品の香水瓶を取り出し、差し出してきたニコロに仮面の青年はムッとした。
「亡国とか言わないでくれる? 俺の国はまだちゃんと存在してる」
「しかしワラキアは最近、隣国のモルドヴァと合併したと聞きましたが」
「形が変わっただけで、滅んでない。間違った呼び方で俺に話し掛けるな」
「おや、これは面白いですね。では滅んだ時の楽しみに、今の呼び方はとっておきましょう」
おどけた調子でニコロが言えば、仮面の青年は笑みを作り、香水を受け取った。
「滅びないよ。カルパチア山脈が崩れたり、俺達の体からローマ人の血が消えたりしない限りね」
ワラキア生まれの仮面の青年、ミルチャはルーマニア人だ。ヨーロッパの東に位置するルーマニアと言えば、スラヴ民族の国に囲まれて孤立したラテン民族の国である。古代ローマ帝国が今のルーマニアの土地を属州とした歴史があるからこそ、そこだけイタリア人と同じラテン系の国になってしまった。
そのせいかイタリア人吸血鬼のニコロは、この仮面のルーマニア人青年ミルチャに親しみを感じていた。自分の故郷ヴェネツィア産の仮面をプレゼントするくらいには。その仮面はミルチャの顔の上半分をしっかりと隠している。
「合併といえば……僕は未だにトランシルヴァニアがハンガリー領であることには納得できません」
第三者の声が響く。注文した商品の確認作業を黙々としていた黒髪の青年が、ニコロとミルチャの方へ視線を向けた。不満をぶつけられ、ミルチャが楽しむようにクスクス笑う。
「その討論、シュテファニツァと決着ついたの?」
「つくわけないでしょう。彼の頭の中は封建時代の騎士のままです。成長が見られません」
「今更成長とか俺達に求められてもね」
話に出てきたシュテファニツァも、ニコロやミルチャと同じ吸血鬼だ。しかしこの黒髪の青年、イオンは違う。彼はまだ死を経験したことがない普通の人間だ。そんな彼に「脳内が十五世紀で止まってるジジイ」とハッキリ指摘され、ミルチャは苦笑しながら立ち上がる。
「ミルチャ、どちらへ?」
椅子から離れ、店の外へ出ようとしていたミルチャはイオンの声に振り返った。
「君の買い出しが終わるまで散歩してる。パリは久しぶりだしね」
「女性の死体は作らないでくださいよ。騒ぎになったら厄介です」
「ならパリから美女が消えるよう、神に祈りなよ」
吸血鬼は人の血を啜る。ミルチャも例外ではない。やめろと釘を刺したイオンだが、ミルチャは同意しなかった。つまり彼の気分次第で血が流れる。出て行くミルチャの後ろ姿から視線をそらし、イオンは被害者となる女性を哀れに思った。




