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グロタンディークもわかるまい

作者: 三須田 急

気がつけば私はまた数学研究室に来ていた。


窓の外では沈みかかった陽光に照らされながら、運動部員たちが爽やかな汗を流している。

コーヒーの優しく芳ばしい匂いが香る中、そんな光景を滲んだ目で眺めていた。


さしてやりたい事も無ければ運動もできない私にとって、羨ましくも恨めしくもある光景だった。


「はい、どうぞ」宮脇先生が私の傍らにコーヒーの入った紙コップを置いてくれた。

椅子に腰掛けた後、「お菓子も食べるかい?」と優しく聞いてくれた。


もらったクッキーの包装を開き、口に運ぶ。

優しい砂糖とバターの甘みが口の中に溶け出した。


飲み込んだ後、紙コップを持ち上げてコーヒーを飲む。

暖かさが心を温め直してくれているようだった。


気持ちが少し落ち着いてきたのでゆっくりと話し始める。


「さっきは取り乱してすいません、ここを卒業したらどうすればいいのかわからなくて…」


「そうだったのかぁ、そんな時期だもんなぁ」先生は笑みを浮かべながら言った。

そんなに優しい口調で言われたら、また涙が溢れそうになってしまう。


微妙に震えが止まらない声で「………何にも無い人間なんですかね…私」と聞いてしまった。

すると先生が「他で割れない素数みたいってところか…」と呟いた。


「……素数ですか?」予想していない反応が返ってきたので思わず聞き返してしまった。


先生がちょっと恥ずかしそうに「ちょっと違ったかな?」と頭を掻きながら言った。


「他の数で割れない、だから中身空っぽの数字ってね?……わかりにくい?」と少々照れながら説明するもんだからちょっとおかしかった。


「素数ですか…そうかもしれませんね……」溜め息混じりに言い放った。


「本当にそうなのかなぁ…勘違いだったりするんじゃ無い?」先生が優しく呟き、こう続けた。


「素数は素数でもグロタンディーク素数だったりするんじゃない?」


「グロタン…?なんですか??」聞き慣れない単語だったので聞き直す。

「グロタンディーク素数さ、57の事なんだけどね」と言った後、コーヒーを喉に注いだ。


「………でも57って」間違っていてはいけないので恐る恐る尋ねた。


「3で割れるでしょ?」気がついたねという感じで答える。


「それでも素数って扱いなんですか?」


「そういう事になったのはグロタンディークって言う数学者が間違えたからだよ」コップに残っていたコーヒーを飲み干した。


「専門家だけど間違えて57を素数と言ったんだよ、周りの人が指摘できなかったというのも面白いところなんだけどね」片方の口角を大きく上げる笑みを浮かべながら語った。


「専門家でも間違える事があるんですねぇ……」紙コップを両手で持ちながら呟く。


「色んな数字や記号に向き合う仕事だからねぇ、1つ1つに本質に気が向かないんだろうねぇ」


なんだか57という数字にシンパシーを感じていると先生がこう続けた。


「…人間だって同じことじゃないかな?専門家でも本人でもその人の本質は読めないもんさ」


「………」


「できる事は他人の方がかえって判断しやすい、でもそれは本人にはわかりづらい」


「……」


「そのまた逆も然りだ、本人が挑戦してみたい事は本人にはわかっても他人には理解されない」


「…」


「だから、色んな事を経験してみて自分には何が向いていて、何なら続けられそうかを試し続けてみたらどうかな?」


「!……」ハッとした。


「まぁ、ようは自分が素数なのかそうじゃないのかはもがいてみるしかないってことだね」


真剣な顔をした後、ちょっと吹き出したように笑い「素数だったとしてもいらない数字ってわけじゃないけどね?」とフォローを入れた。


「…そうですね…」笑顔で答える。

それを見て先生も安心したらしい「さて、コーヒーとお菓子のお代わりはいかがかな?」と聞いてくれた。


「ありがとうございます……もう一杯いいですか?」空になった紙コップをゆっくりと差し出す。

「もちろん、お菓子もどうぞ…」紙コップを受け取り、個包装のクッキーを手渡してくれた。


日が落ち切った頃、ゆっくりと腰を上げて準備室の扉へ向かった。

感じられなかった足取りは軽く、頭と肩にのしかかっていた圧力は減じていた。


途上、ゴミ箱があったので紙コップとクッキーの袋を捨てる。

そして、閉じかかった扉を挟んで対面した。


「自分が素数なのかどうなのかもがいて確かめてみます。」


「そうか、頑張って」先生が左の拳を握り、肩の辺りまで上げて前に突き出した。


それに応えるために私も左手を握り先生の拳に合わせた。


2人の間に笑顔が生まれる。


そして、拳を離すと先生は「…もがいて疲れたらここにおいで、コーヒーぐらいしか出せないけどね」と励ましてくれた。


「ありがとうございます。」深々とお辞儀する。

ゆっくりと扉が閉まり、私は廊下を歩き出した。


いつも薄暗く感じていた照明が灯台の光のように頼もしく感じた。


end

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