1 (1/21改稿)
小説を書いて読む会用に執筆しました。
未完。
近日中に仕上げます。
季節は、夏に差し掛かった。
平地の最高気温が30度を超えるようになって2ヶ月近く経つ。
私達が住むのは県内の都市部からバスで2時間弱の山中だけど、先々週くらいからやはり30度を超えるようになった。
ご近所の農家さんが、バンジュウを下に置くなり額の汗を腕で拭う。
「はーぁ。今日もあっちーやねぇ。
品種改良が追っつかなくてさぁ。昔はもっと安く種も買えて、うちの畑だってもっといっぱい植えてあったんさね。ここの子達に食わせてやれねぇんが惜しいや」
「そんな。これだけたくさん持ってきてもらえるだけありがたいです」
冷凍野菜もあるけれど、やっぱり生のお野菜の方が美味しい気がする。
「……ちゃんと食べてるかい?」
「はい。こないだ教えてもらったレシピも、みんな美味しいって」
「そっかい。そりゃよかった! 食べ盛りの子達が美味しく食べてくれるなら何より、作った甲斐が――」
ピー、ピー、……
農家さんの笑顔を遮って、鉄柵から警告音が鳴り始めた。
「……はー、いけね。長いしすぎちまった。
あっつい中悪いんね。イチカちゃんも早く涼しいとこ戻んなよ」
農家さんが鉄柵の土台からザリザリとお野菜の入ったバンジュウを押し出したので、私も慌てて空のバンジュウを鉄柵の隙間から縦に通す。農家さんはそれを手に引っ掛けて、軽トラの荷台にひょいと投げた。
がごんと大きく音が鳴るのも気にせず、素早く運転席に乗り込んで発進させてしまう。
シートの上からズレていたら底が溶けて歪んでしまうのではないかと、勝手に心配してしまった。
「よい、しょ」
この野菜の詰まったバンジュウも、本来丸いはずの角の部分が荷台の囲いに当たって溶けて、真っ直ぐになっている部分があるものだった。
カボチャは全部煮てしまおう。最近ホクホクにできるようになってきて嬉しい。
トウモロコシはそのまま茹でておやつにするのと、混ぜご飯にするのと。
ナスは色んな味付けができるからたくさんあって嬉しい。
それから、……うん、今夜は肉詰めにしよう。
木陰に入ると自然と息が出ていく。
鉄柵と煉瓦の柱は大きいけれど周りには木や陰になるものが全くないし、敷地外は道路でアスファルトも焼けているから、敷地の外周はとにかく暑い。
鉄柵に囲われ中にたくさんの木々が目隠しのようになって、その中央に私たちの家がある。
勝手口から入って椅子の上にバンジュウを置き、ボウルに水を張ってバンジュウからピーマンを移す。
ジャバジャバ洗っていると、ドタドタと走る足音がすぐ後ろまで来て、足音の主がウゲェと唸った。
「またピーマン来たんかよぉ」
「黄色ばっかりになっちゃうから貰えて助かるよ?
暇ならカボチャ切って欲しいんだけど」
「えー、俺無理。生のピーマンと同じ空間にいられない」
振り返ると、鼻と口を両手で覆ったイッペーがぶんぶんと顔を横に振っていた。
「大袈裟ぁ」
「ちょっとペー。大事な緑黄色野菜なんだからそんなこと言わないの」
ブーたれたイッペーに笑っていると、その更に後ろからニキが来て言う。
「チカ、それやっとくよ。ホールに行って」
「ホール?」
イッペーの肩越しにようやく見えたニキは、マスクをしている。ざわ、と背筋を何かが撫でた。
「来たよ。クスリ。あたしとペーはもう済ませた」
「じゃあ」
改めてイッペーを見ると、両手をぶりっこみたいに頬に当ててシナを作った。幼児が口紅を塗りたくったように口の周りが赤い。
「ん。レイが持ってきた。
それよりペーのはみ出しっぷり酷くない?」
「んだよ、塗れてりゃいいんだろ?」
「唇に塗れとは言われたけど、他の皮膚に塗れとまでは言われてないじゃない。
あんなに不器用なカコだってそんなにはみ出してないのに、あ、こら、拭いちゃダメだって!」
腕で口元を拭おうとしたイッペーの肘を、ニキが叩く。
「やり直しはアレルギーの危険があるからダメって、ツヤが塗り直そうとした時にレイが」
「へーへー! るせぇなあッ」
イッペーは口を歪めて足音高くお勝手を出て行く。
「もう! 何なのアイツ」
「うーん。ニキ、にぶい」
「はあ!?」
「おっと。ホール行ってくるね」
「もう、……チカ!」
聞えないふりをして、小走りに廊下を進む。
ホールのテーブルの上には、リップにしては太い、細めのスティックのりのような円柱形のものが一本あった。イチカ分、と付箋が貼ってあって、それだけで少し浮き足立つ。
先日もらったばかりのラメペンで書かれたその筆跡は、間違いなくレイのものだった。
レイが帰って来た。
私は迷わず、ホールを振り返ってみんなの部屋が並ぶ廊下を抜け、一番奥の扉をノックをする。
「レイ、おかえり!」
「あ」
レイは、唇に塗った薬を拭い終わったところだった。
赤く染まったティッシュが音もなく、床にふわりと着地した。
私達は、山中孤児院という場所で暮らしている。
山中さんという人の話は聞いたことがないけど、もしここを出たら苗字として山中と名乗るらしい。
多分そこに意味はなくて、ただ山中にある施設だからそう名付けられているだけだろうと、何となくみんなわかっていた。
ここが普通の孤児院でないことくらい、同じ年頃の男女だけで暮らしていたってわかる。というか、それも異常なことくらい、察せる。
私達は多分、モルモットなのだ。
自分達の誕生日も正確な歳も知らない。
先輩達がここから巣立つ前に色々教えてくれたけど、それは生活に必要なこととお町(敷地の外で一番近い商店街のある場所のことだ)の行き方についてで、お町にだって普段は行けない。
行ったとしても、私達は買い物ができない。
交通用電子マネーは持たされても、チャージされている額は片道分のみだから。
お町に行って、私たちの他にたくさんの人間がいることと、お店や乗り物を見学したら帰ることになる。
世間一般の人々の尊い暮らしを眺めて、指定の場所で係の人に帰りの分をチャージしてもらい、呼ばれているタクシーで帰る。
昔、私達と同じ代にジローという男の子がいた。
一番優しかった先輩に駄々をこねて、その先輩ひとりを巻き込んで、お菓子を買ったらしい。
交通費の上限を使って余る少しのお金を二人分足して、ひとつの小さなお菓子を二人で分け合って食べたのだという。
結果、彼らはいなくなった。
幼かった私達はホールで寝ていたが、その夜急に玄関ドアが開いて寒さに飛び起きたのを覚えている。
たまに来るけれど、それまでは玄関までしか入らなかった真っ黒な格好の職員さんが三人中まで入ってきて、一人はジローの片手を持って持ち上げて、泣き叫ぶのも構わず抱え、口に何かを取り付けた。ジローは声を出さなくなった。
他の二人が先輩達を個室から全員起こしてきて、寒い風が吹き荒ぶ中パジャマのまま外に追い立てた。
先輩達とジローは、そのまま帰ってこなくなったのだ。(翌朝来たいつもの職員さんは巣立ちだと言った。)
その時ニキは一番端の扉側で、ジローのすぐ隣で寝ていた。ジローを持ち上げた職員さんが「ケンタイの癖に」と言ったのを聞いたという。
半ばパニックを起こしていた私達の中、レイだけが呆然と呟いた。
「だから数字なんだ」
私達の名前は、識別番号なのだと。
レイ、イッペー、ジロー、ミツヤ。ミカコ、ニキ、そして私のイチカ。
ただの部屋番号だと思っていた個室の扉の赤と黒の数字を、私達は呆然と見上げた。
そして、私は気付いてしまった。
赤でも黒でもない、ただ楕円が彫ってある木製プレートがかかった突き当たりの部屋は、本来モルモット用ではないこと。
つまりレイは私達と同じようにここで飼育されているけれど、多分、本質的には全く違う存在なのだろうことを。
レイは先輩たちの巣立ち以降、時折職員さんに連れられて外に出ることがあった。
「知識を得るため」なんて小難しく言われて、イッペーやミカコはすぐに興味をなくしていた。そんなことより昆虫採集や絵を描く方がいいのだと言って。
ミツヤは本が好きで、私達の中で一番読書家だったけれど、知識についてレイに詳しく話せないと言われて臍を曲げた。どんどん頭が良くなるレイを見て負けじと本を読んでいたが、外に出る度雰囲気が変わるレイを見て、そして呼ばれ続けるのがレイだけなのを悟って、やがて本を読まなくなったようだった。
ニキは学級委員を名乗り始めて、特に奔放なイッペーを注意することが多くなった。多分、もう私達を減らしたくないんだろう。
ニキへの不満を漏らすイッペーはレイに諭されてから、明らかにニキを意識するようになった。
レイは「大事だから注意するんだって言ったんだ……特別とは言わなかったはずなんだけどな」と苦笑していた。仲が悪くなるんじゃないならいいと思う。
私は、口数が少なくて比較的大人しく、主にやっているのは読書と料理だ。
最初にレイが連れられて行って帰って来た後、こっそり教えてくれたから。
それは、料理本を眺めながらぼんやりしている時だった。
「どうしたの、お腹痛い?」
そう言われて手の中にトイレットペーパーに書かれたメモを握らせられながら、「お腹が痛いフリをして屈んで読んで、流して」と耳打ちされた。
そっと窺うと、頭を撫でる手に目を合わせられた。見たことのない、真剣な瞳だった。
ゆっくりと瞬きをしてみせた。私の反応は正しかったみたいだった。
トイレ前まで付き添ってもらって、女子トイレの扉を閉めて個室に入った。意味がわからないばっかりで、それが覚束ない足取りに見えていたと思う。
――監視カメラと盗聴機があって、全部職員さん達が把握している。
「は」
意味がわからない、と思いたかった。でも、レイの行動を見ていたから。
――連絡手段がなくても、俺達の困ったことをわかって解決してくれただろ。
脳裏に浮かんだのは、ミカコのことだった。
ついこの間、誰よりも早く生理が来たけれど、その時の私たちには生理の知識が無かったのだ。
震える手で私の袖を掴んで、「どうしよう、私、死んじゃうのかな」と言った蒼白の顔は忘れない。
女子三人でお勝手に集まってどうしようと言い合っている間にミカコの服が汚れて、ニキがミカコをトイレに連れて、私はミカコの着替えを取りに行った。その時レイとすれ違って、どうしたのか聞かれたのだ。
「大丈夫? 大人がいた方がいいこと?」
「そうだけど、次いつ来るかわからないじゃん!」
「職員さんに来てほしいってことね」
そうしてその後、女性の職員さんが本当に来た。レイが連絡手段を持っているのかと思ったけど、そうじゃなかったんだ。
女子三人のやり取りと、私とレイのやり取りを見て、聞いて、職員さん達は必要な物と教科書を持って来たのだ。
全部、筒抜けだったのだ。
職員さんには男性も女性もいる。みんな、私たちの言動を、全て、見られて、聞かれている。
イッペーが焼き芋を作ろうとして火事を起こしかけた時も。
ミツヤが手首にケガをした時も。
……待って。
レイはさっき何て言った?
『屈んで読んで』?
それはつまり、ここにも、カメラが……?
お腹が痛くて身をよじるふりをしながら辺りを見回す。
カメラ、なら、レンズがあるはず。レンズは、多分丸っこくて、大きくない……。
あった。
二つある個室の丁度真ん中にある電灯の、飾りのところ。
多分、手に持った紙は髪に隠れて映っていない。
でもそれ以降は何だか無性に怖くて、下ばかり見ていた。
出るものなんてなかったけれどトイレットペーパーでレイからの手紙を包んで、使うふりをして便器に投げ捨てた。音、音は不自然でなかったろうか。
動揺しながらレイのところに戻ると、部屋に案内された。
ベッドに入れられて、レイの匂いに包まれて、頭を撫でられたらすごくホッとしたのを覚えている。
怖がらせてごめん。囁いて、レイはホッカイロを出して、それを私にくれた。
各部屋と廊下、お勝手、勝手口の外、玄関外に一台ずつとホールに3台あるらしい。
盗聴器については不確かだけど、トイレにはないらしい、と言うことだった。
カメラに死角は多いし、盗聴機もこまめにチェックされているわけではないらしい。
それでも、身構えて暮らすには十分で、私は死角の多いらしいレイの部屋に行くことが多かった。
レイは誰にでも優しい。
けれど、わかりづらく線を引いている。いや、いた。
いつからか、私だけには、その線を引き直して、少しだけ内側に入れてくれるようになった。と、思う。
いつだったか、気づいて少し経った頃にレイに訊いたことがあった。
「どうして私なの?」
「それ、俺に訊く?」
私達はいつも通りレイの部屋のベッドに隣り合って座って、こそこそと内緒話をしていた。
私達の部屋は総じて狭い。扉を入ってすぐチェストがあり、その反対にベッド。ベッド脇には片側だけ歩ける通路があって、出窓に読書灯が一つ置いてある。幼児期はホールのチェストにまとめて着替えが入っていて、どれが誰のという区別も無かったので個人のものを分けられるだけありがたいのだけれど。
レイの部屋だけは、幅は同じだけれど長さが二倍で、ベッドの置いていない方には鍵のかかる大きなチェストがあった。
「他に誰に訊くの?」
「あー……いや、うん、俺で正解。うん。
あのね、……最初にカメラの話をした時は、あんまり大きな意味はなかった。
二紀は二郎の件以来ちょっと様子が変わったし、三佳子はイマイチ何考えてるかわからなかったし、一平は騒ぐだろうし、三弥は俺に対抗意識があったから話しづらかった。から、消去法で、でも誰かと共有したくて
「なるほど」
すごくわかりやすい説明で、深く納得できた。その納得が心の深い場所で、何かを押し潰そうとしている気がする。
「でも。それで怖がらせちゃったのを反省したんだ。
なのにその後、すごく慎重に生活しながら、何か困ることはないか、手伝えることがないか訊いてくれたから」
いつもより声が低く掠れて、聞き取りづらい。男子はみんな声変わりをしてしまったから、たまにこう言うことがある。
「……それから、他の奴らが何だかんだいい雰囲気ってのもあるけど」
今度は内緒話ではなく、普通の大きさだ。これは盗聴されてもいい会話なのだろう。
全部ヒソヒソ話でも不自然だし、私達も普通の大きさの声で会話することだってある。
「いい雰囲気?
イッペーがニキのこと好きそうなのはわかるけど」
イッペーは単純で、すごくわかりやすい。
花にとまってた虫が欲しかったから花ごと摘んで捕獲した、花はニキにやる、なんて面白いことをする。
それを見たミツヤは笑いのツボに入ったらしく呼吸困難を起こしかけて大変だった。
そう言えば、そのミツヤの背中を撫でて落ち着かせようとしていたのはミカコだった。
「あれ? もしかしてミカコって」
「え、気付いてなかった?」
もしかして私も、ニキのことを言えないくらい鈍かったりするんだろうか。
「でも、ニキは別にイッペーのこと好きじゃないでしょ?」
「そうだけど、時間の問題な気がしない?」
「そうなのかなぁ」
ニキはイッペーを手がかかると言うことはあるけど、格好いいとか言うことはない。
私も小さい頃イッペーに髪を引っ張られたりしていたから、今はされなくても、ちょっと近寄りがたい。
「ああ、そうか。一果は一平が苦手だもんね」
よしよし、と頭を撫でられて、少し恥ずかしさもあるけど笑顔になってしまう。
「うん。私は一緒にいるならレイみたいに優しい人がいいよ」
「……そう」
頭を撫でる手がゆっくりになって、耳の後ろを通って首まで下りた。その手に力が入って、その力のまま私の頭はレイの肩にとんとぶつかって止まった。
肩越しに聞えるレイの鼓動は、何だか少し早い気がした。
前回レイがお勉強に行っていた時の最後の夜。トイレに行った私がホールを通って自分の部屋に帰る頃。
月はてっぺんにいってしまって窓から見えなかった。
私達の部屋は男女合い向かいになっていて、ホールを背にすると左側が黒の数字、右側が赤の数字が振ってある。一番奥の突き当たりがレイの部屋で、次が1、2、3でそれぞれ自分の数字の部屋を使っているのだ。
ホールを出てすぐ「あっ」と高い声が聞えた。3の部屋からだから、うっかりもののミカコがまた何かしたのだろうと思って通り過ぎようとしたが、聞えたのは左側からだった。
こんな夜中に、ミツヤの部屋で、どうしたんだろう?
近づいて耳をすますと荒い息遣いが聞えて、私は静かにパニックを起こしていた。
どうしよう、急病かな⁉︎ 監視カメラでわかるような状態だろうか。
慌ててノックもせずドアノブに手をかけたけれど、ドアノブはうんともすんとも動かなかった。
え、と思考が停止する。
この孤児院内で鍵がかかるのは、トイレと浴室とレイの部屋のチェストだけだ。
どうして、と思っている間に、少し息の荒い声でミツヤが大丈夫か問う声がする。
「ん、……だい、じょうぶ」
少し苦しそうだけど、何だか喜んでいるような声音だ。
転びそうになったところを助けてもらったとか、そういうことだろうか。
大丈夫なら、いいか。いいよね。
不安ながらも無理やり納得して、私は部屋に戻った。
だって監視カメラに全く映ってないことはないだろうし、急病なら職員さんが駆け付けて来るはずなのだから。
翌朝ふたりに訊いてみればいいやと思っていたけれど、朝ごはんが済んだ頃にレイが突然帰って来たので訊きそびれた。
「レイ! 早かったね?」
もう一日二日いないものだと思っていたし、いつも帰って来るのは夕方か夜だったから驚いたのだ。
「うん、……夜、移動して……あんま寝てないから、部屋で、寝る……」
「大丈夫?」
自分の言葉で昨夜のことを思い出してミカコを振り返ろうとしたけど、レイにグッと肩を引っ張られた。
「昨日の話は、三佳子にも、三弥にも、他のふたりにもしちゃダメ」
耳元で、疲れた声が響いて、何だか少しゾクッとした。
「え、……うん、わかった」
「本当に、ダメだからね」
「大丈夫だったんだもんね?」
「あー……うん……大丈夫。大丈夫、というか、まあ、大問題ではない、というか。
一果は気にしない方がいい」
「わかった」
何だかそわそわしたけれど、レイは私たちの中で一番ここの現状を把握しているから、彼がそう言うならそうなのだ。
みんなで食べた昼食にもレイは出てこなくて、朝も食べてないらしかった彼の分のスープとおにぎりを用意して、昼食後に部屋に向かった。
お勝手から個室に行くにはホールを経由する必要がある。
ホールの隅っこでは珍しく、ミツヤがイッペーの肩を組んで何か楽しそうにコソコソと話していた。
イッペーが「え、途中でやめんの⁉︎ 無理じゃね⁉︎」と叫んでミツヤに頭を叩かれていた。あの距離であの声はうるさいと思う。
ミカコは、今日は自室で絵を描いているのだろう。
扉はノックするものだってレイから教わったから、レイの部屋は必ずみんなノックする。
トレイを持った手でどうしようかな、と少し考えていたら、中から声が聞えることに気付いた。
「……ごめん」
「いいの、……本当は、ちょっとわかってた」
なんだろう。レイと、ニキの声がする。ニキがレイの部屋に来るのはとても珍しくて、とてもそわそわする。
「じゃあ、もう行くね。お休み中ごめんなさい」
「いや、……ありがとう」
あ、出てくる。
思わず二歩下がって、いや悪いことしてないしと思い直して一歩進んだところで、扉が開いた。
ばち、ニキと目が合う。
「今来たとこ?」
「うん、何で?」
「ううん。……ああ、そっか、レイはご飯も食べてないものね。
イチカは気付いて、作ってくるんだ」
「うん? それは、いつも私が作ってるし?」
「……そうだね」
何だかニキの声がとても冷たい。
ニキにかける言葉が見つからないまま、ニキは行ってしまう。
「一果?」
「あ、うん、お昼持ってきたよ」
「ありがと」
レイは、笑顔で出迎えてくれる。
いつの間にかちょっとささくれだっていたらしい心が、ふわんと柔らかくなったのを感じた。
「レイはすごいね」
「え。なに、何で⁉︎」
「褒めてるのに何で焦るの?」
「いや、あー、はは、ありがとう?」
「うん。さ、召し上がれ」
外のご飯も知っているレイが、私のご飯を美味しいと食べてくれるのってとても嬉しい。
そう言ったら、レイは少し寂しそうな顔をした。
「もうすぐ、」
「もうすぐ?」
レイは何かを言いかけて開いた口に、残りのおにぎりを詰め込んでしまう。
盗聴されたらマズい話かな。
スープの最後の一口も流し込んだの確認して、そっとレイの口元に耳を寄せた。
「もうすぐ、みんなで一緒にご飯が食べられなくなるかもしれない」
「え?」
「先輩達より、俺達は大きくなったろう。
でも、下の子は入ってきてない」
「うん、……そうだね」
「多分ここは、次の便で閉鎖されるんだ。
それぞれの役目を、こなすことになる」
「役目?」
「本当は三つの番とオペレーターのはずだった。
でも、俺は、……一果が、どう扱われるか不安で」
「私?」
「ここで十六まで育ってしまったみんなは、社会には出られない。
俺だってやっぱり外ではちょっと浮くし、そんなところに一果を連れて行く方が可哀想だってわかってる、けど」
「社会? 外って、なに?」
「……ごめん。まだ、うまく話せない」
「いいよ」
何だかレイが泣きそうに見えて、そんなこと初めてで、私は出窓にトレイを置いてすぐに戻って、レイの頭を抱きしめてよしよしした。
「多分、もうすぐ……赤いクスリが来たら、この生活は終わるんだ」