継 -Taste of home- 【高遠香奈生誕祭2022】
それは、式場の宣材写真の撮影中にもたらされた。
「頼みがあるんだ」
フラッシュの強い瞬きに照らされた彼の顔。いつになく締まった顔つきと眼差しに、返そうとした言葉を圧して続きを待った。
「一緒に、行ってくれないか」
「どこへ?」
スタッフに呼ばれて視線を戻したそのとき、再び強い光が瞬く。
「国枝の家に」
まともに浴びてパチパチと星の爆ぜる視界の向こう、思わず見つめたその表情に、時も呼吸も、すべてがいっぺんに止まる思いがした。
古い造りの離れの二階から、なるべく静かに木組みの階段を下りる。そうして母屋に続く廊下を進み台所を覗くと、香奈は流しの前に立った老婦人の背中に声をかけた。
「おはようございます、佳代さん」
声をかけられた彼女、西本佳代は、重ねてきた年月を目元にゆったりと寄せた。
「あら、まだ寝てらしていいのに」
いえ、と返しながら隣に立ち、タイル貼りの流しで手を洗う。蛇口から出る仲秋の水はだいぶ冷えており、触れた指先が一瞬たじろいだ。
「ご披露の当日ですし、何といっても主役なんですから、色々と準備があるでしょう?」
「厄介になっているのは自分達ですし、せめてこのくらいは」
「そんな。むしろ人数が居た方が、家事にも張り合いが出るってもんですよ。一人暮らしにはいい刺激ですから」
腕まくりの真似をする佳代に笑みを返してから、今ここに至る経緯をひととき思い起こした。
事の起こりは今年の春。浩隆との入籍を控え、両家顔合わせのため来日していた彼の伯父から『両親の婚礼衣装が残っている』と教えられたのだ。この家に――現在は佳代の住居であり、かつては浩隆の祖父たる陽光医師が開いた診療所兼自宅であった建物――に保管されていた、古い紋付と白無垢、そして色打掛を何かに使ってもらえないかと。年代物の婚礼衣装など貴重で願ってもなく、予約していた式場からの提案もあって、挙式の翌日に運良くその機会を得ることができたときには心が踊った。
だからこそ、あの場で伝えられた彼の言葉に驚いたのだ。
『日を改めて、国枝の家でもう一度写真を撮らせて欲しい』
そういう声色からは何の感情も伺えず戸惑ったが、兎にも角にも数ヶ月の調整期間を経て、今日この日を迎えている。
「以前お墓参りに連れられて来たとき、いつかここにも来られたらとは思っていたんです。でも……正直言うとほとんど諦めていました。彼が自分からこの家に来たがらない限り、私も来ることはないと覚悟していましたから」
意図せず声が沈んでしまう。それを察してか、浩隆の幼い頃を知る佳代の表情もかすかに曇ったように見えた。
この家で過ごした幼少期の具体は、未だに彼の口からは聞けていない。しかしその端々は、ここを訪れて来の姿に見えていればおのずと察せた。
彼と彼の母親が使っていたという離れ。箪笥にしまわれていた子供服や、玩具に絵本。それらは決して艱苦ばかりではなかった生活を物語っていたし、彼自身もそれらを穏やかに眺めていたように思う。
けれど一方で、医院の区画に立ち入ったときには、やはり緊張が勝っていた。佳代によって綺麗に維持されていたせいもあろう、処置室や調剤室には医療施設然とした空気が漂っていたし、なにより診察室に入ったときの彼の面持ちには、何物にも形容し難い心情が投影されていた。
「見惚れましたか?」
その言葉に回想から引き戻される。昨日家の中を案内された時にもかけられた言葉に、頬がじわりと熱くなった。
「もしかして、また顔に出てました?」
ええ、と率直に返されてなおも熱が湧く。まるで場違いな感情を言い当てられてばつが悪くなった。
「すいません」
「謝ることなんてありませんよ。みんな等しく見惚れたものです」
「え」
「陽光先生も浩隆さんと同じに美男子でしたからね。診察衣を着た姿は、なおのこと絵になりました」
家政婦というのはそりゃあ役得でしたよ、とほうれん草の束を手に取り洗いながら続ける。
「先生は腕のいいお医者様でしたけれど、母国から離れ、文化がまるで異なるこの土地に根を張るというのは、それこそ苦心の連続でしたでしょう。眉間にシワを寄せて、怖い顔をなさるときもよくありました。でもね」
鍋の中、塩を入れ沸いた湯に根本を浸けてしばし待つ。
「朋恵さんは、そんな様子をただ黙って見ておられましたよ」
「え」
「私がここに上がったときには、お二人は既にご結婚されていました。されども朋恵さんはお声もかけず、手も出さず、先生が苦悩されている間、ただひたすら黙っていたんです。奥様なのにと、最初は不思議に思いましたよ」
言いながら株全体を湯に浸す。
「ですから、後から聞かされたときには驚きました。結婚する前、朋恵さんは先生にこうおっしゃったそうなんですよ。『あなたの意思はあなたのものでしかなく、私や他人が定義づけ誘導していいものではない。だから私はひたすらに待つ。そうしてあなたが思案熟考の末に自らを発現した時には、私は誰より早くに立ってあなたを称え、推進者となり、同志とも語れる存在になりたい』と」
次いで菜箸でつまみあげ、冷水に取る。
「その話をしてくださったときの先生ときたら、『ただ見ているだけだなんて、とんでもなく薄情だと思わないか』って、まるで締まりのない顔で。あぁこの方はこういうお顔もできる方なのか、朋恵さんは、この方にこういう顔をさせられる人なのだと気が付きました」
ふふ、と当時を思い出したのか小さく笑う。添え、陰で支えが美徳とされた時代に、沿い並ぶを貫いた朋恵という人は、確かに立身した女性であったのだと感心すると同時に、おやと香奈は思った。似たような言い回しを、どこかで耳にしなかったか。冷水から上げられ絞られる様子を見ながらはっとした。
『お前はお前でしかない。私が定義づけるものではない、ってバッサリだよ』
「あっ」
思わず声が漏れ出る。
「どうしました?」
いえ、と濁しながら気づきを反芻して。
そうか。
もしや、そういうことではないだろうか。
推測のとおりなのだとしたら、そう思うと胸が切なくなった。おそらくは遠くない真実、同時に、それを伝えようか伝えまいかとの新たな葛藤が生まれて心が乱れる。
「あなたは……」
そんな中かけられた言葉。さくりさくりと包丁で切る音の中、後に続く文句をあえて押し留めたかのような不思議な余韻。香奈にはそれが、すべての事実を知った上で今後の己のありようを問い、見定めようとするものに聞こえた。
「あたしは」
答えようとした刹那、両肩にずしりとした重みが乗りかかる。おそらくこれは、纏おうとしている朋恵の婚礼衣装と同じだけの重み。これまでにしてきた決意にも似て、けれどどこか毛色の異なるそれにひとときひるむが、ぐっと噛み締め奮い立たせて佳代に向き合った。
「見届けます。最後まで。彼ならきっと辿り着くと思うから」
背筋を伸ばして真摯に放つ。
「そう言うだろうと思っていましたよ」
柔らかな笑みと共に再び手を動かし、切ったそれを皿に取る。
「あなたの浩隆さんを見つめる眼差しは、あの頃の朋恵さんとすっかりおなじでしたからね」
思いがけない返し。反応に迷ったその隙に、佳代は流しの下から年季が入ったすり鉢を取り出した。
「胡麻和え、浩隆さんの好物でしょ?」
「あ、はい」
「調味は朋恵さんの秘伝なんです」
予め炒っておいたらしい胡麻をその中に投入し。
「先生にとっては、ほとんど唯一の、ご自分でなされるお料理だったんですよ」
真実とすり棒が、期待を宿した笑みと共に渡される。
「しっかり継いでくださいね」
「はい」
熱を込めて強く言い切り、香奈は早速手を動かしながら思った。
これから先、選び辿る道。そして至るその時を見届けるべく。
だから心して身に纏おう。
ありし日と同じく寿ぐこの日、継がれる時の重みをと。