後編
「お前、今日機嫌悪くない?」
授業中、隣の席の加佐谷が言った。
この男は、中等部からの腐れ縁だ。
「別に。」
涼太は短く答えたが、拗ねた声は十二分に不機嫌オーラが漂っている。
「竹原と喧嘩した?」
「してねぇよ。」
といいつつ、力んだ拍子にシャーペンの芯が鈍い音を立てた。
「図星か。」
「違っ…。」
「竹原、繊細だもんな。謝りどころ間違えるなよ。」
「兄貴と同じこと言うんだな。」
「え、俺、お前の兄貴と同じこと言ったの?ウケる。」
加佐谷は声を殺してククッと笑った。
(楽しんでやがる…。)
涼太は不愉快だった。
兄や悪友の言うように、確かに清来は繊細かもしれない。しかし、自分の機嫌の悪さがなぜ清来と喧嘩したことに直結するのか、理解できない。
(喧嘩…したのか?俺が気づいていないだけで。)
涼太は、眉をしかめた。
昨夜の会話は、他愛ない内容だ。
何度思い返しても、喧嘩の原因が思い浮かばない。
(まてよ…。)
強いて挙げるなら、昨日の会話で一つ、意見の食い違いがあった。
清来の親友の田口が、先輩に告白するのをためらっているとかなんとか。
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『え、それっておかしくね?好きならちゃんと伝えるべきだろ。』
涼太は、きっぱりと言った。彼は、自分の気持ちに真っ直ぐな性格だ。
『でも、四年生は就活忙しくなるし。迷惑かもって。好きな人に迷惑かけたくないって思わない?』
『就活は、別問題。うじうじしてんのは相手のためじゃなくて、自分が怖いだけじゃん。返事を決めるのは相手だよ、そこ、間違えてね?』
『別問題って考えられないから迷ってるんだよ、律ちゃんは。大抵の女の子は、怖いと思う。涼ちゃんは迷いがなくて良いね。』
『そう?俺は好きなものは好きと言う。相手にもそうして欲しいね。うじうじされんのは、性にあわん。』
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涼太は、顔をしかめている。
本当に、彼にとっては他愛ない会話だ。
(あれは喧嘩じゃない。もしかして、清を傷つけた?)
涼太はまだ、清来から一度も「好き」と言われたことがない。
この二年間、自分は付き合っていると思っているが、幼馴染みの延長上に関係が続いているだけとも言える。
(清は、俺のこと…。)
今更ながら、涼太は思いにふけった。
美術部の部室に、充電器があったかもしれない。
少なくともケーブルさえあれば、どこでだって充電できる。
授業後には、携帯も復活しているだろう。
清来は、授業中に携帯を触らない。
今メッセージを送ったところで、返事は期待できないのだ。
涼太は集中できないまま、ただ悶々と、九十分をやり過ごすしかなかった。
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「脱兎の如し」とは、この時のための言葉である。
涼太は授業が終わるやいなや、加佐谷の声も無視して教室を飛び出した。
向かう先は、清来が所属する学部棟。
彼は早足で歩きながら、携帯を耳に当てた。
充電はできているようだが、応答はない。
(出ろよ、電話!)
避けられている、とは思いたくない。
何かに怒っているのなら、はっきりとそう言ってくれればいい。
焦りとも苛立ちともつかない胸騒ぎが、こみ上げてくる。
「おい、田口!」
彼は棟を連結する渡り廊下で、清来の代わりに彼女の親友を見つけた。
一緒にいる数人の女子の中に、清来の姿はない。
「高見君?」
涼太の剣幕に、田口律は、驚いた様子で相手を見た。
「清は?」
「清ちゃん?…えっと、先生に頼まれて教材を研究室に持って行ってるよ。」
「どこの?」
「…どうしたの?そんな怖い顔して。何かあった?」
「別に…、なんもないけど。」
律のおっとりとした優しい視線に、涼太は急に勢いを失った。
「清ちゃんそのまま食堂に行くって言ってたから、そっちで待つ方がいいかも。研究室に行ってすれ違うより、確実だと思うよ?」
彼女の提案に、涼太は少し心が揺らいだ。
さっきも美術部に駆け付けて、清来とすれ違っている。
広い構内にはいくつものルートがあり、清来と自分が同じ通路を選ぶとは限らない。
「そっか、ありがとな。」
涼太はくるりと方向転換すると、食堂に向かうことにした。
ここからだと、突き当りの階段を使うのが最短距離だ。
涼太は、段飛びで階段を駆け下りた。
急がないと、また清来を取り逃がしてしまいそうな気がする。
「涼太!」
食堂があるホールにさしかかった時のことだった。
聞きなれた声が、涼太を引き留める。
心の中で舌打ちをしつつ、彼は立ち止まった。
「先輩?」
東側の廊下から近づいてきたのは、一学年上の田崎だ。
高等部では同じ部活で、彼は今でも涼太を可愛がっている。
「あ、急いでんの?今ちょっといい?」
よくない。今、急いでいる。猛烈に急いでいる。
「え、急いでるっちゃ急いでますけど…。いいっすよ。」
喉元まで出かかった心の声を押し殺し、涼太は愛想のいい返事を返した。
「この前言ってた漫画さ、やっぱ貸してくれない?紙媒体で読んでみたくなったわ。」
「もちろんっす。今度持って来ますね。」
「ありがとな。お前、食堂に行くの?」
言いながら、田崎は食堂に向かってゆっくり歩き始めた。
「あ、はい。ちょっと清を探していて。」
「竹原?俺、さっきすれ違ったぞ。」
「え?どこでですか?」
意外な目撃証言に、涼太の声は昂る。
「えっと…、美術部の前?部室に入ってったと思うけど。」
「部室に?」
(どうなってんだ?食堂に来るんじゃないのか?)
涼太は顔をしかめ、考えた。
彼は今日何度、こんな顔をしているだろうか。
「どうした?らしくない顔して。」
「いえ。こっちに来るって聞いたんで…。メッセージ既読にならないし、あいつ、電話にも出なくて。」
「ふうん。喧嘩したの?」
「してないっす!」
威勢よく答えたものの、涼太はだんだんと確信が持てなくなっている。彼は小さく「…多分。」と語尾につけ加えた。
「えらく弱気だな。それで、お前どっちに行くつもり?」
田崎が指で別々の方向を指しながら言った。
指先の一方は部室の方へ、もう一方は食堂に向いている。
田口の言葉を信じて食堂で待つか、田崎の目撃情報を信じて美術部に向かうか。
「ぶ、部室。」
涼太は、美術部を選んだ。
研究室の後、部室に寄り、それから食堂に来るのかもしれない。それなら、いつものルートを通るはずだ。
意識的に行わない限り、習慣になった人の行動は簡単には変えられない。
(今日はとことん追いかけてやる。)
涼太は、半分やけくそになっていた。
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「えっと、何で?先輩。」
涼太は、隣の田崎に聞いた。
急ぎ足で廊下を歩く涼太に合わせ、なぜか田崎もついてくる。
「ん。涼太がちゃんと竹原に会えるか、俺も責任感じるんだわ。なんか深刻そうだし。」
「は?大丈夫っすよ。そんなことで先輩恨んだりしないですから。」
「ほんとか?部室に竹原がいなくても、絶望して飛び降りたりしない?」
「しませんって。」
食い下がる田崎に、涼太は呆れ口調で答えた。
「でもお前しつこいからさ、死んだ後、俺のこと恨んで枕元に立ちそうじゃん?」
二人は往来を避けながら、器用に進む。
「しつこいって…、俺のことそんなふうに思ってたんですか。てか、今日の先輩の方がしつこいですけど。」
「そう?でもお前、しつこいって言われない?」
「それは、言われないこともないですけど。俺、しつこいですか。」
涼太は、少し口を尖らせた。
「それに、らしくないほど深刻な顔してたぞ。」
二人は、階段を上った。
今度は廊下の先に、見慣れた顔の腐れ縁男がいる。
「よぅ、高見!」
「加佐谷?なんで?」
「え。お前、俺が呼び止めたのに無視して飛び出してったろ?竹原に会えた?」
「会えてねぇ。なんでお前、美術部の前にいんの?部員でもないのに。」
涼太は不愉快そうに言った。
自然に、ドアに手を掛ける。
「お前だって、部員じゃないじゃん。我が物顔でふつーに出入りしてるけど。」
加佐谷と田崎が、からかうように涼太を見る。
清来と会えずにイライラしている涼太の様子が、心底楽しいらしい。
「うるさいわっ。」
ガラッ
パパンッ パンッ
破裂音と色とりどりの細いテープが、涼太を襲った。
「へ?」
彼は目を丸くしたまま、完全に静止する。
まじまじと見つめる視線の先には、クラッカーを手にした清来が立っていた。
「お誕生日おめでとう、涼ちゃん。」
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「ひゅう~!大成功?!」
背後の加佐谷が嬉しそうに叫んだ。
彼は、拍子抜けした顔でつっ立っている涼太の肩に、勢い良く腕をまわした。
「コレ…?」
涼太が、加佐谷を見る。
「サプライズだよ!竹原が、お前より早くお前の誕生祝いしたいって言うからさ。」
「俺より早く…。本当?清?」
「うん。律ちゃんに相談して、皆に協力してもらったの。」
清来が、隣に立つ親友、田口律を見る。
「さっきはごめんね、高見君。」
律は、いたずらっぽく微笑んだ。
「田口っ…、お前、知っててあんなこと言ったのか…。」
「あれはちょっとビックリしたよ。まさか、あんな剣幕で清ちゃんを探しに来るとは思ってなくてさ。咄嗟のでまかせだったの。」
「そそ。本当は俺がお前をここに誘導する予定だったんだけど。授業が終わったとたんあり得ねぇ速さで飛び出して、見失った。」
加佐谷が付け加える。
「それで俺のところに連絡がきて、急遽お前を呼び止めに食堂に行ったの。マジ、焦ったわ。」
今度は田崎が補足に入った。
彼はあの時偶然を装って呼び止めたが、実は慌てて食堂に向かったのだ。
「なんだそれ…。」
何も知らずに不完全燃焼のモヤモヤを抱えていたのは、自分だけだったのだ。
涼太は、体中の力が抜けきってしまったようだった。
「それじゃ…、今朝のことは?清?」
彼は、思い出したように清来に問いただした。
「あれは…コレを取りに行ったの。」
清来はそう言うと、後ろのテーブルに用意された誕生日ケーキを披露した。
フルーツがふんだんにデコレーションされた、生クリームたっぷりの白いケーキ。
中央には、「Happy Birthday Ryota」と書かれたプレート。そして1と9の数字のキャンドルが飾られている。
「授業前に学校に持って来たかったから。お店の人に無理言って、営業時間前に開けてもらったの。」
「だぁ~!もう!」
涼太は、叫んだ。
ホッとするやら嬉しいやら悔しいやらでごちゃごちゃになった感情が、悲喜こもごも混ざり合っていた。
「やられたわ。お前だって、今日が誕生日なのに。」
「いつも、涼ちゃんにお祝いを先越されるから。」
涼太と清来は、どちらも六月三日生まれ。
物心ついたころから隣同士に暮らす二人は、二卵性双生児のようなふたご座の幼馴染なのだった。
「でもね、清ちゃん。」
律が、嬉しそうに言った。
「私たちは清ちゃんのこともお祝いしたくて、プレートをもう一つ用意してしまいマシタ。」
彼女はそういうと、「Happy Birthday Seira」と書かれたもう一枚のプレートを飾りつけた。
「お誕生日おめでとう。高見君、清ちゃん!」
パパン パン
クラッカーが弾け、綺麗な紙吹雪が二人の頭上で舞った。
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「ほんと、今日はやられたわ。ありがとな、清。」
涼太は、隣を歩く清来に言った。
一日の始まりは気分が落ちたり焦ったりと最悪だったが、今は清来と二人、帰宅の途にある。
「ん…。あの、涼ちゃん。」
清来が、妙に緊張した声で涼太の名を呼んだ。
「どした?気分悪いのか?」
「ううん。そうじゃなくて…。あのね。昨日の夜の話、覚えてる?律ちゃんのことで…。」
「あー、うん。」
(あのことね。)
涼太は、短く答えた。
「涼ちゃん、うじうじされるのは性にあわないって言ったよね。」
「うん、言った。」
「それで私、多分、ずっとうじうじしてて。その、ちゃんと言わなきゃって、ずっと…。」
涼太は、言葉を絞り出す清来を見た。
その顔は、今にも泣きそうだ。
はち切れそうな心臓を、彼女は必死に抑えている。
「わ、私…。」
涼太の腕が、清来を強く抱き締めた。
二人を取り巻く空気が、一瞬止まる。
「わかってる。続きを言って。一番近くで聞きたい。」
「涼ちゃん…。」
清来は、抱き締める涼太のシャツをギュッと掴んだ。
心臓が破裂する。たった一言のために、彼女は何年かかったか。
「好きです…。」
「うん。」
涼太は、耳元で囁く清来の声を確かに聴いた。
「もう一回、言って。」
「好き…。」
「俺も好きだよ、清。今日は、最高の誕生日だ。」
涼太は、心の底からそう思った。