僕と大学
状況を整理してみよう。
いち。僕は前世後遺症を治すために前世を思い出さなければならない。
に。僕の入院中に出来た僕の知らない恋人を見つけなければならない。
さん。ついでにその恋人が何者であるかを探らなきゃならない。
……こんなところ?
「いや……やる事が多すぎるし抽象的過ぎる……」
よく晴れた日の金曜日。僕が頭を悩ませて停滞していても日常は進む。
熱で休んでた分の授業は大体知り合いにノートを見せて貰えたが、プリントが無きゃ提出出来ない課題が一つあることが昨日判明した。教務課を通して先生に連絡をつけたはいいけど、わざわざ取りに行かなきゃならないっていうのが億劫だ。
──まあ、先生なら多くの学生を見ているわけだから、僕の恋人(仮)の手がかりになるかもとは思ってるんだけど。
はあ、と小さくため息を吐いて、あんまり近づくことがない二号館へと足を踏み入れた。
僕の大学には全部で五号館までの校舎がある。その内この二号館は、授業を行える教室も一応あるものの、大体は先生達が個人で持っている部屋が占めている。なんていうの? 研究室? 教務室? わかんないけど、そんな感じ。
「えーと、土畑先生、土畑先生……あれ? 文学部じゃなかったか?」
扉横にある案内を見ても、目当ての先生の名前は無い。
僕が文学部で、取っている授業も現代文学概論だったからてっきり文学部の先生だと思っていたのだが、もしかしたら違ったのかもしれない。二号館にある教務室は文学部の先生用だ。他の学部の人だったなら、別の館に行かなければならない。
「まいったなあ、教務一覧ってどこで見られたっけ……一回教務課に行って聞いてみるか……?」
やることはいっぱいあるっていうのに、無駄足ばかりだな。
人が居ないのを良いことに今度は大きくため息を吐いて、入ったばかりの二号館を出ようとしたところ──
「ねぇ。土畑先生に何の用なわけ?」
険のある声がした。
思わず息を飲んで固まるも、その声は近くから聞こえたものじゃなかった。おそらく、二号館を出てすぐのところ。建物の角のあたりだろうか。
……タイムリーといえば、タイムリーだなあ……。
内容が全然違うものなら、声にびっくりはしても素通り出来ただろう。でも、どうやら話題は僕が探してる先生のことらしい。
会話の中で先生の居場所がわからないかな、と一瞬過りもしたが……それ以上に何か嫌な予感がした。
どうにも、空気がピリピリしている。声からして女子だし、言葉は冷たいし、これはもしかしたらもしかしなくても……いやいや、いくら女子が強いからって大学生になってまでそんなことするわけないよな。……ないと、思いたいんだが。
自然と、扉の影に隠れてしまう。
「……別に。用なんてない。私は帝と話したいだけ」
「はあ? なに、帝って……何で名前で呼んでるわけ? キモいんだけど!」
「何でも何もない。帝がそれで良いって言ったし……私も帝と対等だ。帝と話すことの、何がいけないんだ……!」
「良いわけないでしょッ!?」
え、なに、やばい。やっぱりマジなやつかもしれない。これっていじめ? 呼び出しキャットファイト?
いやでもちょっと待てよ? もしキャットファイトなら、内容がちょっと、いやかなり不味いのでは? だって最初に聞こえた内容が間違いでなければ、この渦中の人物は土畑先生のことでしょう? あの人の下の名前、帝っていうの?
静かにスマホを動かして、開きっぱなしにしていたポータルサイトから授業ページを読み込む。『現代文学概論:土畑帝』……うん、間違いじゃないらしい。
んんんんいやいや間違いだらけじゃない!? これって生徒と先生ができてるって話!?
「こんのっ……泥棒猫! 最低! あんたなんか弁護士に話して訴えて貰うんだから! 不倫学生だって、大学中に言いふらしてやるッ!!」
「私は帝と不倫なんかしていない! 落ち着くんだ、帝とはそんな関係じゃ……」
「帝帝って、人のパパのこと呼び捨てにしないでよッ!!」
────えええ!?!?
な、なに、えっ、どういうこと!? パパ!? これ何の話!?
いじめなら助けることも視野に入れていたしキャットファイトなら治まるのを待って去るつもりだったのに、なんかもうとんでもない話に発展している! 僕はこのまま聞いてていいのか!?
パシン! と乾いた音が響き、続いてパタパタと走り去る足音が続いた。僕がウダウダしている間にどうやら彼女達の話は終わったらしい。あまり良い終わり方ではなさそうだったが。
凄い現場に居合わせてしまった……。
いつの間にかばくばくと早鐘を打っていた胸を服の上から抑えると、静かに深く息を吸い込み、吐いた。呼吸も止めていたんだか浅かったんだか、とかく僕もかなり緊張していたらしい。
じんわりと、手に汗を握っている。張り付けられたかのように固まっていたけれど、危機は一応去った。正直、野次馬精神で彼女達の顔を見たかったのはある。しかしそんなことをして逆に認識されては居たたまれない。後ろ姿を見るのは諦めて、ここは完全に退散したと思えるぐらい待ってから動くのが賢明だろう。
「…………君。頼みがあるのだけれど、出てきてはくれないだろうか」
「……へ?」
しまった!
ハッとして口を抑える。咄嗟に出た音は戻らないとわかっていても、小声の範囲。気のせいで済む可能性は十分ある。
息を潜める。どうか聞こえていませんように──!
「ああ……すまない、驚かせてしまって。君の姿はこちらからよく見えてるんだよ。ほら、正面に車用のミラーがあるから。ちょうど写り込むんだ」
言われてゆっくり振り向けば、確かにミラーが設置してあるのが見えた。大学内とはいえ敷地が広いから、車が通ることもたまにあるのだ。
……最初から隠れる意味なかったってことか。
気まずさに下唇を噛んでから「……どうも」と当たり障り無い言葉を吐きながら外に出た。
案の定、扉の横の──存外近い場所にその子はいた。
「こんにちは。妙な現場を見られてしまったね」
「……まぁ……うん……」
困ったように言う割には落ち込んだ表情も無く、ピンと伸びた背筋には自信が滲み出ているようで。とても、後ろめたいことをしているとは感じさせない。
色素の薄いショートボブの髪が風でふわりと揺れる。女の子らしく可愛い顔をしているというのに、どこか中性的なようにも思う。喋り方が、変に固いからだろうか。
「居合わせただけの君には申し訳ないが、今聞いたことは黙ってて欲しいんだ。それが頼みたいこと」
「あー……それは、そうだよな……まぁ僕は土畑先生の関係者じゃないし……それは全然構わないけど……」
「本当かい? 助かるよ。私は間違ったことはしていないが、今のままでは帝に迷惑がかかってしまうからね。そういう負担は、かけたくないんだ」
「じゃあそれ止めればいいんじゃ……」
あっ、とまた口をつぐむ。余計な言葉を滑らせたのはこれで二回目だ。
女の子がぱちくりと目を瞬かせ、ふにゃりと緩ませる。とても穏やかな顔には少しばかりイタズラな様子を足されて、僕をからかっているんだろうかと目を逸らしたくなる。
「ありがとう。君は優しい人だな」
けれど、馬鹿にしてるんでも、からかっているんでも無いんだろう。
きっと彼女は、僕の言葉を純粋に善意として受け取って、それに喜びを返した。ただ真っ直ぐに、正直に思っていることを言っているだけなんだろう。
僕が歪んでいるから皮肉に聞こえるだけで。
「指摘はその通りだ。帝を土畑先生と呼んだ方が良いということだろう? うん、そうだ。その通り……だけれどね」
「…………」
「私は、帝とは唯一無二の関係なんだ。そこに親愛はあれど、恋慕はない。何故だかわかるかい?」
「え。……うーん、信頼があるから?」
「ふふ、良い答えかもしれない。そうだな、分かりやすくいうと……うん、君には言ってみようかな」
「ええ……」
「嫌がらないでよ。君は、同性の友達に、恋情を向けられる?」
「向けらんない。そういう人達を否定するつもりはないけど、僕は異性が好き」
「そうだろうそうだろう。私も、それに近い感じだ」
「……ん? え?」
思えば、プリントを取りに来ただけの行きずりの人間とこんなディープな話をしているのはかなり奇妙な状況だったのだが、この時の僕はかなり混乱していて気づいていなかった。そうでなくても最近は前世やら何やらで常識が麻痺していたのだ。普段だったら避けそうな厄介事を耳にしてしまっても仕方ないだろう。
そうでなくちゃ、この純粋にして妖艶な、汚してはいけない少年のようで包み込むような母性さえ出す儚くも綺麗な存在に、耳を傾けることはなかったのだ。
「私は女の子の生を受けた男子だ。帝は私の理解者。ただそれだけの話だよ」
……全然わからない問題を増やさないで欲しい。