098チアヌ・アチェベ『崩れゆく絆』
お久しぶりです。
新作の準備していました。
とはいうものの本当に長らく放っておきすぎたので、感覚が取り戻せずにやたらと長くなってしまいました。
説明台詞が長すぎるなというのが毎回悩むところですが、後書きで補足説明するスタイルもなんかしっくりとこないので、まあ長いなりにお付き合い頂ければと思います。
アフリカ文学というと最近は女性のチママンダ・ンゴズィ・アディーチェなんて人が人気あります。
黒人文学だからとか女性作家だからという括りで読むと作品の意図が伝わらないというようなことをインタビューで語っていましたが、それはそうとこの人も名前覚えにくいですね。
インパクトは凄いんですが。
暑い。暑いじゃないか……。
気がつけばいつの間にか春なんかいなくなっていて、夏の足音がズンドコ聞こえてくる。
空は腹が立つほど晴れていて、抜けるような青空がスイと広がる大快晴。
日の光を遮るものなんてない中で、わたしの家の近くのやたらと広い公園の屋根付きベンチで栞とデートをしている。
時々吹く風は涼しいし、日陰になっている所は、まあ比較的涼めるとは思うのだけれど、吹く風がいったん止んでしまうと、汗がぷつぷつと噴き上がってくる。
どこか遠くで子供がキャッキャと騒いでいる音が聞こえる以外は、時々吹く風の音ぐらいしか聞こえない。
栞とデートということはつまり、自然とこんなお外でも読書デートと相成る訳で、わたしとしては図書室でなければ、喫茶店かどっかの空調が効いた所でミルクとシロップたっぷり注いだ、甘くて冷たいこーしーなんか飲みながら、おしゃべりでもと思うのだけれど、栞はどこにいても平然と本ばかり読んでいる。
わたしはせめてもの反抗にと、太股の上に数学の教科書なんか広げて、授業で出たばかりの数式に戦いを挑んでいるのだけれど、数字は紙の上から浮かび上がって、目の前の何もない空間にふわりと浮かび上がっては空虚に消えていく。
そんな中でも栞はなんだか涼しげな顔をして本に視線を落としている。
そんな栞も流石に暑いらしくて、いや自覚しているのかどうかは分からないけれど、日の当たり方によっては額がキラキラと光っているので、わたし程ではないにしろ汗が薄らと浮かび上がっている。
ベンチの近くには、人工的に造成された小川が、申し訳程度の水量でとろとろと流れており、時折屈折した光がこちらに当たり、栞の眼鏡に反射してぴかぴかと光らせている。
風向きが変わって栞の方から風が吹いてくると、何となく薄らと甘いような爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。
そうすると、ただでさえ頭に入らない数式の意味が消え去ってゲシュタルト崩壊を起こしていく。
意識は完全に栞の汗の爽やかさの謎について持って行かれている。
「ぶへー」っ息を吐き出し、ついに暑さと退屈さに負けてベンチに仰け反る。
「あら? 勉強は終わりですか?」
「終わりも何も、暑くて勉強になりません。栞センセに教えて貰えればまた違うんだろうけれどなあーあーあー」
「もう、しょうがないですね。どこが分からないんですか?」
そういうと、栞がわたしの方に頭をもたげてくるのだけれど、汗の光る首筋から、その先の首元のブラウスの隙間から更に奥が覗けてきて、おっおっ絶景ですな! なんて思って首を伸ばしながら熱視線を浴びせていると、いつの間にか栞が分厚いレンズの奥底から、わたしの目にガッツリと視線を合わせてきて「えっち……」と呟く。
栞の眼鏡のレンズに映るわたしの顔は、イヤラシいおっさんのようでもあり、認めたくはないけれど、完全に女の子にネットリとした視線を絡めているセクハラ女としかいえない感じの地獄が顕現したかのような構図となっている。
「いやぁでへへ」
「でへへじゃありませんよ全く……」
胸元をグッと隠しながら体を離す。
はい。本日のボーナスタイム終了。
「いや、まぁね、はい。スイマセン……」
「もう……」
「所でこんなふぁっきん暑い所で、またこれ何を熱心に読んでいるんですか? またムツカシイご本なんですの?」
いつも通り、白くて細い指を下唇に当てて、視線を空中に投げると「うーん。ある意味難しいですね」と仰る。
「またまたー、ブンガク少女は違いますな」
なんてからかうと、ちょっとむくれて「そういうこと言う詩織さんはキライです!」なんていう。
「若干申し訳ない。で、何読んではりますの?」
「そうですね、暑い日に丁度いい感じの辺境文学という奴ですね」
「ヘンキョーブンガク? 何か珍しい国だか地域だかの本なの?」
栞は薄らと笑うと「まあ辺境文学というか、その他の地域の文学という括りになるんですけれど、アフリカ文学という奴ですね。辺境文学なんて言い方も。非西欧、アメリカ以外の地域の文学という程度の意味合いなんで、割と傲慢な響きはあるのですが、まあそんな感じです。因みに日本文学というのも川端康成がノーベル賞取ったときに、やっと日本の文学が世界に認められたなんて意味合いのことをいっているので、日本の文学もその他の地域みたいな扱いになるのかも知れないですね」
「でもアレでしょ? 紫式部とか世界初の小説家みたいな感じなんでしょ?」
「そうですね。確かに『源氏物語』は様々な国で読まれていますね。英語訳だとドナルド・キーン先生の翻訳なんかは確かに有名で海外ファンも結構いるようですけれど、海外で誰でも知っているというか、自分の国の言葉で読める作家というとやっぱり村上春樹とかそこら辺になっちゃうみたいですね」
「へーハルキ強いなあ……」
「まああんまりにも広く読まれているもんだから、純文学作品なんて括りじゃなくてベストセラー作家、大衆作家という扱いだからノーベル賞に届かないのではなんていう人もいるみたいですね。逆にスティーブン・キングみたいなバリバリのエンタメ・ベストセラー作家がノーベル賞のブックメーカー……まあ誰がとるかの賭けですね。これにあくまで予想屋からの話ですが名前が挙がったなんて、ちょっとした話題にもなっていたりしました」
「へーそんなもんなんだ」
「そんなもんです。ただ日本語を母語とする人が一億人以上いるから、何となく主流っぽい感じになっているだけで、世界的に見ると名前は知られていても簡単に読める作品って欧米以外だと意外と少ない見たいですね」
「へーそうなの? あ、話逸れた。アフリカ文学って何読んでるの? なんか暫く前に読んでた、えっとなんか酒飲みの話?」
「前に読んでいたのはエイモス・チュッツオーラの『やし酒飲み』ですね。今読んでいるのはアフリカ文学の父と呼ばれているチアヌ・アチェベの『崩れゆく絆』という作品です」
「あーアフリカなら暑い日にぴったりそう……」
「アフリカといっても南アフリカの先っぽは極地に近いので意外と冷えるそうですが、アチェベはナイジェリアのイボ族という人たちが暮らす、イボ・ランドと呼ばれる辺りの人ですね。まあここら辺なら暑いでしょう……多分」
多分と付ければ、何でもかんでも間違いは言っていない扱いになると聞いたことがあるけれど、まあ確かにアフリカのことなんかよく分からない。
「ナイジェリアは人口二億人とかいるので日本なんかよりよっぽど人口多いので、アフリカの巨人なんて言われていて近年では経済発展もめざましいようですね。アチェベはこのイボ族の人です」
「で、どんな話なのよ?」
「アチェベの両親は熱心なキリスト教徒で、アチェベ自身もキリスト教式の教育を受けて、イバダン大学という所で医学を学んだ後に文学部に入り直した、西欧式の知的エリートなんで、チュッツオーラみたいな泥臭さみたいな独特のノリはないのですが、イボ族に伝わる伝説なんかをふんだんに取り入れた作品を書いています」
「へー超エリートじゃん! 医者で作家とか手塚治虫みたい」
「そんな感じですね。この『崩れゆく絆』は十九世紀後半のイボ・ランドにキリスト教が広まり始めた頃の話です。丁度アチェベのご両親の頃の時代ですかね。主人公のオコンクォは勇敢でアフリカ的価値観の男らしさをもっており、だらしのない父親を反面教師に小さい頃から畑を耕し、戦争では勇敢に戦い、村でもガンガン名声を高めていくという、まあ男の中の男といった感じの人物なんですね。まあその価値観が最終的に悲劇的な結末に至る訳なんですが、順を追ってお話ししましょうか」
「おねげーします」
栞は、ぴかりとレンズを光らせると、眼鏡をくいっと持ち上げて姿勢を正す。
そうして背を伸ばすと、実際の身長よりかなり大きく見えるので不思議だなと何となく見とれてしまう。
「三部構成になっているのですが、全体の半分以上が第一章のオコンクォの生活にフォーカスがあたっています。ざっくりというとオコンクォの成り上がり物語です。アフリカの昔話や、イボ族の伝統生活が描かれていて、ここら辺が一番エスニックな感じが出ていますね。まあ百年以上前のアフリカという遠い国の話なんで、怒ると息子だろうが奥さんだろうが構わずぶん殴るという今の視点から見るとかなり炎上しそうな感じの人なんですが、それもこれも野心溢れ、男らしさを過剰に信奉するオコンクォの癖なんですね。彼らは精霊や祖先を敬い、信心深い人で、昔からの習わしで、神の啓示があれば、村同士の諍いで人質にとってきたものの実の息子かそれ以上に可愛がって育ててきた少年を自らの手で首をはねたり。双子が産まれたら、悪いことが起こるといって甕に入れて、不浄な死に方をした悪霊がわんさかいる呪いの森に捨ててきたりと中々血腥いです。ここら辺は実際の当時の話がふんだんに取り込まれてはいるものの、あくまで創作であるという話で、発表当時から、昔を知る人たちの間で色々と疑問が上がったらしいですが、地域によってもかなり儀式に差があったのでなんともいえない部分はあるようです」
「こわっ! 奥さんぶん殴るとかマジでありえないわぁー」
「一夫多妻制何で三人奥さんがいるんですが、三番目の奥さんは本当に殴られる描写が多くてちょっと引きましたね……。まあそんなこんなのオコンクォ成り上がり物語ですが、あるとき村の尊敬される老人の葬式の儀式で、持っていた銃が暴発して、十六歳の少年の胸に風穴開けちゃって、大地に不浄な血をもたらしたという罪で七年間村から家族全員が追放される事になります。ここまでが第一章です」
「本当に血塗れな話じゃないですか……」
「で、ここから話が加速するのですが、まあ物語理論でいう所の語りの速さというやつなんですがここまではよろしいか?」
「よろしくな……よろしい……」
「はい。結構。でですね、あるとき白い人が近くの村に現れます。オコンクォ達はそんなのアルビノか何かだろというのですが、イギリスから来た探検家だったんですね。で、この村の人たちは一方的にこの白い人を殺して、乗っていた鉄の馬……まあ自転車なんですがこれを木に吊して何事もなかったように過ごすんですが、そのあとまた白い人たちが来て、その現場を目にする訳ですよ。その時は白い人たちがすぐに帰って行ったので気にもしなかったのですが、あるとき村の市が立ったときに、市場を完全に塞がれてガンガン鉄砲で撃たれ報復にあうんですね。オコンクォ達がその話を聞いたときに、奴らは自分たちのご先祖と戦争したときも一度も勝てなかった取るに足らない連中だから、自分たちだったらすぐに報復しているし、そもそも囲まれて撃たれるなんて事にはなってなかったさと笑う訳です」
「いよいよ血の香りが濃くなってきたなあ……」
「で、オコンクォの流された、オコンクォの母方の親戚の村に白い人がやってくる訳です。まあ宣教師な訳なんですが、村の人々はキリストの教えを馬鹿な迷信だと切り捨てる訳ですね。で、何の影響もないだろうと言うことで教会を建てることも許可するのですが、そこは人が長くは生きていられない悪霊の住む呪いの森な訳ですよ。このとき既にキリスト教化された黒人通訳もいたのですが、平気で森に入っていって教会を建てるのですね。で、みんなすぐ死ぬだろうと思っていたのに全然その気配がない。そこで宣教師の話を聞いて理不尽なアフリカの掟に反感を持っていた人たちが段々教会に取り込まれていく訳ですが、こいつらは腰抜けで、一族から絶縁してしまえばいいだけの話となるのですが、オコンクォの息子も教会に入ってしまい、オコンクォ大激怒。で、あんな女みたいな奴は元からいらなかったと切り捨てる訳です。ここら辺までが第二章ですかね」
「あー、崩れていく絆ってそこら辺が原因みたいな?」
栞はにやりと笑い「詩織さん。なかなか鋭いです」とお褒めくださったのでぐにゃりと体をくねらせて「えへへ。そう?」なんてデレたりしたけれど、栞はあっさり無視して次の話に移る。
「第三章はオコンクォの追放が終わって村に戻る話です。この頃には奴隷階級というか、カースト制度でいう所の不可触民の様な人たちが、我先にとキリスト教会に流れて、もめ事が起こったりするのですが、宣教師はかなり寛大な方で、地元の信仰も尊重しつつ、地元の長老達の元に行って、彼らと宗教的な対話に勤めたりするのですが、体を壊して帰国してしまいます。その次に来たのが、高圧的なタイプの宣教師だったので、まあ反感を買いまくるわけです。この頃にはかなりキリスト教が広がり、イギリスの移民政策や植民地政策が広がって、地方長官がいたり、地元の黒人達を西欧式の教育を施すために学校に送ってやったり、色々な品物を交易して村々に富をもたらすのですが、色々あって新しい神父は怒りを買い、前の奴は我々と考え方は違うもののいい奴だった、だけどお前は許さないといって教会をボコボコに壊されてしまいます。まあ人的被害はなかったのですが、地方長官が激怒して、オコンクォら村野代表達を、話し合いしましょうといって召喚するのですが、これが罠で、ふん縛られてトイレもない牢屋に放り込まれて食事も与えず、賠償金を払うまでそこにとどめ置くのですね。ここでキリスト教化された黒人の小役人が、白人様に逆らうからそうなるといってまあ侮辱したり棒で殴ったりするわけです。そしてついに根を上げて解放された後、オコンクォ達は戦争するかしないかの会議をする訳ですけれど、好戦的なオコンクォを押しとどめようとする流れが出来て、一人でも報復すると息巻く訳ですが、そこに黒人の小役人がやってきて煽りまくります。オコンクォはついに我慢の限界を迎えて、小役人のリーダーの首をコロリと鉈で落としてしまい、これを知った長官が討伐隊を向けるのですが……といった感じで話は悲劇的な結末に向かっていきます」
「えーどうなるの?」
「そこはちゃんと読んでくださーい! ああ、つい長くなっちゃったので喉が渇いちゃいました」
そういってニッコリ笑うと鞄から水筒を取り出してごくごくと水分補給する。
その喉の動きに何となく見とれていると、お上品な栞っぽくない勢いで、ぷはーっといって息を吐き出す。
何となく甘くいい香りがする。
「あ、これですか? ピーチティーです。あんまりフレーバーティーの類いは飲まないんですけれど、たまにはと思って……詩織さんも飲みます?」
そういって、水筒をこちらに向けるので、ありがたく頂くことにする。
なにしろここは暑い。
「いえーい間接キスゲット」
とかいったら栞が一瞬凄い複雑そうな顔をしたような気がするけれど、無視してごくごくといただく。
「ぷへぁー……そういや、凄い難しい話っていってたけれど、なんかしゅーきょー的な込み入った話みたいなのが出てくるの?」
「ん、ああ、その話忘れていましたね。オコンクォって名前聞いても分かると思うのですが、日本人にはちょっとなじみのなさ過ぎる名前ばっかりで、とにかく名前が頭に入ってこないんです。人物一覧みたいなのがないとこの人って、友達だっけ? 長老だっけ? そもそも誰? みたいな迷宮に落ちます。これは読んだ人がみんな思っているあるあるらしいですが、まあ確かにってなりますね……光文社古典新訳シリーズだとどの本にも人物一覧の書かれた栞が挟まっているんですが、何度も見返しましたよ……まあ、この本以前にもアフリカでは著名な作家は結構いたみたいなんですが、この作品がアフリカ文学の始まりみたいな扱いされているんですね。その話はまた長くなりそうなんですが、それまでの西洋人から見た暗黒大陸である所のアフリカと未開の野蛮な人物達という風潮を批判して作られた作品なんですね。あくまで植民地政策がもたらしたたわみではなくてキリスト教がもたらした亀裂。そしてそもそも伝統文化自体が限界を迎えつつあったみたいな所がミソの作品ですね。邦訳は出ていないみたいですがこのあとオコンクォの出て行った息子の子供の話や、その後の時代の話も合って、三部作みたいな形式になっているのですが、こちらの方が文学的には面白いといわれているそうですね。五十カ国以上に翻訳されているので、辺境文学なんていっても村上春樹並みの人気作品なのは間違いないです」
そういうと、栞はこちらに手を差し出すので、なんだと思って握り返す。
汗でしっとりとした栞の掌はあくまでひんやりとしていて、細い指が工芸品か何かのようで握っていて心地よい。
「あ、あの。そうじゃなくて水筒を……」
「あっ、ごめんごめん!」
水筒を返すとまたニッコリ笑って「今日は喉渇いちゃいますね」といってごくごくと残りのピーチティーを飲み干そうとしているので、小声で「いえーい間接キス返し」と呟いたら、栞はブホッと音を立てて咽せた。
そんな姿を見て、あはははと笑っていたら栞が何やら抗議の声を上げたけれど、聞こえないふりをして空を見上げた。
夏が来るなあと伸びをすると、背中についーっと汗が一滴線を引いた。
と、いうわけでお久しぶりでございます。
なんだか長ーくなってしまいましたが、お楽しみ頂けたのでしたら幸いです。
アフリカ文学というのも、ナディン・ゴーディマーや7Zf[lナイジェリアのウォーレ・ショインカ、南アフリカの、この人は白人ですがクッツェー、アフリカに含めるかどうかはちょっと難しいところですが、エジプトのナギーブ・マフフーズとノーベル賞作家は結構います。
特にクッツェーは邦訳も多いのでそのうちネタにしたいと思っていますがいつになるやら……。
さて、大分長いこと放置しておりましたが、ご感想や突っ込み、こんな本出せというようなご要望なんか有りましたらお気軽にご感想頂けると励みになります。
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一応年初に立てた週に一本以上ペース(年間52話以上)は今でもクリアしたいと思っているので、人ごとのようにいいますが後半の追い上げに期待したいところです。
ではまた次のお話で。




