009太宰治『駆け込み訴え』
9話目です。
「なんと今年は太宰治生誕百十周年だそうです」
私がそう言うと栞が驚天動地の神武以来の驚愕という文字を張り付けたような顔をして、手元の本に落としていた視線をこちらに向けるてくる。
「へへ、驚いたみたいね。知ってた?」
「知ってました」
特に何の感慨もなく言われた。
知ってたんかい。
「知ってた割にエラい驚きようね」
「いえ、詩織さんが正直そんなニュース知っているとは思ってもいなかったので……なんかすいません」
なんだかよく分からないが謝られてしまった。
「まあ私もネットニュースで知っただけなんだけれども、この際だから太宰治読んでみたいなと思って、昔絵本で『走れメロス』は読んだからそれ以外で何か短くてお勧めの本はないかな?」
「そうですね、詩織さんにお勧めしたいのを一本あげるなら『トカトントン』でしょうか?」 そういって、そっぽを向いてクスクス笑い出す。
「何、何。そんなに笑い堪えてなんかあるの?」
「いえいえ、まあ『トカトントン』は詩織さんにぴったりかなと思ったのですが、まあそれは置いておくとして」
「え、気になる。どんな話なの?」
「短いので読んで下さい。青空文庫でも読めますがやっぱり紙の本で読んでこそだと思うんですよね。図書室にあるのだと新潮文庫の『ヴィヨンの妻』に収録されていますね。何十頁もある作品でもないので興味あったら読んでみて下さい」
「なんか隠し事してない?」
「いえ、全然、ふふふっ」
口元を隠して平安貴族か何かのように上品に笑う。平安貴族を見たことはなかったが恐らくこんな笑い方をしていたのだろうと思う。
「なんか釈然としないなあ……」
「そうですね、他にお勧めというと『女生徒』もいいかもしれませんね。これは太宰の熱心なファンだった女子学生が『これを題材に小説を書いて下さい』といって送った日記を元に律儀にある女生徒の一日を描いた作品です。昔の同じ年頃の女の子の事がよく分かっていいかもしれないですね」
「へー、面白い逸話があるのね。なんか何度も自殺に失敗したおじさんってイメージしかなかったけれど、色々な小話があるのね」
「そうですね。作品とエピソードが面白いというと、前に読んだという『走れメロス』の人質事件以外だと、今一番お勧めなのは『駆け込み訴え』かも知れないですね」
「人質事件……気になるんだけれど」
「かなり有名なエピソードなので、ネットででも調べていただくとして、今回は『駆け込み訴え』のお話でもしましょうか」
「まあ栞がそう言うなら、そうしましょうか」
栞が読んでいた本を閉じて、こちらに向き直る。
「太宰治は何本かキリスト教に関するお話を残しています。その中で一番有名なのがこの『駆け込み訴え』です」
「なんかお代官様にでも傘連判突き出す農民みたいなイメージしか浮かばないなあ」
栞がまたふふ、と笑う。
「今日の詩織さんは冴えていますよ。お代官様に訴えるというのは、まあ大まかにいうとあっています。それに本来の日本語で言うと駆込訴というのは直訴のことですし素晴らしい冴えです」
「えへへ、なんか照れるなあ。でもキリスト教の話なんでしょ?」
「そうなんです。この話の語り部はイエス・キリストの十二番目の使徒である、イスカリオテのユダです」
「あの銀貨三十枚でキリストを売った人?」
「そうですそうです。まさにその銀貨三十枚を受け取るところのお話です」
「なるほど。お代官様だかお役人様だかにキリストを売り渡すために駆け込んで訴えた話なのね」
「そうですそうです。ユダがキリストを苦々しく思っていた役人のところに駆け込んで『あの人は酷い。酷い』と訴えるのです。最初は金のためではない、あの男はこんなに厭で、悪人だとあげつらっていくのです。自己正当化をどんどんしていくのですね。その内自分でも訳が分からなくなってきたのか、最期には『私は商人だったのだ』と思って、銀貨三十枚を世の中は金だといって喜んで受け取り、自分がイスカリオテのユダであることを告白します」
「へーなんかややこしいお話だね」
「話自体はシンプルですし、比較的短いんです。でもこの創作秘話が凄いんです」
「創作秘話?」
「はい。これも『走れメロス』の創作秘話と同じぐらい有名なのですが、口述筆記によって創作された作品なんです」
「こうじゅつひっき?」
「ようは読み上げられた内容を誰かが書き取って文章にするという方法で、目の不自由な人や、病気でペンも握れないような人がよく取っていた方法です。文学以外の人だとレオンハルト・オイラーなんかが有名ですね」
「オイラーってなんだっけ?」
「まあその話は置いておくとしまして、この『駆け込み訴え』は口述筆記によって太宰の奥さんが原稿に書き起こしました。短いとはいえそれなりの長さの文章です。それを一切の言い淀みも言い直しもなく、まるで蚕が糸を吐くかのように言い切ったといいます」
「太宰天才じゃん!」
「そうです。そのエピソードも凄いですが、お話も凄くて、最初から最後までユダが滔滔と語っているのですが、キリストに対する歪んだ愛情と憎しみがない交ぜになっていて自暴自棄になっています。お役人に訴えているといいましたが、最初から最後までユダの台詞以外には何も語られていないので実際の所誰に、何時、何処に駆け込んで訴えたのかは分からないんですが、当時ユダヤの律法学者などのファリサイ派やローマ帝國からも睨まれていたのでお役人あたりと解釈していいでしょうね」
「なんか難しい」
「ここら辺はユダヤ総督で、キリストを処断したポンテオ・ピラトが聖人とされている宗派もあるので複雑なんですが、私も詳しくないので今度一緒に聖書を読んでみませんか?」
「聖書って薄いの?」
「旧約、新約、外典など併せても広辞苑よりは薄いです」
「パス」
栞はなんだかつまらなそうに「そうですか」といって黙ってしまった。とりあえず気を取り直そう。
「で、その『駆け込み訴え』は面白いんだ?」
「太宰治は私もあまり詳しくないんですが、これは白眉だと思います」
「うーん、そんなに推されたら読んでみるしかないかなあ」
「好きで好きで堪らない人を、好きすぎて憎しんでしまうというのはどういう気持ちなんでしょうね」
「うーん難しいことをいうね。まあ私も栞のこと好きだけどさ、お金で売ったりはしないと思うよ」
「え、あの好きってそのあの……」
栞がしどろもどろになる。
そんなに重い意味で言ったつもりはなかったのでその反応にこっちも慌ててしまう。
「でもまあ一億とか積まれたら裏切っちゃうかもなあーなんて」
「そういうこという詩織さんは嫌いです。私はお金をいくら積まれても好きな人を売ったりなんてしないですよ!」
女の子同士で好きだの嫌いだの言い合っているのもなんだかヘンテコな風景で、なにかそれにつられてヘンテコな気分になってきたが、ユダもこんな感じでヒートアップしてしまったのだろうか?
女も三人集まれば姦しいというらしいが、二人だけのこの図書室でわいわいやっているのはなんとはなしに落ち着くものであった。
「まあこういう関係性はお金じゃ買えないよね」
「そうです。お金じゃ買えないんです。でも本はお金を出せば買えますし、ここに来ればタダで読むことも出来ます。本を読みたくなったらいつでも来て下さい。私は必ずいつでもここで待っていますから」
秋の夕暮れは早い。
窓の外は夕日でガランスに染まっていた。
二人の影が図書室の端まで延びて、顔と顔の影がぴったりと重なり合っている。
イラスト提供:
赤井きつね/QZO。様
https://twitter.com/QZO_
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カフカ
『変身』