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087伊藤左千夫『野菊の墓』

読んだことある人もない人も知っていそうな「民さんは野菊のような人だ」で有名な『野菊の墓』です。

文中でも触れていますが、青空文庫で1時間程度で読めるので、ご興味でましたら是非読んでみてください。

「どうやら栞さんは野菊のような人だ」


「詩織さん……私が野菊のようだってどういうことですか?」


「さあどうしてということはないけれど、栞さんは野菊みたいな風だからって」


「それで詩織さんは野菊が好きだって……」


「わたし野菊が大好きなんだ」


 そういって一掴み手折った野菊を栞に渡す。

 春の日差しの中、手折ったばかりの野菊の露が鮮烈な香りを振りまいている。


「まぁ……詩織さん……これ、昨晩鍋に入っていた春菊です」


 夢。

 夢を見ていた。

 そんな夢を。


「……ってね!」


「んま!」


 実際の所、温かい小春日和の日差しを受けてベッドの中で揉みくちゃになりながら、涎をベトベトに垂らしていたという風体だったのだけれどそれは黙って、ブンガク的なゲンソウ体験を演出してみたのだった。


「それにしても野菊と春菊じゃ大分違う物のように思えますが……」


「いやぁー夜ね、晩ご飯がお鍋でさぁー、春菊が入っていたんだよね。昔は臭くて駄目だったんだけれど、最近割と食べられるようになってきて、これが成長かなって……で、夢の中にも出てきてさ。野菊と言われてもピンとこないから、春菊が登場したってわけさ」


「わけさって、野菊の様な人と春菊のような人じゃまあ、受ける印象が大分違いますが、詩織さんらしいと言えば詩織さんらしいですね」


 などといって、お腹と顎に手を当ててくつくつと笑っている。

 小っ恥ずかしくなってわたしも、えへへーなどといって後ろ頭を掻きつつ、少し長くなりすぎた髪をモサモサと掻き上げる。


「そうですねぇ、春菊と野菊の差はあれど夢に出るほどに読んでいただけたのならお勧めした甲斐があるもんだなと思いますよ」


「うん。面白かった」


 カーディガンのポケットから岩波文庫の緑のヤツを取り出して栞に渡す。


「いやあ、字が小さくて読みづらかったけど、割とサクサク読めてよかったです。はい」


「そうですねー、最初に青空文庫でも読めますよーとは言いましたけれど、紙の本の方が私は好きですね。場所を取るという難点はありますが」


「そうそう。一応タブレットで青空文庫見てみたけれど、アプリの機能で目安が一時間で読み終わるって書いてあったから、紙の本で読んでもいいかなって思って、岩波文庫をヤッつけてやりましたよ!」


「そうですねぇ。実際の所「民さんは野菊のような人だ」という台詞は知っていても実際読んだことある人は意外と少ないかも知れないですね。こんな超有名乍に向かっていうことでもないかも知れないですが」


「その台詞すら知らなかったわたしの立場は……」


 栞がスイと視線を逸らす。


「あの……」


「世の中どんなことでも知らないことの方が多いんですから、それでいいんですよ。でも夢に出るほどの印象を受けたのならそれは充実した読書体験だったと言うことなので大成功なんです。感受性の高い証拠ですよ!」


「え、ホントに? えへへー感受性高いかぁーでへへへ」


「実際の所発表以来ずっと売れ続けているんですよ。発表直後に夏目漱石が激賞していて、こんな小説なら百編読んでもいい! なんていってますね。それいらい何度も舞台になったり映画になったりドラマになったりと、息の長い作品です」


「へー夏目漱石がねぇ。昔お札の顔だった人でしょ? そんな人に認められているとはグレートな人ですな」


「グレートな人ですよ。伊藤左千夫は詩作や俳句や和歌を発表していた人ではありますが、それだけで食べていける訳もなく。本業の牛飼いも日露戦争の後の好景気の後に来た大不況の煽りを受けて、牛乳が売れなくなっちゃって生活的には一番底にあった時に、この『野菊の墓』で一躍文名を馳せた訳ですね。一発大逆転の快作だったわけです」


「夢があるなあー」


「それも小説作品としては処女作だったんですね。しかも発表当時なんと四十一歳! 明治期の文豪が二十代ぐらいの学生の頃から名を馳せていた人が多かった所から考えても、現代の作家さん達のデビュー年齢から考えてもかなりの遅咲きですね。それから調子に乗ってどんどん作品を発表して、今まで同人誌でしか発表出来なかったのが中央公論や新聞連載もぎ取って一流の作家になったのですから、本人の努力考慮しても夢のある話ですよね」


「夢があるなぁ!」


 さっきより一段と声を大きくしていってしまう。

 貧乏畜産家が一流の小説家になったんだからそら夢のある話である。

 規模は違えど『ハリー・ポッター』の人ぐらい夢がある。


「文章自体は以前読んだ国木田独歩なんかと同じ自然派に属するのですが、正直な所写実描写なんかはそんなに技巧に富んでいるという訳でもなくて、ただひたすらに素朴といった感じなのですが、それが一種の純粋さに繋がっていて『野菊の墓』のような単調ではあるけれどひたすら真っ直ぐな作品に繋がったと思うんですよね。単調というのはシンプルと言い換えれば美徳ですから、そういう作品がウケるのも当然と言えば当然なんでしょうね」


「あー確かにストーリー自体は一本道な感じしたかな」


「段々と作を重ねていくにしたがって複線的なストーリーも書いていくようになるのですが、惜しむらくは六〇で亡くなっているので、文壇で光を浴びたのは二〇年もないのですよね。ただ千葉の田舎の出身で自ら田舎者という自覚があったのか、温和で人に好かれる質だったようですね。作品の中で下総の人は温良だと評していますが、実際伊藤左千夫もそんな良き田舎の人だったそうで、没後も門弟から慕われて忌日には皆で墓参りをしたり、追悼歌会なんかが催されて盛り上がっていそうですね」


「へー気のいいおじさんだったのかな」


「まあ明治当時の人なので、日露戦争なんかは徹底的にやっつけろみたいな戦意高揚を促していたりとはあるようですが、自分の所に転がり込んできた若者達と活発に文学の話なんかをして慕われたそうですよ。特に盛り上がったのは恋の話だそうで、生きる目的は恋することだというような風でもあったようです。実際この岩波文庫に所蔵されている話は熱烈な恋の話がメインでしたよね」


「あ、いわれてみると。そうかぁー恋バナかぁーいいねぇー青春だねぇー」


「この恋の話は近しい人を交えてしばしば深夜に及ぶ事があったようで、確かに作品にも拗れた関係だけれどイノセンスかつプラトニックな愛情が通じてありますよね」


「なんか難しい話は分からないけれど、確かに今でいう恋バナが主題のお話だね。それも基本的に悲恋っていうの? なんかおつらぁい感じの話が多い」


 栞は本をぱたぱたと振って「そうですねー」といったが春の近くなった陽光が窓から漏れ出て逆光で表情はよく窺えなくなった。


「なんにせよ、伊藤左千夫という人の人柄が滲み出ている作品の最初の一滴が『野菊の墓』なんですね。安っぽい言い方をするとお涙頂戴な話やその類型が多いのですが、とても前向きな意味で田舎の文士という人柄から織り出されている話なんです。織り出すというと詩作に励んだところが出発点なので、そのまんま詩織さんの名前に造りが似ていますねー」


 突然予想もしていなかった所からズバッと名前のことを言われたので何となく恥ずかしくなる。


「つまりわたしは野菊のような人……ってことかな?」


「そうですねぇ、まあ詩織さんは春菊のような人かも知れないですね」


「ちょっと栞!」


 あまりにもあんまりだったので手をあげてポカポカ背中を叩くと、珍しくきゃぴきゃぴとした軽い感じで「やめてくださいやめてください、きゃはは」などといって笑い出す。

 それにつられてわたしも笑ってしまったのでこれはもうわたしの負けである。


「そっかあ、わたしは春菊のような人かあ……」


「私も好きですよ春菊」


「えっ!?」


「あの独特な匂いも含めてですよ!」


 こらっといって再び手をあげると「図書室で騒ぐのは禁止ですよ!」といって背中を向けて、手で防御しながら、あははと笑っている。

 温かくなってきたこの頃の温和な空気が心地よくて、朝変な所で目覚めてしまったので、また眠気が襲ってくる。

 そのときかいだことのない野菊の香りがした気がしたけれど、やっぱりそれは春菊の香りかも知れず。わたしは栞から好かれているのであれば春菊のような人も悪くないと思い始めていた。

感想等有れば励みになりますが、そこまでするのは面倒くさいという方は、最近ついた機能らしい「いいね」でもぽいっと投げていただければと思います。

一応今年建てた毎週一回以上更新するは守れそうです。

多分明日も更新できると思いますのでよかったら遊びに来て下さい。

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