082ヘルマン・ヘッセ『車輪の下』
みんな大好きヘルマン・ヘッセですが、教科書に掲載されている『少年の日の想い出』ぐらいしか読んだことない人も多いと思い取り上げてみました。
初めて国語の教科書に載ったのは70年ほど前だそうです。
名作は読み継がれる物だと文学の力を思い知らされます。
「詩人になりたい、さもなくば死人になりたい……」
ほんのり温かい日差しの遙か彼方に目をやりながら、ふと息を漏らすように呟いた。
それはもうアンニュイに呟いた。
「詩織さん……突然なにを言い出してるんですか?」
信じられないものを見かけたときの一種の恐れおののきを瞳の奥に宿して、本から目を上げた栞がいう。
「いやぁあれ読んだんですよアレ、クジャクヤママユが出てくるアレ。そうかそうかつまり君はそういうヤツだったんだなってメッチヤ抉ってくるヤツが出てくるあれ」
あー……となんだか気の抜けたような表情をして「変な薬にでも手を出したのかと……」と呆れたようにこちらをじっと見つめてくる。
「中学校の時にやった『少年の日の思い出』ですね、確かにインパクトのある話ですよね」
「そうそう! なんか短い話なのに教科書にのってる所も抜粋だって聞いて探してみたらあったんですよ図書室に!」
栞はなんだか非常に感銘を受けたという表情で「やっと詩織さんが図書室が何のためにあるのか理解してくれた……」と目頭を熱くしながら眼鏡を持ち上げて感極まったような上ずった声で嬉しそうにいっていた。
あれ? もしかしてわたしって図書室って言葉の意味を今まで理解していなかったと思われていたの?
という強烈な何かが胸を通り過ぎたけれど、右から左へと受け流した。
「『少年の日の思い出』は日本でだけ有名で本国のドイツやスイスなんかでは割とマニアックな作品の一つになっているんですよね、名作なのに」
「そうなん?」
「ええ、ヘッセを最初期に日本に紹介した高橋健二先生という方がいらして、ヘッセに会ったときに、列車の中ででも読んでといわれて『少年の日の思い出』の新聞掲載文の切り抜きを貰ったそうなんですが、ヘッセの死後ヘッセ所蔵の文書纏めたときに、その話だけヘッセの手元になかったので、なんか変な話ですがそこだけ抜けちゃってて、日本では有名になったのにドイツでは知る人ぞ知る見たいな扱いになっちゃったんですよね」
「へー面白、ノーベル賞取った人の作品でもそんなことあるんだ」
「あと、蛾の標本ですけれど、あれがなんていう蛾なのか分からなくてずっと調べてた人が結構いたようで、岡田朝雄先生という方が執念で突き止めたりとアツい話があるようですね」
「細かいこと気にする人はどこにでもいるんだなあ」
「昆虫好きな人は割と本格的に研究している人も多いですからね」
「なるほど。まあそれはそれとしてヘッセ・ブーム来てますよわたしのなかには」
「いいことだと思います!」
「なんていうかナイーブな青春って感じで、危ういバランスの上に立ってるーって感じでなんかこうぐわーっとね、ぐわーっと……」
「ぐわーっとですか……あ、さっき外見ながら「詩人になりたい」っていってたのあれヘッセの言葉ですか」
「そうそう。詩人になりたい、さもなくば死人になりたいとかなんとか」
「詩人になりたい、さもなくば死にたいですね……まあ翻訳の揺れはありますけれど」
「え、そうだっけ? なんかそういう駄洒落なのかと……」
栞は哀しそうに首を振った。
「それ駄洒落だとして、日本語でしか通じません……」
確かに。
「ま、まあいいんですよ。なんかヘッセ大先生の本読んでたらなんかこう、青春したいなーって気分が盛り上がってきましてね! うちらも花の女子高生じゃないですか。恋愛の一つや二つしてもいいんじゃないかなーって……」
「断固阻止する」
「え、なんて?」
「何でもないです。ヘルマン・ヘッセが気に入ったのならオススメ作品は一杯ありますよ、特に私たちと同世代の人が主人公のが」
指をパチンと鳴らして「それよそれ、それいただこうかしら?」等と気取ってみる。たまには読書に前向きな姿勢見せておかないと栞が哀しそうな目をするので必要なコストなのだ。
「『車輪の下』ですかね。個人的には『ペーター・カーメンツィント』とかも第一作目ということもあってオススメなんですが、とりあえず同世代の主人公ということで『車輪の下』推します!」
「あーなんかタイトルだけは知ってるかも」
「ドイツの片田舎に住むハンスという少年は所謂神童で、更には勉強にも熱心な努力の出来るタイプの天才だったんですね。この頃ドイツの州では各地の成績優秀者を集めて、州試験を行い神学校に子供達を集めて英才教育を施し、牧師や教師を育成していたんです」
「大学受験みたいなもん?」
「ええ、それも生活費なんかは全部向こう持ちという中々の条件です」
「ふーん、大盤振る舞いだね」
「その分課せられる義務も酷く重いものなんですが、まあそれはそれ。ハンスは遊ぶことや自由時間を全部封じて勉強に身を捧げ、なんと二番の成績で試験に合格するのです。父親しかおらず強権的に育てられたハンスは、父親を始め、校長や牧師なんかの勉強を教えてくれた人たちや村のお偉いさんに盛大に祝われるんですね。同世代の子供達は学校を卒業したら……あるいは中退しては機械工の見習いになったり、その他職人になって泥だらけで働くのですが、自分は彼らとは違う、エリートなのだとはっきりと自覚するのです」
「まあそれだけ勉強が出来たなら分からなくもないけれど、なんか嫌なヤツだなあ……」
「で、短い休みが明けて九月になったとき、人里離れた森の奥の修道院で試験に受かったエリート達が集まって寮生活を送るのです。ここら辺はヘルマン・ヘッセの実体験がかなり含まれているそうで、寮の部屋の住民は実際にヘッセと同期の人物の名前をもじっているそうなんですが、勉強以外に興味がないハンスは友達づきあいが出来ずにいるんですが、まあエリートが集められた割には殴り合いの喧嘩や、たちの悪い悪戯や、なんだか非常に現金な取引のし合いなんかがあって、美しい修道院には似合わない生活を送ります」
「えー寮生活ってちょっと嫌だなあ……殴り合いとか結構野蛮な連中なんだね」
「ええ、そんな中一人優雅な佇まいで、勉強は中の中ぐらいなのに皆から一目置かれているハイルナーという少年とちよっとした切っ掛けで仲良くなります。詩才に溢れている少年でしたが問題行動も多くて扱いづらい人物だったようですね。そして主人公のハンスとハイルナーの二人がヘルマン・ヘッセ自身の投影だったようです」
「なるほど、詩人になりたいってそういうことか」
栞は嬉しそうに「ですです」という。
「あるときハイルナーが殴り合いの喧嘩をして部屋から出て行った所を追いかけていくのですが、このとき追いかけてきて唯一の友人だと思っていたハンスにハイルナーはキスをするんですよね」
「んま!」
「いえ、あちらの国では挨拶みたいなものらしいですし、そのあとハイルナーは地元で女の子とキスをした話なんかもしたりするので、そういう関係ではなかったらしいのですけれども、段々ハイルナーは友情を求めてハンスにかまいだすようになるのですね。ガリ勉とあだ名されていて、全ての授業でトップを狙っていたハンスは友情と勉強のどちらに時間を注ぐべきか悩むのです。次第に成績は下がり少ない時間に勉強をし続けても段々追いついていくのがやっとから遅れだしてしまうのです。で、まあ色々あってハイルナーは大問題を起こして放校処分にあい、成績優秀者としてハンスに多大な期待を寄せていた校長も落ちこぼれていくハンスを持て余し始めます。そんな折りに大事件が重なってすっかり精神を病んでしまい、長期の休息が必要ということで父親が迎えに来て故郷に帰るのです。事実上の放校ですね」
「とんだ糞鬱展開だわ」
「まあ自殺を実行する直前までいくのですが、段々と生気を取り戻し、ようやく何かをすることが出来るようになってくるのです。この作品の上手い所は上手くいく、駄目になる、上手くいく、駄目になると話が交互に展開される所で、ああこれで報われたなと思ったらすぐに問題が起きて……となるんです」
「波乱の展開」
「物語自体は静かなんですが、確かに波乱の展開なんですよね。先に放校処分を受けたハイルナーは色々とやらかしつつも一角の人物になって成功したとアナウンスが入るのですが、ハンスの父親は元気を取り戻しつつあった彼を機械工の見習いか市役所の書記に据えようとするわけです。結局唯一仲のよい友人がいたという理由で機械工の見習いに落ち着いて、知的生産よりも体を動かして汗を掻くことが素晴らしいという感覚に目覚めていくのですね。ハンスを見かけた学校の同期は学者先生様になるはずなのに俺たちより遅れて職人になっていると小馬鹿にするのですが、あまり気にもならないのですね。ほら、話が好転してきた」
額に人差し指を当てて、ぬぅーむと唸ると「ということはこの後また谷が来ると?」というと栞はニヤッとわらって「正解です」と眼鏡を輝かせながらいった。
「よその土地から仕事の手伝いに短期間だけ来た女の子にいいように弄ばれて、気がついたときにはすでに何も言わずに汽車に乗って遠くへ帰ってしまっていたと谷間に陥る訳です」
「なんかシーソーみたいね」
「そして最終章で、ハンスの友人が初めて貰った給金で皆にご馳走するぜ! と、いって機械工見習いに先輩まで連れ出してビールはがぶ飲みするし、葉巻はぷかぷかさせるしとどんちゃん騒ぎをして、あー楽しくなってきましたとなる訳ですね」
「楽しくなってきたということは、次は……」
「もう殆ど粗筋喋ってしまった感じはしますが、彼が最後どうなるのか、そして何が悪かったのか……というお話になる訳です」
「なんか悪い予感しかない……」
「車輪というのは、自分を押しつぶすものであったり、落ちぶれるという意味合いがあるそうなんですが、タイトルも高橋健二訳では『車輪の下』であったり、その後出たものでは『車輪の下に』『車輪の下で』とニュアンスが翻訳者の考えによって少しずつ変わってくるようなんですね」
「うーん、それだけでなんか大きく変わるのかよく分からないけれど、そこまでプッシュされたら読みたくなってきた……」
栞がパチンと指をならそうとして、スカッと気の抜けた音を出すと「そうです、その意気込みで読みましょう!」とプッシュしてくる。
「あの、いま指パッチン失敗し……」
「面白いですよ! 是非に!」
「あ、ハイ……」
栞の解説によると、ヘルマン・ヘッセという人自身がどん底まで落ちぶれた落第生で、一作目の本が売れなかったらどうなってたか知れないという非常に綱渡りな人生だったという。それが成功してからも浮き沈みが激しくてノーベル賞をとるに至るまでは彼自身が車輪の下ですり潰されていたのだという。
「そんな訳で青春したいならこの一冊ですね!」
と、和やかに勧めてくる栞とわたしは、今気付いていないだけで車輪に巻き込まれようとしているのかどうか、人生なんてわからんもんだなと、変に達観したような不思議な気分になった。
自分でいってて何だけれど薄っぺらい感じは否めない。
とりあえず一冊本を読めばその分少しは賢くなったり何か影響を受けたりするのだろうかと思い栞を見た。
和やかに笑っている栞を見ていたら、まだ読んでもいないのにハイルナー少年とハンス少年のキスシーンを思い出して、なんか鼻血がぶほってでそうになった。
エロかわたしは……。
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ではでは。




