008夏目漱石『こゝろ』
国語の授業で丁度夏目漱石の『こころ』をやっていたので、珍しく全文が読みたくなり図書室に向かった。
とはいえ、図書室にはこのところ毎日通っているので『こころ』は何となくの口実にしか過ぎなかったかも知れない。
「『こころ』は前にもお話ししたとおり国語の教科書御三家ですね」
「なんか先生が若い頃に親友から抜け駆けして奥さんとっちゃって、自殺するお話とか救いようがないんだけれど、こんなに分厚い本だったの……」
「別に分厚くはありませんよ。普通の文庫本サイズなんですから。教科書のトリミングが凄かったってだけの話ですよ」
栞が若干不満そうな表情を浮かべる。
「もう大分前にお亡くなりになっていますが、開成高校の名物教師だった先生が、現代文の授業で中勘助の『銀の匙』だけを教科書代わりに一年間通して使ったという有名な話がありますが、この『こころ』を教科書代わりにずっと使い続けていた先生もいたと聞きます」
「へーそうなんだ。一年有れば自分でも読み切れるかな?」
「集中すれば半日もかからないで読めますよ」
栞が無邪気に笑みを浮かべながらいうが「無理無理、土日と祝日使わないと読めないよ」
「まあ確かに遺書にしては少々長すぎますよね」
「あれ教科書だと、そんなに長くないけれど、丸々一冊『遺書』なの?」
「いえ、海で先生を見かけて仲良くなっていくところから始まりですね。教科書に載っているのはその後暫く音沙汰無くなった後、遺書が届いて読むところからから始まりです。基本その後は語り手の『私』の私生活や、父の病状が悪化したりといった生活環境の変化と、第三部構成の第三章は丸々『先生』から届いた遺書を読んでいくだけですね」
「なんか暗いなぁ」
「まあ遺書ですから。でも遺書なんですけれども『魔法棒に打たれて石になってしまった』り、表現が一々漱石流のオーバーというか文学的というか、不思議な演出がされていて読んでいて飽きないんですよね」
「遺書なのにね」
「遺書だからかも知れませんね。夏目漱石という人は昔の千円札の肖像にもなっているので、いかにも高尚な文学作家みたいなイメージを持たれている方多いようですが、近代日本初のベストセラー大衆文芸作家なんですよね」
「その千円札昔見たことある。偽札かジョーク・グッズと思った」
「もちろん文学性の高さからもお札に選ばれたのは間違いないですが、ユーモアのセンスも抜群です。よくよく造語を作っていて『肩が凝る』という表現を産み出したり、酷いことを『非道』からもじって『非道い』なんていってたりもしますね。後は印税という制度を最初に日本で取り入れたのも漱石です」
「肩が凝るって明治に生まれた言葉だったの?」
「そうです。江戸時代の人たちは肩が凝ることをなんとも表現し得なかったそうですね。夏目漱石が最初に『肩が凝る』といってから、日本人は肩こりという概念を持ったそうです。実存は本質に先立つとか言い出すと闇の勢力に襲われるのでまあここでは黙っておきますが、江戸明治の人間は、この感覚は肩が凝るというのか!でヘウレーカ状態だったらしいですね」
「うわー凄い。一流コピーライターだね」
「そうですね。話は横に逸れましたが、そんな一流のユーモアを持った作家が到達した境地が『こころ』なんです。漱石の自費出版という形を取っていますが、岩波書店の出した最初の出版物なんですよ。今でも装丁の模様は変わっていなくて、秦の始皇帝が残した石鼓文があしらわれていて、独特の空気がありますね。日本で一番売れた本だったりもします」
「そんなに」
「それと面白い偶然なんですが、二十世紀最大の作家候補のカフカが『訴訟』という長編やいくつかの短編、そしてその絶筆になった『城』の中で『K』という人物を主人公にしていますが、先生が裏切った友人の名前も『K』ですね。これって意外なほど文学に登場している名前で梶井基次郎『Kの昇天』やカフカに影響を受けている村上春樹の作品や、ブッカー賞を二度受賞していてノーベル賞も取っているクッツェーの『マイケル・K』それから『存在の耐えられない軽さ』が有名なクンデラも『小説の精神』という本の中でカフカに触れて『K』という文学のアイコンについて語っていますね」
「栞も『先生』並に語るねぇ」
栞がポッと赤面し、顔をぷいと背ける。
「詩織さんは意地悪です。もう話しませんよ!」
「ごめんてば、でもっと『こころ』について話してよ。なんか読破した気になれるような小話をさ」
「興味がある本ならちゃんと読破して下さい。駄目ですよズルは!」
顔を背けたと思ったら今度は目の真ん中を真っ直ぐ射貫いてくる。
こういうギャップのある行動を取られると、慣れているといってもドキリとさせられる。
「分かりました、読みますよ。貸し出しして下さい」
「青空文庫でも読めるんですけれどね。私は紙の本の方が好きです。この岩波文庫の漱石全集が一番装丁も雰囲気があっていいですね」
栞が膝の上に置いておいた本を渡してくる。
「あれ、栞もたまたま『こころ』読んでいたの?」
ふふふと薄く笑って、そして何故か照れたように上目遣いにこちらの目を覗き込んでくる。だからその目を直視するのはやめて欲しい。いややめないで欲しい。いやどっちだろう?
「教科書でそろそろ『こころ』に入っているはずだから詩織さん絶対に読みたいって言い出す頃だと思っていたんですよ。授業で『こころ』やっている時に詩織さんのこと考えちゃってました」
さりげなく凄い告白をされたような気がするが、気付かないふりをして流しておくことにした。
「でも、なんでまたそんなピンポイントに私の考えが読まれたのだろう。エスパーか何か?」「詩織さんの考えることなんて手に取るように分かるんですよ。というのは半分嘘で……」
「半分は本当なんかいな」
「前にも言ったじゃないですか。国語の教科書御三家は全部私たち中高生の思春期に刺さる作品だって。ちょっとウェットで悲劇的で、それでいて自分と重ね合わせられるような作品ですからね。詩織さんでなくても興味湧いちゃう人が多いんですよ。だから私もこうして読み直していたんです」
「思春期に刺さるねぇーなんか私たちの青春が大人に手玉に取られている感じがしてなんとなくもやっとするけれど、まあ国語の授業で読んで本読みたくなったぐらいだから、その通りなのかもね。思春期かあ。花の女子高生としては恋したいお年頃ねー」
「恋したいって、誰か好きな人でも居るんですか?」
栞が何やら慌てたように聞いてくる。何やら必死である。
「いや、女の子なら燃えるような恋バナの一つや二つしたい年頃じゃないかなって。私はあいにくそんな浮いた話もないんだけれどさ」
栞がふーっと大げさに溜息をつく。
「よかった……」
「え、なんて?」
「ああねいや何でもないです。私も浮いた話はないっていうか、その、なんだか『先生』と『K』の話思い浮かべちゃうというか、男の人ってなんか怖くないですか?」
「うーん。私も付き合ったこととかないから分からないけれど、きっとお互いいい人見つかるよ。栞には本好きな『文学青年』とかさ!」
「そうですか……」
何となく栞がさっきより萎れてしまったように見えた。
「私には本を好きで居てくれる大切な人がもう居るんですけれどね」
「う、ん?」
校庭からは相も変わらずボールを蹴ったり、球を打ったりする音が聞こえてくる。そんなにボールが憎いのかとたまに思うけれど、彼らは彼らなりの青春の活動に火をくべているのだろう。
「まあ私も、図書室で過ごす青春もいいかなって思っているよ、いまでは」
栞がどこかあらぬ方向を向いて黙ってしまった。
図書室は春から初夏にかけて少し暑くなっていて、少し上気して汗ばんできた。
横顔しか覗えない栞の耳も真っ赤だった。
次回
太宰治
『駆け込み訴え』