066カズオ・イシグロ『日の名残り』
もっと凝った構造にすれば良かったと反省していますが、とりあえずオススメの一冊です。
「あれ読んだ? あのイギリスの日本の人の……」
「大分曖昧ですがいわんと欲することは分かりました」
「マジカ!」
「カズオ・イシグロの『クララとお日さま』ですよね?」
ぽんと膝を打ち、それそれという。
相変わらず理解が早くて助かる。
「もう読み終わったの?」
「いえ、一日で読んでしまおうと思ったのですが、昨日は眠くて途中で寝てしまいました……」
「春眠暁を覚えずってやつですか?」
そういうやつですといって栞がうなづく。
「新刊が出る前に、過去作も読み直しておこうと思って、たまたま手元にあった『日の名残り』のカズオ・イシグロノーベル賞受賞記念特装版というのを読んでいたのですが、我ながら浮気性ですね」
そういって、件のノーベル賞受賞記念特装版を取り出す。
黒地に金の箔が押してあってカッコいい!
「イシグロさんって読んだことあったようななかったような気がするんですが、どんな感じのお手前で?」
それって明らかに読んだことないですよねといって苦笑いされる。
見透かされているんだか、わたしの日頃の行いの成果か分からないけれど、でへへなどといって後頭部を掻きながら笑って誤魔化す。
「どういう人なのかはご存じで?」
「うーん、なんか日本人の両親がいて、イギリスに行ったから日本人っぽいけれどイギリスの人とかそういう感じかしらん? あと日本語は全然できないみたいな……」
んーそうですね、といっていつも考えるときの口元に人差し指をおくお決まりのポーズをしながら解説をしてくれる。
ありがたい……。
「そうですね、日本語に関しては、母親とは日本語で会話しているし、村上春樹なんかとも知己の間柄で、ノーベル賞受賞した後電話で話したときは日本語だったなんて噂も聞きますし、そもそも両親ともに日本人なので、小さい頃に移民したとはいえ日本語が全く出来ないという話しはちょっと作っているのかなと思うのですが、基本的には一般的なイギリス人と考えて良さそうですね」
「へー、割と日本にも関係あるのね」
「まあ、イギリス人であるのは間違いないのですが、『日の名残り』の前に書かれた初期作品である、『遠い山なみの光』や『浮世の画家』なんて作品は日本にかなり関係していますね。そういうイギリス文化だけではなく、東洋の日本といった国にも関係する、文学的越境性がかなり受賞に関係していたのではないかといわれています」
「文学的……なんですかそれ?」
「異なる文化にまたがって作品を書いているといった所ですかね。ここ暫くの受賞者は多かれ少なかれそういう所があるようです」
「ほへー、あ、あと実はSF作家みたいな話しも聞いたんだけれどSFってノーベル賞取れるの?」
「前にもお話ししたことありますけれど、作品に対して与えられる賞ではなくて、受賞者の業績に当てられるものなのでSFが受賞したということではありません。SFっていうと今回出版された『クララとお日さま』はAIと人間の物語ですし、映画化されて日本でもドラマ化された『わたしを離さないで』なんかはクローン人間の話であったりとSF色強いですね。そもそもイシグロ作品って色々なジャンルにまたがっていることが多くて、『夜想曲集』みたいなドタバタギャグだったり、いきなり展開がホラーになったり、ファンタジーになったりと、なかなかジャンル縦断的ですね」
「そんなに……」
「でも基本的には人気の作家であることは間違いなくて、イギリスで最高の文学賞の一つであるブッカー賞を受賞している作家なんですよね。例えばクッツェーなんかも受賞していますが、この人も後にノーベル賞を取っています」
ほうほうと軽い頭をカクカクと上下してうなづく。
「まあ色んなテーマに挑戦する人なので、オールジャンルに強い作家ではありますよね。例えば『日の名残り』もギャグめいた描写多いです」
「とかいって難しいんじゃないですのぉ?」
どうせ難しいんだろうという疑念を抱きつつ指で栞の小腹を突っついてみた。
ひゃふんとあまり聞いたことのない吐息をはき出して身をよじる。
ちょっと可愛い……。
「やめてください、やめてください! もう詩織さんったら意地悪ですね」
「ごめんごめん、どんな話しなのその……」
「『日の名残り』ですね。まあ最初の一冊としてはいい所じゃないでしょうか。作者自身純文学というより、ベストセラー作家的な所はありますので、特に引っかかる所なく軽く読めると思います」
「本当かなあ?」
「じゃあちょっとだけ読みたくなりそうな情報をお教えしましょう!」
「お願いいたします」
「イシグロ作品によく見られる技法の一つなんですが、信頼出来ない語り部という技があります」
信頼出来ない語り部といわれてもなんだか全くピンとこない。
ピンとこないのを見て取って、栞が続ける。
「私たちが読む本って基本的には、その登場人物が知っている事は全部正しい情報じゃないですか。ミステリとかでもフェアにやるためには知っていることについては正確に語られるみたいな所ありますよね」
うーんと考えついてもよく分からなかったが、登場人物が自分の回想の中で嘘をついて飯福田ということはなかったと思い、ふんふんと頭を振る。
「『日の名残り』はダーリントン卿という伯爵に仕えるスティーブンスという執事の話なんですが、彼の回想の中では、主人は第二次世界大戦における極めて重要な会議などを行っている立派な人として描かれるのですが、これが後々まで読んでいくとどうにも怪しいんですね」
「つまり嘘つきだったってこと?」
栞はうーんと小首を傾げる。
束ねた髪がふわっと揺れて、なんだかいい匂いがするので、思わず気付かれないようにふんふんとかいでみた。
女の子のいい香りがする。
まあわたしも女の子なんですが!
「違いますね……嘘つきという訳ではないのですが、頭の中で過去を理想化してしまっているのですね。ダーリントン卿に仕えていたときの同僚のメイドさんなんかともロマンスがあったような事をいっているのですが、これもどうにも一方通行だったようで、過去の青春の記憶をねつ造してしまっているようなんですよね」
「それでお話成り立つの?」
「ここがイシグロの腕の見せ所なんです。そのチグハグさがこう話しを深いものにしているんですが、これはプロットがあまりにも精巧に出来ているためですね。だからアンソニー・ホプキンス主演で映画化された『日の名残り』は画面に主人公が常に映っちゃっているので、回想と現実のチグハグさが上手く表現出来ていなくて、原作ファンからすると今ひとつ感は否めませんね」
「残念……」
「と、まあ色々いいましたが、信頼出来ない語り部の最高傑作が『日の名残り』だと思うんですよね、それからイシグロ作品でもとりわけで傑作なのが『遠い山なみの光』と『わたしを離さないで』なのでこれを読むと大体イシグロ作品は分かったといっても……問題は……」
「ないよね!」
わたしの調子のいい発言に苦笑いしながら「そうですね、まあいいでしょう」と肯定してくれる。
「じゃあ『クララとお日さま』は明日には読み終わっているはずなので、
とりあえずこの『日の名残り』をお貸ししますね。一日あれば詠み終わ……」
「一週間……一週間待ってください……わたしが本当の感想というヤツを語って見せますよ」
「何ですかそれ」
といって笑っている。
わたしもなんとなく笑ってしまい、お互いあはは、うふふと笑い合いをしている。
まああれだ、箸が転がっても面白い世代というヤツなんだろうか。
わたしは栞相手には信頼出来る語り部でありたいなあとボンヤリ考えていた。
『クララとお日さま』も面白いので是非読んでみてください。
ちょっとお高いですが……。




