058太宰治『トカトントン』
太宰治作品の中でもかなり好きなお話です。
『トカトントン』は色んな人に刺さる話なのではないでしょうか?
青空文庫で全文読めます。
「なんだかボンヤリしてやる気が出ないです……」
「ん? 突然どうしました」
なんだか夏の日差しが眩しすぎてやる気が欠片も出ない。
何というかこう、熱い温泉に浸かり過ぎて湯あたりした時の様な倦怠感がある。
多分汗が服の中に充満して、サウナのようになっているからだと思う……。
「サウナですか……まあ本当に暑いですからね今日は……」
「ずっと図書室に籠もっていたかった……」
「まあ空調が効いていますからね、結構快適には快適なのですが、今日みたいに夏期登校日の時は、どうしても早くに学内は施錠されてしまいますしね」
そんなわけで、自由登校の合間の中の夏期登校日は先生達も早く帰りたがっているからか、さっさと追い出されてしまった。
涼しんでから帰ろうというわたしの考えは「さっさと帰れ」との言葉であっという間に潰えた。
時間はお昼ちょい過ぎぐらいで、なんだかお腹も減るし、頭は茹だるしでいいことがない。夏反対、夏の暑さに規制を入れて欲しい。
とか何とか言いながらカンカン照りの下を歩いていると、なんだか耳鳴りまでしてくるような気がした。
「ふふ、なんだか『トカトントン』みたいですね!」
「なにその『トカトントン』って……」
「太宰治の小説ですよ。内容的には、太宰がモデルの小説家に宛てた手紙という体なのですが、終戦後すぐの頃の話で作家志望……という程でもないけれど、ものをちょっと書き始めた地方の郵便局員が、何かやる気になると、頭の中にトカトントンと金槌で釘を打つ音が聞こえて、いきなりやる気がなくなってしまう……というようなお話です」
なんじゃそら?
といってみた所で、そういうお話なので仕方ない。
と返されてしまった。
「その音は実際に海岸沿いの佐々木さんの所の納屋から聞こえてくる音らしいのですが、このときちょっとした片思いの様な相手だった女性から秘密の打ち明け話の様な事をされていたのですけれど、その佐々木さんのトカトントンという金槌を打つ音を聞いたら、急にどうでもよくなってしまったりするんですよね」
「うわー最低じゃん!」
栞が生え際に薄らと浮かぶ汗を薄い桜色のハンカチで拭きながら「そうですね」という。
「最初は、ゴーゴリやプーシキンの様な凄い作品をものにするべく小説を書き始めていたのに、トカトントンの音を聞いただけで、全てつまらないものに感じて、百枚以上書き続けた原稿も、破り捨てる気すら起きずに、全部鼻紙にしてしまうのですよね」
「あ、それはもったいないかも」
「最後には、そのトカトントンという音が何をしているときにも頭のなかに響き渡ってしまい、自殺を考えても、火事場を見に行こうとしても、頭の中にトカトントン、トカトントンと聞こえては空虚になるを繰り返すのですよね」
「自殺を止めたのはよかった……のかな?」
はい、といって栞は続ける。
「で、女性から相談を受けた話も、他に手紙に書いたデモに出会ったときの感想もそのほかのことも全部嘘のように思われて仕方ない。ただこのトカトントンという音が頭に鳴り響いているという話だけは本当なんです! と助けを求めるのですよね」
「それ精神状態ヤバいのでは?」
栞が今度は、汗でずり落ちてきた眼鏡をかけ直して天を仰ぐ。
レンズに反射した光が目に刺さって一瞬目の前が暗くなった。
向日葵みたいに太陽の方に目を瞑ったまま顔をやっている。
折角白い肌が焼けてしまってはもったいない……と思っていたら、またこちらに顔を向けて続ける。
「そうですね、その手紙を半分も書かない内から、もう頭の中にトカトントンの音がこだましてしまい、もう本当に助けて! という状態になり、宛先の作家にこの音は何なんですかと尋ねているのですよね。小説家だってそんなの分かる訳ないですよね……」
「で、その太宰治っぽい作家はなんていって返すの?」
栞がふふふ、と笑う。
なんだかとっても眩しく感じる。
「あまり同情に値しない気取った苦悩だなぁという感じでバッサリとやられてしまいます」
「非道い……」
「いえいえ、ちゃんとお手紙返しただけでも凄いことではないですかね?」
「まあわたしもそんなメール来たらガン無視すると思う……」
「最後に聖書のマタイ伝から言葉を引いて、その言葉に霹靂を感じることが出来たなら、君の幻聴も止まるんじゃないかなあーといって閉じます」
「なにその……なんなのその話?」
栞が普段決して見せることのない、なんだか珍しく蕩けそうなだらしのない顔で「でへへ」とか笑っている。
なに、このこれ怖い!
「ちょっとどうしたの栞!」
その場に栞がへたり込んでしまう。
「……ちょっとすいません、少しくらっとしてしまいました」
「いいから、ほら、これ飲んで!」
飲みさしで悪いと思ったけれど、一口だけ飲んでバッグに入れておいたスポーツドリンクを栞に無理矢理飲ませると、近くの公園の木陰の下に連れて行った。
「いや……面目もありません……」
「いいよそんなの……それより今大丈夫?」
水道水でぬらしたタオルを栞の頭に巻き付けながらいった。
「ええ、ちょっと体が火照った感じしますけれど、とりあえず真っ直ぐ家に帰って体を冷やしたいと思います……」
「んもー! わたしのことトカトントンとかいっておいて自分が先に暑さにやられているんじゃ世話ないでしょうに」
「いやあ本当にお手数掛けます」
栞が持っていた扇子で彼女の顔を煽ぎながら「んもー」とかいっていた。
ってか扇子って!
なんかいい匂いもするし何なんだろうこの、これは。
「はあーしかし暑い」
といって今度は自分の胸元を大きく開けて、首筋からシャツの中に風を送り込む。
むっとする様な濃い汗の香りと、扇子のなんともいえない香りが混ざって、なんと表現したらいいのか分からないけれど……なんともいえない香りが辺りにふわっと散る。
「あ、なんかいい匂い」
と栞がいう。
「ああ、この扇子なんかいい香りするよね」
「あ、いやそうじゃなくて詩織さんの……」
「……変態」
「違います!」
といったもののなんだかその後の言葉が継げないようで、ぷいと視線をどこかにやってしまった。
時々こういう所あるよなこの娘は……。
実はむっつり系なのでは……と思った。
「違います!」
「あはは、ごめんごめん、ってわたし……」
「気にしない!」
はい……。
なんかこのやりとり何回もしているような気がするけれど、深く考えるとなんか怖い所に脚を踏み込みそうなので黙っていた。
「その扇子の骨は白檀で出来ているんですよね……サンダルウッドとも呼んだりしますが香木です。独特のいい香りはその匂いですね」
「へーそうなんだ」
栞もなんだかいい香りがする。
と口を滑らしそうになって、いかん、わたしもむっつりスケベの仲間入りをする所だったと、邪念を頭から振り払おうと懸命になった。
こんな時にこそ、例の金槌を打つ、トカトントンという音が響いてくれば余計なことを考えずに済むのにと思った。
「トカトントン、トカトントン」
と栞が小さく呟いていた。
その日は栞を送った後、家に帰って速攻で冷水シャワーを浴びた。
マタイ十章、二八「身を殺して霊魂をころし得ぬ者どもを懼れるな、身と霊魂とをゲヘナにて滅ぼし得る者をおそれよ」
わたしにはサッパリ意味が分からなかったけれども、栞が公園で呟いていた呪文のような「トカトントン、トカトントン」だけが頭に残っていた。
イラスト提供:
赤井きつね/QZO。様
https://twitter.com/QZO_
明日以降は、またゆったりとした更新ペースに戻ると思います。




