051トマス・ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』
ピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』は理解しやすさで言うと新潮文庫版がよいようです。
本の装丁に関してはサンリオ文庫もカッコイイですし、バーゲン本になっていたりしますので、お安く手に取りたい方は、こちらでもよいかと思います。
面白くて適当な長さという点ではやはり、この作品が一番入りやすいのではないでしょうか。
「ピンチョンって人知っている?」
「マッ! 詩織さんがピンチョンですって!」
本日は久々に東風栞宅でお勉強会などと洒落てみているのだけれど、栞はわたしの質問にやたらと失礼な反応をもって迎える訳である。
「マッ! って何よマッ! って。いやあ、難しい文豪みたいな感じで調べてたらさ、この人の話が出てきたからどんなもんかなって思って伺いたい次第である訳ですよ!」
「ピンチョンはそうですねえ、昔のデリダに並ぶ匿名作家ですね。もっともデリダは哲学者なのですが」
「デリ……誰だ?」
「あっ、その『デリダは誰だ?』ってフレーズ、割といい感じだった時代があるんですよ」
「えっそうなの? 無意識にイケてるフレーズ使っちゃってたの?」
「まあ、日本人なら誰でも思いつくフレーズなのですが、デリダは自分の書いたテクストと自分の見た目が人に見られることによって、純粋にテクストだけを読み込んでくれなくなるのでは? ということで顔を隠していたのですね。その後厳しい社会主義国家だったチェコのプラハの空港で麻薬所持の濡れ衣を着せられて顔が世界中に報道されるまで顔を隠して活動していました、その後……と長くなりましたね、ピンチョンのお話でしたね」
栞がガッと説明してくれるのはありがたいけれど、なんだか変な方向に話が飛んでいて、自分でもピンチョンの話題を振ったのをすっかり忘れてしまっていた。
「えーと、作家になる前の若い頃の写真というのは確かに出回っているんですが、他の写真というか見た目については一切謎です。謎なんですがシンプソンズに本人役で登場していたり……まあ顔は紙袋をかぶっていて分からないのですが、アニメ好きは公言していますね……他にもナサニエル・ホーソーンの『七破風の家』に出てくるピンチョン大佐何かも実のご先祖だったりと、陰謀論大好きなピンチョンの作風に影響しているのかも知れません」
「変わった人なのね、でもアニメ好きっていうのはなんか親近感沸くかなあ」
「アニメといってもアメリカのそれですが、作品にはアニメネタが散りばめてあり、忍者やヤクザが出てくる作品もあったりします」
「忍者とな、わたしピンチョン読めるかも知れない……」
そうですね、といって栞は部屋を出るとすぐに本を四冊ほど持って戻ってきた。
一冊は白っぽい本で『競売ナンバー49の叫び』もう一冊は赤い表紙で、やっぱり『競売ナンバー49の叫び』もう一冊は青い表紙に『スロー・ラーナー』と書いてあり、他の三冊は単行本なのに対して、もう一冊は文庫で『スロー・ラーナー』と書いてある。
「『スロー・ラーナー』は短編集ですね、一番最初に雰囲気だけ掴むのにはいいかもしれません。文庫がちくま文庫版で、この青い表紙と赤い表紙が、何年か前に出た新潮文庫のピンチョン全集のものになります。この白いのがサンリオ文庫ですね」
「え、そんなに何冊もあるの?」
「はい、装丁の好みになる部分は実際ある程度あると思うのですが、それぞれ両方読んでみた所、新潮全集の方がどちらかといえば読みやすいのではないかと思います」
「なるほど……じゃあひの全集? の方がお薦めなのかな。ってかそんなに翻訳って何種類もある物なの?」
「ピンチョンはノーベル賞候補の噂もある大作家ですからね。恐らく授賞式には参加しないだろうともいわれていますが……」
しげしげと白い本を開いてみると、なんかラメの入った紙が折りたたまれていて、不思議な絵が印刷されている。
赤い本も折り込んである紙に三つの絵が印刷されている。
三つの内真ん中の絵は白い本と同じ絵だった。
「メキシコのシュルレアリズムの作家、レメディオス・バロの『大地のマントを織り紡ぐ』ですね」
へーといいながら見てみると、なんとなく雰囲気がいい感じで気になってくる。
「私は最初の一冊なら『競売ナンバー49の叫び』をお薦めしますね」
「ふーん、こういう絵が載っているっていうことはファンタジーなの?」
「いえ、陰謀論のお話……というとちょっと違いますが、主人公のエディパ・マースが昔付き合っていた大富豪から遺産執行人に指定されていることを知るのですが、その中の切手コレクションの中にラッパのマークが画いてあるのに気付くのですね。これがトリステロという神聖ローマ帝国の頃から続くタクシス家の郵便組織とも戦った謎の私設郵便組織であり云々というお話で、まあ先へ進むほど訳が分からなくなる本です。エントロピーだとかマクスウェルの悪魔を実現した機械だとかがウワッと出てくる上に、行く先々でトリステロのラッパのマークが出てきて彼女を苛むのです。はっきり言って中々説明しきれる物ではないですが、もう凄い作品には違いないので、一度実際読んでみるとそこら辺の印象は変わるかも知れないですね……」
「そうか……難しいのか……文学って難しい……」
わたしの沈痛な面持ちを見て慌てたのか、急いで「凄いエンタメしている作品には違いないのです!」と何に対してか分からないけれど、弁明している。
「分かりました、分かりましたってば! 読みますよ、読みます! この赤い本でいいのかな?」
「読む気になってくれましたか! じゃあ読んだらノートを付けてもいいかもしれませんね。読書ノートを付けると頭の中がグッと整理されます。あとお互いに見せ合ったりとかそういうの憧れでもあったので……」
「えー何それ、授業中のお手紙みたいな?」
もじもじしていたのがいきなり真顔になってわたしの顔をビッと指さし、トンボでも採るようにぐるぐると回し始める。
「授業は真面目に受けないと駄目です」
「は、はい……ってかしてない、してないです! わたしはこれでも割と真面目なんだから、割とだけど……」
「まあ、よし、信じますよ私は」
えへへ、と曖昧な笑みを浮かべて、ポロリと「栞大好き」とついついこぼしてしまう。
「今なんて?」
「いや、あのハハハ」
もう一回いってくださいと、グイグイ迫ってくる栞に圧倒されながら、ここは栞の部屋だしあわや押し倒されるのではないかと、ちょっとドキドキとしてしまった。
とりあえずピンチョン読むと賢いガールの資格を得られそうという思いで『競売ナンバー49の叫び』を借りてみたものの、返り討ちにされてしまった感は否めなかった。
栞が珍しく食い下がってくるので、とりあえず読書ノートを付けてみることにした。
ついでにまた文芸部的な事をしましょうといわれ、わたしも何か書かざるを得ない崖っぷちに追い詰められてしまった。
とりあえず、ピンチョンを読むという実績を、まあ時間は掛かったけれど解除したものの、それだけではまだまだ何もかも足りないようで、あれやこれやの名作が世の中にはいっぱいあるので、色々基礎固めをしないといけないのだろう。
文学少女の道は遠く険しいのである……。




