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050筒井康隆『旅のラゴス』

50話目です。

 スカッと抜けるような空がどこまでも青々と広がっている。暑くもなく寒くもない、なんだかぬくぬくとした一日だ。

 こう平和だと眠くなってくるのは仕方ないことだと思う。

 本当に仕方ないことなので机に伏せってついうとうととしてしまう。


「詩織さん、詩織さん!」


 耳元にやや湿った風が吹く。


「あっ! 寝ていません、寝ていません!」


「寝ていませんといってますけれど、ちょっと口元が……」


 栞がなんとなく口調を濁すので口元に手を当てると、口元どころか右の頬全体が涎でベトベトしている。

 現役女子高生の原液女子高生汁なので、その手の趣味の方々の間では高く取引されそうだとか何とか馬鹿なことをいっていられる程度の量ではなくて、半分水にでも顔が浸かっていたのかといわざるを得ないぐらいに、ベトベトと顔が濡れ濡れになっている。

 一つだけ幸いなことに、船をこぎ出す前にレモンキャンディーなんかなめていたので、柑橘系のいい香りのする唾液だったということだろうか。

 なんにせよ綺麗な話ではない。

 顔を拭おうとして、反射的にシャツの袖で擦りそうになったけれど、それをギリギリで回避するぐらいにはべっとりと濡れていた。


「詩織さん、これ使ってください」


 栞が差し出した、なんか可愛いキャラが刺繍してあるハンドタオルを借りて顔をゴシゴシと拭く。

 なんか女の子のいい香りがする……。

 わたしも女の子な訳だけれども……。


「ありがとう、ある程度拭けたけれど、なんかばっちいからちょっと顔洗ってくる」


「あ、タオル新しいの使いますか? 気にしないで使ってください!」


「あ、ありがとうごぜえます……」


 使用済みタオルをそこに置いて、洗面に向かって小走りで駆けていく。

 入れ違いに珍しく放課後の図書室に人が入っていくのを見たけれど、それどころではない、乙女の緊急時なのでぺったぺったとスリッパを鳴らしながら水場へ一直線である。


 で。


「いやあ参った参った、ごめんね栞、恥ずかしい恥ずかしい……ん?」


 帰ってきてみると、何かやたらと栞の隣の椅子にでーんと、不貞不貞しい態度で座っている女子が一名。

 その傍らでわたしが涎を拭いたタオルを、ギチギチに握っている栞の顔といったらまあ見たことのないほど苦々しい顔であったので、思わず小声で「ひっ」といってしまった。


「ん? オッス詩織ちゃん!」


 なんか馴れ馴れしくその娘が声を掛けてくる。

 スリッパの色を見る限り同学年の様である。

 顔は見たことある気がするけれど、どうにも記憶が定かではない。

 クラスが違えば全く知らない人間がいてもおかしくないわけで、その知らない側の人だった。

 しかし、椅子に座ってても分かる。

 なんかやたらと背が高いっぽい。

 わたしも、どちらかといえば女子の中では背の高い方で、ちょっとはスタイルがいいんだこれと、内心自慢に思っていたのだけれど、この不貞不貞しい態度をとる娘は明らかに背が高い。


「よっこいしょういち」


 と、謎の掛け声を上げて立ち上がったその姿は、どう考えても図書室より体育館のバレーコートにいた方がいいぐらいだった。

 男子グループにいても背が高い方なんじゃないかといった感じで非常に目立つ。

 これだけ背が高ければ覚えてそうなものだけれど、なんとなくいたかなあという確信が持てない。

 なんか顔を見た確証が得られないままだったがどこかで見たことがある理由が分かった。

 眼鏡と髪型である。

 黒くて分厚いセルフレーム。

 バランスが少しでも狂うと野暮ったく感じられそうなそれと、腰まで伸びた三つ編み。

 背は高いけれど、スラッとしていて線が細い感じがするので、デカいという感じがあまりしない。

 馴れ馴れしい感じなのにどこかしら育ちが良さそうな雰囲気を醸し出している。

 何というかパーツとなんとなく纏っている空気が栞と一緒なのだ。

 何か言おうとしたけれど、上手く口をついて出てこない。


「なんだい詩織ちゃん。こっちはよくご存じなのに、自分のことは知らないとかちょっと非道くないかしらん?」


「えーと……どなたで?」


 栞が苦々しい顔のまま「その人も残念ながら"しおり"といいます」といって、ふーっと深く溜息をつく。


「えーと……」


「なんだよ栞。ちゃんと説明してくれないと"しおり"だらけで混乱しちゃうだろ?」


「その人は、しお、と、り、と書いてしおりです」


「はいはい、テレビ局のある汐留の汐に里と書いて汐里ちゃんです! よろしく詩織ちゃん!」


 なんだかこちらの胸に飛び込んで来そうな勢いで手を伸ばしてくるので、思わず反射的に手を差し出して握手してしまう。


「はい? はあ……よろしく……」


「んじゃまったねー!」


 と、そこそこ高めのテンションを維持したまま、音もなく去って行く。

 なんなんだ一体。


「はあ……」


 と、栞がどっと疲れたというように巨大なといっていいほど大きな溜息をつく。

 普段からは想像も出来ないほど、険のある目つきをした栞が割と怖くてちょっとちびりそうになる。

 もしかしたら実際にちょっとチビっていたかも知れない……。


「無礼な人ですよね、でもいつもあんな感じなので、まあ気にしないでください……ああいう人なので……」


「う、うん。何者だったのだろうという疑問は拭い去れないけれど、まあ、はい」


 栞は机に肘をついて手を組むとそこに眉根を乗せてぼそぼそとしゃべり出す。


「あれは昔から付き合いのある人で、あんな感じの軽佻浮薄な生き方をしているものの多分私よりかなり本を読んでいる人なので、小さい頃は色々と本をお薦めし合ったり、あんな感じの人なので遊びに連れて行ってもらったり、なんならお泊まり会とかして一緒にお風呂に入ったりとしていたのですが……」


「が……?」


「本のネタバレを凄い勢いでしてくるので、距離を取っていたのですね……私自身はネタバレをそこまで気にする方ではないのですが、それでも度が過ぎるというか、許容範囲を超えていたというか、まあ悪気がないのが一番悪質な所なのですが!」


「そんなに」


 わたしとしては栞より本を読んでいる人というのがちょっと信じられないのだけれど、栞がそういうのならそうなのだろう。


「実際ロシアの南極基地で、ネタバレが原因で殺人未遂事件が起こったりしているぐらいには根の深い問題でもあるのですけれども」


「よもや、そんなことが」


「例えばですね、この本なんですが……」


 なんかボロボロになった本を見せてくる。


「筒井康隆の最高傑作の一つである『旅のラゴス』です」


「その本がどうかしたの?」


「これが原因で私は彼女と距離をおくようになったんですね、まあネタバレをされてしまったということなんですが」


「そんなに面白いの?」


「筒井康隆というと『時を駆ける少女』が一番通りがいいのでしょうけれど、ちょっとでも読んだことのあるファンにとっては、非常に下品だったり不謹慎だったりする内容が多いです。性的な話だったり、糞便の話だったり、まあ滅茶苦茶なんです。それが最高に魅力的な人なんですが、まあ星新一と小松左京と並べて日本のSF御三家といわれている人ですね。因みに『時を駆ける少女が』大体半世紀前で、この『旅のラゴス』がその二十年後の作品なんですが、未だに口コミだったりで売れ続けていて、『時を駆ける少女』なんかは、未だに忘れた頃に仕送りをしてくれる孝行娘みたいなものといってたりしますね。『旅のラゴス』についても『文学部唯野教授のサブ・テキスト』で、この作品のヒロインであるデーデの事にふれていて、筒井康隆史上最高のヒロインであるというような事を匂わせています」


「それほどとは……」


「まあそんなこんなで、小学生の頃でしょうか? 楽しく読んでいたのですね、というかほぼ同時に読み始めていたのですが、見ての通り薄い本なのですぐに読み終わってしまいます。読み終わってしまうけれど、もったいなくてじっくり読んでいたら、先にさっさと読み終わらせた汐里から、先の内容を微に入り細を穿ちという感じで語って来て、当時は子供でしたからそれで喧嘩になってしまって……まああんな感じの人なので悪気はなかったと思うというか、一緒に語りたいという気持ちや共有したいという気持ちは分かるのですが、当時は本当に頭にきてしまって……」


「そ、そうなんだ……どんな話なのその本は……」


 ちょっと話題を変えたいと思い本の話に水をやる。


「そうですね、ラゴスという青年が旅をして、老齢になってまた街へと戻ってきて、最後に最愛の人であるデーデの幻想に殉じて、彼女の足跡を辿り最後の旅に出る……といった感じのお話です。何かを求める旅というのは、物語の一番古い形式なんじゃないですかね? 例えば『オデュッセイア』とかも旅の途中で奴隷になったりと話の形としては似ています。ジョーゼフ・キャンベル『千の顔を持つ英雄』なんかで示されている物語の類型とも似ていますね。青年ラゴスが彼方此方で女生と望む望まないに関わらず付き合ったり、奴隷に身をやつしたり、生涯の仕事であった知識の総覧である手稿を何一つ価値を理解しない盗賊に捨てられたりと波瀾万丈です。私は日本人作家の中ではこの筒井康隆という人が一番好きかも知れないですね……そんな訳でこの本は枕頭の書というか今でも読み返す大切な一冊なのですが……」


 はぁ、となんとも悩ましい溜息をついて、手が白くなるほどの力で握りしめていたタオルをこめかみに当てて、頭をぐらんぐらん揺らしている、よっぽど堪えたようである。


「あ」


「はい?」


「そのタオルわたしが涎拭いた奴では?」


「あ……」


 とりあえず栞は「本当に面白いので読んでください!」といって、わたしのために買ってきたという新品の『旅のラゴス』を渡して来たのであるけれども、どうにもこうにもあの汐里という人が忘れられず夢にまで出てきそうだと思っていた訳だけれど。

 栞と二人だけの図書室の静かな時間を邪魔されるのは嫌だなあとボンヤリ思うのと同時に、栞が一人だけで過ごしていた訳じゃないとほっとしたり、わたし以外のしかも「しおり」という名前の人と、お風呂一緒に入るほどの仲だったというのになんとなくモヤモヤとしたものを感じてしまったりとなんだかまんじりともせずに過ごした。

 まあ次の日にはそんなことも忘れて、栞から貰った『旅のラゴス』について興奮気味で栞と話し込む事になるのだけれど、このときはまだ予想もしていなかったのです。

評判悪そうなので、後でなかったことにするかもしれません。

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