035ジョゼフ・チャプスキ『収容所のプルースト』
ジョゼフ・チャプスキ『収容所のプルースト』は中々に衝撃的なエッセイでした。
翻訳も源テクストを最大限尊重しており歴史の一大潮流を読んでいる気にさせられます。
本の作りも丁寧なので是非読んでみて下さい。
「栞はさあ、あれ読んだことあるの?」
「あれじゃ分かりませんよ」
苦笑いされた、まあ当たり前だろうか。
「えーと、街で転けた時に昔食べたマドレーヌの匂いを思い出してー……って内容で物凄ーく長いっていう奴」
「ああ、マルセル・プルースト『失われた時を求めて』ですね。以前、ピエール・バイヤール本ご紹介した時にちょっとだけお話ししたことありましたね」
「そうそう、そんな感じの奴! 栞だったら読んだことがあるかなと思って……」
またもや苦笑いをしながら。
「いえ、読んだことはないですね。岩波文庫版が完結して化粧箱付きのが出た時に思い切って買っちゃったのですけれど一冊が分厚くって全十四巻もあるので私も読み切れてません」
「ふーん、栞にも読んだことのない本とかあるのかあー」
「当たり前ですよ、読み切る前に新しく出てくる本の方が多いんですから……でも何で突然そんなことを?」
今度はこちらが苦笑いをし。
「いやあ、読んでたら粗筋聞いて、何かで話題になった時に語りまくってやろうかなって……てへへ」
「詩織さん……」
なんだかとても残念そうな人を見る目になっていた。
「ああ、でもあらましはなんとなく説明できますよ!」
「お、ダイジェスト版か何か読んだの?」
「ダイジェスト版はありますが読んだことはないです。読んだことはないけれど読んだ人の話を読んだことがあるのです」
「なんだー栞もショートカットしているんじゃないの!」
「うーん……実はそんなに軽い話ではないんですけれどねぇ。じゃあ今日はジョゼフ・チャプスキ『収容所のプルースト』という本についてお話ししてみましょうか」
「収容所っていうと何か捕まってたって事? プルーストしか読むものがなかったとかそういう?」
首をゆっくりふって否定する。
「逆なんですよ、ソ連に捕まったポーランド人捕虜達が零下四十度の極寒で且つ不衛生極まる廃教会に集まり、過酷な労働をした後、そこで大学の教授や建設のプロなどが、自分の専門について講義するんですね。いわゆるラーゲリという奴です。ソ連兵に、自分たちは反乱を起こすつもりはないとロシア語で書かれた講義内容を毎回提出して、ヘトヘトになった希望も何もない捕虜達へ、講義を行うのです。もう本当は眠たくて仕方ないのですが、みんな知識欲に飢えていて、自分が分からない話でも喝采を送り明日も何とか講義を聴きたいと、その一念で生きているのですね」
「うわぁそこまでして、良く分からない講義の話が聞きたいって良く分からないなあ」
「人はパンのみに生きずですよ、芸術や知識ってとても重要なんですよ」
「なるほど、そんなもんなんだなあ」
「そんなもんなんです、主人公のチャプスキは画家なのですが、イギリスで病に倒れた時、たまたま置いてあった『失われた時を求めて』に猛烈にのめり込むんですねそうして彼が講師をした時には『失われた時を求めて』を十三ヶ月にわたって講義したのですが、あの長い長い作品を本の一冊も持たず自分の記憶力だけで解説しきったそうです。彼の書いたとされる講義メモは原テクストに非常に忠実でかなり細部の文章も殆ど間違いなく書かれたという驚異の記憶力で、後の研究者も驚くしかなかったそうです」
「凄すぎる、栞みたい!」
「私なんかと比べたら失礼ですよ。因みにそのあとチャプスキだけはナチスドイツに引き渡され、彼の仲間達は西の方に送られたそうです……」
「西ってどこ?」
「西の方っていうのは符丁で良くない不吉な方向のことを示しているんですよ」
ふーっと息を吐くと、突然。
「歴史の問題です! ソ連兵によって二二〇〇〇人以上のポーランド人捕虜が殺害されたのは何という出来事か!」
突然クイズを出されて、クイズなのかな?
歴史の勉強でこの前やったなあと思っていたら、パッとひらめいた。
「カティンの森事件!」
「正解! まさにカティンで殺害されたんですね。チャプスキは後年自分以外の捕虜は全て殺害されただろうと証言しています。ソ連とドイツの不可侵条約が結ばれてポッと自由の身になったチャプスキは、カティンの森の調査に名を上げます。彼が調べるとおぞましい痕跡があちらこちらから出てくるのに、ソ連はもちろん知らん顔。ナチスドイツはプロパガンダでソ連の犯行としてきて、東側に編入されたポーランドはチャプスキの話を適当にはぐらかしており、彼は画家の仕事と併せて生涯この問題に取り組んできました。そして一八九六年に生まれたチャプスキはなんと一九九一年にソ連解体に伴う情報開示……はい! なんというでしょうか!」
「あー、うー、あー、グラスノスチ!」
「ふふふ、正解です! 勉強の効果出てますね!」
「もー早く次の話してよ!」
額からつつーと汗が流れる。何でも猛暑日らしい。マスクを投げ捨てたい気分にとらわれるが冷感マスクなだけましかあ……。
「グラスノスチによる情報開示によりチャプスキのポーランド政府に対する訴えかけが認められ、今ではかなり詳しく調べられています。チャプスキが亡くなったのは一九九三年まさに執念の生涯でした。彼の行為はチェスワフ・ミウォシュなども書いています。ポーランドのノーベル文学賞作家ですね」
「なんだか暗くなる話だったなあー」
「ああ、すいません……どうしても本のことになると無駄に饒舌になってしまって……」
わたしは、首元から服の中にパタパタと手を仰いで、汗を乾燥させて涼を取ろうとするけれど胸の辺りからスカートの辺りまで汗が流れ込むばかりである。
わたしはセーラー服をスカートの外に出していてパタパタやっていて、なんか馬鹿丸出しだけれど、かっちり乙女の装備を着込んでいる栞の方が涼しげですらある。
「まあまあ、わたしは気にしないというかそういうのなんとなく賢くなった気分になっていいけれどねーまあ『失われた時を求めて』の話ではなかったけれど、ちょっと涼しくなっちゃった、涼しいというか底冷えするというか、気分だけね!」
うーんと栞が唸り、唐突に額がぶつかりそうなほど額を近づけてきて「じゃあ一緒に『失われた時を求めて』読書会しませんか!」
「うーん、滅茶長い上に難しいんでしょそれ?」
「うーん、難しいというかややこしいかも知れませんねぇ。でもチャプスキぐらい読み込めることが出来ればもう楽しいこと間違いなしですよ!」
「ちょっと近い近い、ソーシャルディスターンス!」
「あっ! ごめんなさい……本の読み合わせというか読書会とかやってみたくて……今までのは勉強会みたいな感じでしたからね……私友達と呼べる人が居ないからそういうのやりたくても集まってくる人居ないし、やっているところを探しても東京とか京都とかそういう所ばかりですし……物理的にいけないっていうか……」
「分かりました、この詩織さんが一肌脱ぎましょう! 勉強はなしで本の話だけするというのでしたらわたくしも参加しましょう!」
ぱぁぁっと栞の顔が明るくなる。
「読書会やりましょう!」
「ふっふっふ、難しい話は厭だけれど、薄くて面白い奴なら参加してもよくってよ!」
変なお嬢様言葉みたいなことを言ってみたら「似合わないです」と笑われてしまった。
「そうですね、いつになるか分かりませんが、丁度いい面白い作品があったら是非やりましょう!」
「そうね、あー太陽が眩しすぎる! マドレーヌ食べたい!」
「じゃあいつもの喫茶店にいってもうすこしお話ししてみましょうか」
「涼しいところならどこでもいいー早く行こう、行きましょ!」
この後眩しい太陽を見る度にマドレーヌの香りを感じるのかも知れないなあとおもった。読書会なんてなんか頭のいい人達がやるものだと思っていたけれど、まさか二人だけとはいえ参加することになるとはなあとぼやーんと思っていたら、栞に「早く早く行きましょう!」と声を掛けられた。
知らないことを知るのが楽しいというのがなんとなく理解できてきて、収容所にこの先収容されることがあっても本の一冊でも暗記していれば、助かるのかなあとか、すっかり茹だった頭で考え混んでいた。
「それよりとりあえずマドレーヌ!」
「さあ行きましょう!」
「はいはい!」
といいながら二人仲良くトコトコと夏の厳しさが残る道を歩いていた。
イラスト提供:
赤井きつね/QZO。様
https://twitter.com/QZO_
FM02/802パレット様で朗読していただいたログです
気が向いたら聴いて下さいまし、作者としては稚拙さが目に見えてしまって
恥ずかしいことこの上ないですが、折角選んでいただいたので
なんかの切っ掛けにしたいと思います、感想など有れば頂戴出来ると励みになります
一覧
https://www.youtube.com/playlist?list=PLlPbV0GD2CxuivfO-JrSXAHBvvAIVuEt4
第一話
https://www.youtube.com/watch?v=Q2SWxHoqLWU&list=PLlPbV0GD2CxuivfO-JrSXAHBvvAIVuEt4&index=2&t=0s&ab_channel=FM802




