032ヘルタ・ミュラー『澱み』
読んだというとなんとなく自慢できそうなみんな大好きノーベル文学賞作家のヘルタ・ミュラーです。
暑い時期に寒くなる話をということで上田秋成『雨月物語』でも引こうと思ったのですが
変化球として投げたら暴騰してしまった感がありますがよろしくお願いいたします。
道草を食っていた。
もちろん別に道に生えた草を食べていたわけでなくて、栞とお揃いの、リボンの色だけ違うけれど、そんな麦わら帽子をかぶって、二人並んで川縁に座り、川面に向かって特に当てもなく石を投げたり、コンビニで栞が二人で食べましょうと、二人で割って食べるタイプのアイス買ってきたので「まあ見てなさい」とかいって自信満々にバキッと割ったら変な割れ方をして、栞に謝り倒してたりしていた。
「わたしらは男子中学生かい!」
突如わたしのなかの僅かに残った乙女の部分がしゃぶりつくしたアイスの棒を片手に武装蜂起する。
栞はボンヤリと蕩けたようなボンヤリとした表情で、こちらをボンヤリとボンヤリ眺めていると。
「ああ、暑いですからね……」
と、なんだかボンヤリ一人で納得して川面に目を移す。
「こちとら乙女じゃい! それが川に向かって石を投げては無情を感じるってどういうことだ、男子中学生でももうちょっと生産的な事しているはずですよ、ねっ!」
汗みずくで立ち上がり栞の方にボールを投げると、完全にスルーされる。
こっちはいきなり立った勢いで、頭に血がついていかず、くらぁっと立ちくらみを起こし、麦わら帽子の縁から汗がポタポタとしたたり落ちる。
今気づいたけれどわたしも、栞も白い制服の布地がべったりと張り付いてスケスケになっている。乙女の危機である……がこんな炎天下の元で汗を流しているのは高校球児ぐらいなもので、その高校球児にしてもコロナ対策でまあ外で走り回ったりはしていない。
因みにこの麦わら帽子も栞が「熱中症対策です」といって買ってくれた。
奢られっぱなしの人生である。
なんか夏の青春といえば海でしょうみたいなのりで、海なんかないから川に行こうと近くの河原に栞を連れてきたところ、最初は「こういうの初めてです」とかいって面白がっていたものの、今となっては暑さの方が勝っている、暑さの大勝利であり、わたしたち青春満喫倶楽部の大敗北でもある。
青春満喫倶楽部ってなんだそれ?
この猛暑と暫く前の梅雨の豪雨が嘘のように晴れ渡る、呪いのような青い空。紫外線が肌をヒリつかせる。
なんかの講習で川に入る時は必ずライフジャケットを着ろと口酸っぱくいわれていたけれど、まあコンクリートで階段になっている川岸に素足をチャプチャプと入れるぐらいだったらいいだろうと思い、最近履き始めた学校指定の革の靴を脱ぎ、靴下をえいやと投擲するとその瞬間「あっつい! あづい! 熱い!」と悶絶した。
「昔は海の砂浜で水虫治療のために裸足で歩くなんて民間療法があったみたいですね」
と、栞お嬢様は残念な顔をしてこちらを見やる。
そのまま階段をとてとてと降りていって、脚を水につけるとまあ温い、しかも尻が熱い!
このままだと尻が割れる! 割れた上に穴があく! と一人で騒いでいたら、いつの間にか栞が、この世の罪を全て背負ったかのような凄まじい形相でニコニコと作り笑いをし、隣に座って「いやあ……熱いですね、お尻」と馬鹿そのものの見本のように騒いでいるわたしの隣に我慢強く座って、脚を川面につけてちゃぷちゃぷとやり出した。
わたしもだろうけれど栞も服が汗でべっとりと張り付いているので猛烈にえっちな感じになっている。
麦わら帽子のお嬢様、川遊び、服の下に透けて見える素肌……わたしと一体何が違うんだろうと考えた結果、何もかもが違うと結論付いた。
「こういうの初めてですから楽しいですよ」
わたしに気を遣ってか、にこりとわらって遠くを見る。
「すまねぇ、栞。わたしが無計画なばっかりに……」
「あはは、無計画なのはその通りですねー」
パチャリと水を蹴り上げる様はいつものおとなしいお嬢様というより、行ったこともない田舎の漁村の地味だけど密かに人気のある女の子といった体である。
「ねえ、これだけ暑いからなんか涼しくなる話してよ。なんか怪談みたいな奴とかさ。結構そういうのも知っているでしょ?」
「うーん、そうですねぇ……」
「ほら、あのいつだったか怖い話で出てきた『雨月物語』だっけ? あれとかどうなんでございますの?」
「うーんそうですねぇ。確かに上田秋成の『雨月物語』は怖いです。でも全部怖い話で無くて序文を含めて全部で十の短編からなります。例えば「夢応の鯉魚」なんて話はどちらかといえばファンタジーですし、「吉備津の釜」という話は、『新世界より』とか『黒い家』なんかで有名な貴志祐介のデビュー作で『ISORA』という作品のモチーフにもなっています。怪談お爺さんの稲川淳二が、日本の怪談は海外のものに比べて圧倒的に怖いといっていたりもしたのですが、中国の白話集が下敷きになっていたりして、そこら辺も勘案するともっと違った方面で寒々しい話をしてみましょうか」
「おっ! 語りますね文学少女!」
そういういうといつも通りむすーっとした顔になる。
頭の中がすでに漁村の少女モードになっているので、ネットでよく見る小さいハコフグが連想されて、つい「アハハ、可愛い顔しているね」等というと紫外線にやられたのか単純に恥ずかしかったのか顔を上気させて、ぷいっと拗ねてしまった。
「ごめん、ごめん。悪かったって。どんな本の話してくれるの?」
「もーしょうがないですねぇ」
と、いいつつまた「熱い熱い」といいながら鞄を取りに戻り、やっぱり「熱い熱い」といいながら降りてきた。
「ふー川の温い水でも少しは涼しくなりますね」
といいながら凍らせてタオルでぐるぐる巻きにした九〇〇㎜ℓサイズのスポーツドリンクをだして、ごくごくと飲み始めた。
ぷはーといいながら、わたしの方に目を向けて一言。
「飲みます? この暑さの中水分補給しないと本当に死んじゃいますよ?」
と、飲みさしのドリンクを渡してくる。
「いえーい、間接キッス頂きー」
等といいながら手を伸ばすと「破廉恥!」といわれた。
そうか、わたしは破廉恥な娘だったのか……そういえば『悪い娘の悪戯』という本も薦められてたっけかなあ、綺麗な装丁の本でノーベル賞作家らしい。
「ま、まあ詩織さんが破廉恥でもスポーツドリンク飲まないと熱中症になっちゃいますからね……次恥ずかしいこといったらデコピンしますよ!」
罰ゲームまでおとなしい。
へいへい分かりましたよといいつつゴクゴク飲むと五臓六腑に染み至る「ぷはぁ生き返るねぇ」なんてドラマのビールかなんかの宣伝みたいな事いいながら、ペットボトルを返す。
暫くボトルを眺めていると、軽く口を付けて飲んだ。
異様に真剣な目で眺めてから飲み出したので、何事かと思いつつ声をかけようとして、あわあわしていると「これでおあいこです」とにっこり笑っている。
なんだか酷く恥ずかしくなる。
「そうですね、今私の中で起きている"寒い文学"シリーズだとこれです! ヘルタ・ミュラー処女短編集『澱み』ですね!」
「有名な人なんですの?」
「有名も有名、なんと二〇〇九年度ノーベル文学賞受賞者です」
「またノーベル賞!」
「ん? なんですかまたって?」
「いや、ごめんごめん気にしないで」
「この人は結構ややこしい人でルーマニア西部のバナート地方のドイツ系少数民族に生まれ田舎の寒村に育ち、チャウチェスク政権下で金属工場の技術翻訳家として活動していたのですが、秘密警察からの依頼を断ったため次第に当局から目を付けられ、職を失い、代用教員として働くことになります。創作活動もしていたのですが本国での創作活動はこれ以上は命の危機に陥るとして八七年にドイツへ出国しています。ここら辺は長編第一作となる『狙われたキツネ』に実体験を元にした秘密警察のやり口が詳しく書いてあるのですが、今回は短編にしましょう」
「短編大好きー」
「まあ色々思うことはありますが置いておきましょう。この方基本的にディストピアの系譜に連なっているんですよね」
「ディストピアってあのSFで監視されまくっている奴じゃ無いの? 伊藤計劃だっけ? アニメしか見てないけどあんな感じの」
「ディストピアは実は一九二〇年代にザミャーチンの『われら』という作品に源流がありますね、あとはジョージ・オーウェルの『一九八四年』とかご存じでないですか?」
「流石に知ってますよ、古典SFでなんか真っ黒な表紙の奴でしょ?」
栞は満腔の笑みをたたえて。
「どうでした? 読んだんですよね?」
わたしはその笑顔の眩しさから逃げるためふっと空を見上げた。
「ふっ、大体ネットで粗筋は知っている」
「クワッ!」
「ひっ!」
栞がいきなり奇妙な叫び声で威嚇してくる。
「ふっ……じゃありません! まあ話がまた間延びしてしまうので止めておきますが……」
「これはありがたい……」
「まあそんな独裁者、ディストピア文学の人なので二〇一一年に中国の体制派としてはジャンル問わず初めてノーベル賞を取った華人である莫言には、中国の監視社会に賛成していたこともありヘルタ・ミュラーが「ノーベル賞は死んだ」的なことをいってましたね。華人作家というと二〇〇〇年の高行健がいますが彼はフランスに亡命していてフランスの国籍を取得しており、共産党激怒なんて話もありますが、まあこれは余談で……」
麦わら帽子を脱ぐとぱたぱたと顔を仰ぎ始める。川面に浮かぶ光の反射より栞の額を伝う汗の煌めきの方が綺麗だ。絵になるという奴か。
麦わら帽子をかぶり直すと、また話の続きが始まる。
「まあ一つ一つ解説していくと長くなるのでどんな感じのお話があるのかというと、古い因習に縛られた家で過酷な少女時代を過ごしたり、性的な表現が実に直裁でおどろおどろしいものになっています。祭りで男女が逢い引きをしたりといった風俗が湿った冬のように書かれていて、ぞわぞわとします。前半はそういった暗い田舎の閉鎖的な風景が書かれ、中程からは名指しこそないもののチャウチェスク政権の監視社会になります。毎日工場に通う時、独裁者の像に礼をしたり、誰が秘密警察やその共謀者かも分からない状態で日々勤めているのですね、後半は本当に今に繋がるチャウチェスク・チルドレンへの予兆のような感じですが、この『澱み』の前半の少女時代の話では非常に暗く湿った寒々しい腐った果実のような臭気がプンプンとさせられます。今の私たちのようにこんなに好きに読書も出来ず、思想の自由も無く……といった生活からは足の爪先から寒気がおどろおどろと昇ってくるようです」
なんとなく温い川の水が冷たくなってきた感じがする。
「ま、今日はこのぐらいにしておきましょう。ちょっと今日は方向性の違ったアプローチで冷たくなる話をしましたが、これだと私たちが溶けるか干からびてしまいますからね!」
「うん、そうしましょ! わたしもノーベル賞作家をまた一人攻略してしまったようだしね……ふっ」
「クワッ!」
「ごめん、ごめん! あちっあつつつあっつい熱い!」
「熱いです! 詩織さんお姫様抱っこして!」
パシャパシャと足先から跳ねる水がコンクリートの上に飛び散り一瞬で乾いていく。
逃げ水のように陽炎がモヤモヤ栞の輪郭を歪めている。
暑いんだか寒いんだか分からなくなってきたけれど、今度はわたしがスポーツドリンクを用意して栞と飲もうかなと思った。
まあ暑いのはごめんなんだけれども!
イラスト提供:
赤井きつね/QZO。様
https://twitter.com/QZO_
全部のノーベル賞受賞者の作品で使用している訳ではないのですが細かい部分はサブテクストとして
橋本陽介『ノーベル文学賞を読む ガルシア=マルケスからカズオ・イシグロまで』(角川選書)
を一部参考にしています。
余談ですが当家にある殆どの氏のご著書に橋本先生の署名を頂きました、へへっ。
ただの自慢です。
まだそれなりに読み込んだ本のストックはあるのですが(その割には更新遅いので申し訳ありませんが)
一人一作品のみで掲載するという縛りをしていたのですが、あっこれ無理かもしらん……。
となったのですが、30話も越えて来たので、これからどうしようが悩んでおりますが、どうですかね?
個人の愚痴みたいなもんなので気が向いたらコメント頂けるとありがたいです。
それではまた次のお話で。




