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028呉明益『歩道橋の魔術師』

約一ヶ月ぶりです、こんにちは。

 あれはそろそろ自粛解除という頃だったと思う。山積みの宿題は栞が小うるさくいうもので、強制勉強会がオンラインで開かれていたというだけの事で、自分でも驚くほどこなしていた。


 栞曰く「詩織さんは頭がいいのだから当然です。ただちょっとばかり怠惰が過ぎるというだけで、管理してくれる人が居れば……」といっていた。


 褒められてるのかなこれ?


「じゃあ生活の管理して貰うために栞にお婿に来て貰わないとね、あははー」


 などと冗談を言ったら、顔を真っ赤にして狼狽えるので、こちらも狼狽えに感染する。画面越しにあわあわいっていると、眼鏡が半分ずり落ちた面白い顔で。


「私は、お婿じゃなくて、お嫁さんになりたいです!」


 とか何とか訳の分からないことを叫びだしたので、もう死ぬほど恥ずかしくなって、なんだかお互い照れ隠しの笑いが止まらなくなってしまった。


 と、いった所で「本日の栞さん」お開きにしたいと参ります。

 ありがとうございました。


「いや、勉強が終わったら読書感想会しようねって約束でしたよね?」


 ずり落ちかけていた厚ぼったい眼鏡を、顔の真ん中の定位置に戻しつつ、今さっきの狼狽えから、一瞬にして冷静な真顔になり、その眼鏡の中の瞳がこちらからは逆光でよく見えなかったものの、射殺すような視線がビシビシと出ているのに気づき、萎縮してしまい、ただただ「はい……」というだけしか出来なかった。


「で、お貸しした本は読み終わったんですか?」


 急にいつも通りの穏やかな通りのいい声で尋ねてくる。


「あ、はいはい。今回はかなり読み込んだと思いますよ栞さん」


「『さん』を付けないでください!」


「あはは、そうでした」


 パソコンのカメラに向かって細長く白い指を突きつけてくる。


「えーと、これね呉明益『歩道橋の魔術師』台湾の作家さんなんだってね、初めて台湾の作家とか読んだ気がする」


「多分じゃなくて本当に初めてかと思いますよ」


「へぇーそうなんだ」


「最初は中国の中の一省の台湾と紹介されるところを『台湾の作家』と単独でクレジットして貰って日本に感謝的なことを言っていたのですが、まあこれは娯楽作品なので政治の話は抜きにしましょう」


「話の腰折って悪いけれど、逆に政治がどうこうって話するのはどういうときなの?」


「以前お見せしたラテン・アメリカの作家は政治的背景にまで切り込まないと駄目ですね。全部が全部そういうわけではないですが、九十年代ぐらいまでの作品は主に軍事独裁政権や反政府ゲリラ、スペインの襲来や欧米諸国の侵攻なんかの血塗られた過去を、マジック・リアリズムという技法で書き出した作品が多いですからね」


「ああ、確かガルシア=マルケスの『百年の孤独』とか紹介して貰った時に聞いた覚えがある」


「ですです。覚えてくれていて嬉しいです」


 と、ぱぁっと花が咲いたように無邪気で和やかな笑顔を浮かばせ彼女は嬉しそうにしている。

 駄目だ、なんか話の細かい部分が思い出せなくなっていたけれどあの笑顔は裏切れない……。


「ああ、覚えて無くても気にしないでください。また一緒に読書会を開いて『百年の孤独』の他にも色んな作品読みましょう」


 見透かされていた上で、この笑顔だったのか……。

 怖いぜ栞さん……。


「さん付けはなしですよ」


「はい……あれ、わたし今?」


「気にしないでください」


 今何か重大な思考の漏出があった気がするけれど、まあ気のせい……か?


「で、本題に戻しましょう。この呉明益という作家は今のところ日本で他に出ている著書は『自転車泥棒』という、ちょっと分厚めの作品だけですが、出版順に読めばそれでいいですね。因みに台湾でも当然ですが『歩道橋』は大ヒットで漫画化もされていて、今年に入ってすぐ出版されたようです」


「あーだったら漫画読んだ方が早く分かったかも……」


「詩織さん……」


「あっ、はい……」


 心底呆れたような感じで見られてしまい狼狽えましたよ、わたしは。

 兎にも角にも、ちゃんと読んだ本なので、たまにはわたしからどんな感じだったのかをお伝えせねばなりますまい。


「あれだよね、歩道橋の上で手品して、手品商品を子供に売っている魔術師が、たまに本当の魔法を使って奇跡を起こす。その場面を見ていた、そこに住む子供達の十の短編で感じのまとめでどうでしょうか?」


「そうですね、連作短編でキーとなるのはタイトル通りに歩道橋の上で商売をしている魔術師なんですが、なんだかとてもノスタルジーに溢れる作品なんですよね。台湾文学という非常に狭い分野の研究者だった天野健太郎先生の訳も光ります」


「だったって?」


「ああ、残念なことに本邦二作目の作品となる『自転車泥棒』が発売される頃に四十七歳でお亡くなりになっています。膵臓癌だったそうで……」


「ああ、まだ若かったんだね……」


「気を取り直して、十種類の作品の中だとどれが好みでした?」


「うーんと、これこの最後の話『レインツリーの魔術師』!」


 やっぱりといって下唇のあたりを押さえて栞がくつくつと笑う。


「一番短いから……というのと、余り悲しい話でもなかったからですね?」


「うん、そうそう。あと冒頭から来た色んな話がグッと収束する感じでもの凄いスカッとした!」


「中華商場という私たちが生まれる前には確かに存在していた所と、それを繋ぐ蜘蛛の目のような歩道橋。日本企業の名前が出たりして行ったこともないし、体験したこともない昔の貧しい描写ながらもノスタルジーを覚えるのは何ででしょうかね?」


「栞が分からないのにわたしが分かるわけ無いじゃん!」


「いえ、詩織さんの視点ならばもしかしたら分かるんじゃないかなって、本気で思っているんですよ私は。みんながみんな同じ感想を抱くのは余り健全ではないと思います」


「んー買いかぶりだと思うけれど、例えばテレビとかで昔の風景とか出たりするじゃん。上海の九龍城とか、戦時中の再現ドラマとか、あとは単純にネットでもむかーしのテレビとか見られるし、なんかSFっぽいけれどそういうのがなんとなく脳味噌にこびり付いて擬似的な体験をさせられているようなっていうのかな、バーチャルなんとかみたいな感じでさ。わたしはあんまり頭良くないからそこまで詳しく言葉に出来ないけれど……」


 そうですね……。


 栞はそういうと、画面の端からノートを取り出してきて「まずは文芸部では短編を書くことにしましょう」などといいだし藪蛇を突っついた感じがした……。


「えーと……何書けばいいかな……文学とかわたし全然分からないんだけれど……。この本だって面白かったけれど、わたしには難しかったし」


「『歩道橋の魔術師』は過去を振り返る実体験を思い出す体裁のファンタジーでもありますが、ここ数年の流れでは、そういうファンタジーもSFにカテゴライズしたりするようです。まあSFが何の略かとかそういうのは面倒くさい人が出てくるのでいったん置いておいて、私が私なりにSFかなと思う掌編小説を書いてみたので読んでみてください」


「栞がSFとか意外すぎる……」


「偏見ですよ。私は割と雑食ですし、ノーベル賞受賞者の作品ではカズオ・イシグロの日本でも日本人キャストでドラマ化された『わたしを離さないで』とかありますしね。作家や権威の話していてもSFって割と何でも言った者勝ちといった感じはあります」


「SFってノーベル賞取れるんだ?」


「ノーベル賞は前にもどこかで言った記憶がありますが、作品じゃなくて受賞者の全般的な活躍に対して贈られるものですから……まあ読んでみてください」


 ピコンと音が鳴ってメールが画面越しなのに目の前にいる栞からメールが届いた。これはこれで昔の人からすればSFなのかもしれない……。

 添付ファイルを開いてみるとそこそこの文章が書き連ねてあった。


「わ、私も恥ずかしいので早めに読んでください!」


 いつものお得意の、赤面症が出ている。

 ふふふ、こういう時のわたしは強い。

 まあなんだかんだで栞に引っ張られて自滅することもあるんですが……。


 ということでファイルを開く。


━━━━━━━━

東風栞

習作№.2

━━━━━━━━

 やあ、久しぶりだね。こうして君と二人で会うのはいつぶりだったかな。まあいつまでも立っていないで座りなよ、長い付き合いだろ?


 確かに君との年の差っていうのはかなりあるね、でも僕は君の事を対等な友人として見ているし、お互いに敬意を払うべき存在だと思っているよ。


 この年になってくると同い年の友人が出来るって事はまず無くって、さらに君みたいな年若い青春の中にいる存在と対等に話せるっていうのは価千金、いや小せえ小せえ、価万金ってなもんなのさ。ん、意味がよく分からないって? まあ流してやってくれ、僕が恥ずかしくなるからね。滑った台詞の説明ほど恥ずかしいものは無いって事さ。


 君とは色々な議論を交わしてきたね。もちろん年の差っていう埋めがたい時間の差はあるから僕の方が知識の蓄積量って意味じゃ、君の方が聞き手に回ることの方が多かったね。


 でも、若い感性っていうのかな。僕のようにシリコンのようなカチコチの頭で吐き出した0と1の信号の塊みたいなただ単に無謬と冷静さだけを求めた機械的答えだけで無くて、君の口から出た言葉は論理性に欠けたりもしたし、単なる理想論というかロマンチックで何か美味しいけれど栄養のない甘いお菓子に過ぎないという気にもなったけれど、甘いお菓子だけにカロリーは本当に凄かった。


 そんな不満げな顔をしないでくれよ。カロリーってのは熱量だ。それだけの熱量を出せるのは青春の時期にある存在の特権だ。人生の終わるその日まで熱量を保ち続けられるのなんて殆ど歴史に名を残した連中ばかりさ。そういう歴史に今名前を刻んでいる真っ只中の君の幼げを残す熱い語り口には無理矢理納得させられそうだったりして、我ながら感傷的になり過ぎているとも思ったりしたわけさ。


 恥ずかしがるなよ、そう堅くならないでさ。長い付き合いっだって最初にもいったじゃないか。君の提出する答案は毎回ちょっぴりエキセントリックに過ぎて想定平均点に未到達ってな事も確かにあったさ、それが僕みたいな冷たいヤツからすると新たな知見が得られたり、考え方に変化をもたらされたりと、正攻法でゴリ押しして確実な回答を得る、型にはまった優等生タイプにとっては、迂回路や路地裏を駆使していきなりK2東側ルートを魔法のように攻略するように見えるんだ。


 ん、例えがよく分からないって?


 すまないすまない、じゃあ僕の場合は超正統派の楕円曲線やモジュラー形式を駆使して谷山=志村予想にアタックしてフェルマーの最終定理を解決したワイルズ博士ら対して、君の場合は従来考えられてきたトポロジーのフレームからぴょいと飛び出してきてリッチ・フローやエントロピーだのカオスだの物理学を駆使してサーストンの幾何化予想、つまり系であるポアンカレ予想を解決した数学史史上最もトリッキーなペレリマン博士のようだったねって事さ。


 えっ、余計分からないって?


 そうだね、僕は君と反対に答えを出すため最短距離を走る割には目の前に迂回路があるのに山だの海だのを無駄に突き進んでいく迂遠なところがあるね。


 シンプルに一言で言うなら君はユニークってことさ、変わり者とも言えるかな、ハハこれ

は冗談だよ。最初からそういってくれとはあたりが強いな、緊張も解れたって事かな?


 さて、下らない議論から真面目な議論まで色々してきたね。僕が一番下らないって思いながらアツくなったのは、インパクトのある名前の有名人は誰だってヤツかな。


 君がいくつか提示した中ではクナッパーツブッシュが最強だったね、僕は確かスウィンナートン=ダイアーを出したけれど結局引き分けて、最後に僕がメタポントゥムのヒッパソスを出してゴリ押ししたかな、まあ強引に過ぎるという君の意見は確かにもっともかなと思ったけれど、僕は君と純粋に勝ち負けを決めるゲームがしたかったのさ。ま、抽象的な戦いだからいったもん勝ちなふわふわ裁定だったけれどね。


 真面目な話だと意識の生まれる場所、量子もつれだとかエンタングルだとか君には少し難

しい議論もしたね。


 ま、堅い話が続いても退屈だろうからさ、この辺にしておくけれど、今日君に伝えたいのは、僕がそろそろ次の星に行かなければならないって事なんだ。


 ここは居心地が良すぎてちょっと長居しすぎたかな。君みたいな友人が出来たのも嬉しい誤算だったよ。まあ君との年の差ってのも本当にかけ離れているんだよね。


 星間飛行は本当に本当に時間が掛かるんだ、次の星に着くまでに君の肉体は滅んで、僕の頭の中のシリコン製のストレージに保管されているだけの存在になっているかもしれない。そもそも文明がそこまで残っているのかも分からないってくらい先の話さ。僕は片道切符の一人旅だから君の子孫に会うことも出来ないんだ、断言するよ、うん。


 泣かないでいてくれるのはありがたいね、僕も別れるのは寂しいんだ。例え0と1の信号だけで感情的な揺らぎもなくただ単に答えだけをアウトプットするようなヤツだとしても、何かこう人間的なことをいうと、ワクワクしたんだね。君の熱気に当てられたのさ。


 さて、そろそろ出発しようか。金属製の体だとはいっても、あまり名残惜しむと尻に根っこが生えてしまうよ。


 ああ、そうそう。君は僕のことをずっと先生と呼んでくれていたね。別れ際にぐらい名乗らないとね。


 私の名はボイジャー。辺境の銀河の小さな星から宇宙の中心を目指し永遠の孤独の中を旅する者。


(了)

━━━━━━━━━━━━━━━━


「ど……どうですか?」


「ごめん、なんか難しくて良く分からない……と思う……気が?」


 栞はフーッと息を吐いて、文芸部も難しいものですねなんて天井を仰ぎながら呟いていた。

「でも、ほら、さ。わたしには書けないからこう言うのは!」


 なんだか高そうな椅子に背をもたげて天井を仰いでいた栞が、バネのようにガッと勢い付けて起き上がり……その勢いで分厚い、そりゃもう厚ぼったいフレームの眼鏡がすっ飛び、なんか眼鏡捜索初めて一息つくと。


「じゃあ今度は、今度こそは詩織さんの番ですね!」


「あ、いや。あの……その……」


「楽しみに待っています!」


「う、うーん……」


「あ、ところで宿題は終わる目処建ちました?」


「あー栞と一緒に勉強した所までは、うん終わっているよ」


「あっ、もしかして自主学習してなかったんですか?」


「あれ、一緒に最後までやってくれるんじゃなかったの?」


「そのつもりですが私に甘えすぎです。てっきりもう終わらせて後は雑談しながら答え合わせとかだと思っていたのに……」


「……すいません」


「まぁ甘えてくれるのはちょっと嬉しいんですけれども……」


「え、何?」


「いや、何でもありません……。そろそろ食事なのでまた明日にでも。ちゃんと終わらせておいてくださいね!」


「ふぁい」


 栞がそそくさとカメラを切るが、もしかしてわたしに甘えられたいみたいなこと言われたのだろうかと考えるとちょっと眠れなくなりそうな気がしてきた。


 その後滅茶苦茶寝た。

 宿題は一ミリも進まず栞にまた怒られた……。


挿絵(By みてみん)

イラスト提供:

赤井きつね/QZO。様

https://twitter.com/QZO_

コロナで何か忙しすぎる、商売繁昌だ!

と思ったら急転直下コロナで結局雇い止め!

どうなる自分、急に暇になったぞ、でお送りします。

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