023木原善彦『実験する小説たち~物語るとは別の仕方で~』
「えーでは物語論、つまりナラトロジーの基礎を私の分かる範囲でご説明しました。私も少し疲れたので続きはまた後ほど」
「……ハイ」
あまりにも情報を詰め込まれたので頭がクランクランする。
くらくらしている理由はそれだけでは無いと思うのだが、まあよし。
「これから詩織さんにお勧めする本は、私が言ったことを実作をサンプルにして網羅的に紹介している本です」
本のこととなると無限の体力と饒舌さを叩き出すのがこの「東風栞」という文学少女なのだ。付き合うにもじっくりとした忍耐が必要だが、まあなんだかんだでこういう状況を楽しんでいるわたしがいる。
当然だけれど知らない本や話がバシバシ出てきて楽しい。
本なんて教科書とか漫画ぐらいしか読まなかったけれど、自分がこんなに本を読むようになったのはなかなか楽しい体験だったりする、と思う。
「ではご紹介、ピンチョン研究やウィリアム・ギャディス翻訳などで有名な阪大の木原善彦先生の『実験する小説たち~物語るとは別の仕方で~』です」
「実験? 小説でなんか実験なんてあるの? 実験的意欲作! みたいな帯は確かに見かけるような気もするけれど……」
「簡単に言うと、文章が持つ潜在的形式に疑義を投げ込むこと、というところですかね」
「分からん」
「分からせてあげます」
にやりと口角を上げる。
ちょっと怖い。
「例えばメタフィクションって言葉はご存じですよね?」
「ああ、それならあんまり定義みたいなのは分からないけれど聞いたことあるかな」
「初めてメタフィクションという仕掛けを使った典型とされるのはローレンス・スターン『トリストラム・シャンディー』という作品です。もっと古典的な作品にも見られるのですが、十八世紀に書かれたこちらも古い作品で、もうやりたい放題です。日本に初めて紹介したのは夏目漱石ですかね。メタフィクションというのは、作中に作者が出てきたり、これは小説なのにとか、読者に向けてこれが虚構の作品であることを示す表現ですね。日本だと筒井康隆の十八番ですかね」
「あーそういうのなんか読んだことある!」
「ここら辺は入門編ですね、と、一つずつ解説していくと詩織さんは本を読んでくれなくなりそうなのでこの辺にしておきますが……」
「チッ!」
「……何か?」
「ハイ、ハヤクソノホンガヨミタイデス」
「よろしい、まあ押しつけになるのは私としても遺憾なところなので、興味持っていただいて自発的に読んでほしいところなので、面白そうな紹介を紹介します。ん? なんだか妙な表現ですね、まあいいか」
「面白そうなら入りやすいかもー」
「では、以前に読んでいただいた円城塔の『これはペンです』を例にとってみます。読んだことのある作家なら親しみやすいのではないでしょうか」
「なるべく簡単にお願いします」
「叔父さんと姪の話で、姪が主人公なのですが、叔父さんは手紙の中でしか現れないんです。冒頭で紹介されるように叔父さんは文字通り文字なのですね、この時点で何かワクワクとさせられます。例えば叔父さんは電子顕微鏡でないと見ることが出来ないほど小さい分子で出来た手紙や、塩基配列で書かれた手紙などを、世界中の様々な場所。それこそガラパゴス諸島や、中国の奥地などから次々に送ってくるのですね、ここで問題になるのは叔父が何者なのかということです。姪が分かることは手紙が届くこと自体が叔父の存在証明になっているだけで、人間ではなく軍事用のAIだったり、猿がタイプライターを適当に打ち続けて出来た文章かもしれないということです。これ以上はネタバレになりますので終わりにしますが百ページもないし、SFとしても良く出来ていて芥川賞の候補にもなっています」
「ほーん、凝った事するのねっていうか良く思いつくなあー」
「じゃ次行きましょう」
「忙しいなあ」
「では図書室の施錠の時間も来てますし、喫茶店でも行きますか」
と、いうことでてくてく歩いている間にもあーだこうだと色々語らってくる。
こういうときの栞は本当に生き生きとしているというか、特有の早口になる。
行きつけの喫茶店で珈琲など啜りながら談じ込む。
「あとはそうですね、ウリポは避けて通れませんね、潜在的文学工房というのですがリヨネーという数学者が六十年に発起人となって立ち上げたグループで、レーモン・クノーやレーモン・ルーセル、それにシュルレアリスムの大御所アルフレッド・ジャリなどを理想としています。因みにウリポに対して、漫画の実験作品はウバポといいます」
「なんか変な響きだね」
「内容はもっと変ですよ、ウォルター・アビッシュ『アフリカ式のアルファベット』は最初の章で、すべての単語をAから始めます、次の章ではAとBから始まり、次はABCで……と使える単語が増えていきます、アルファベットを使い切ると今度は逆に使える単語が減っていき、最後はコンマを用いない単語の羅列が続きます。私の英語力では理解するのは無理ですし、筒井康隆も、ここまで来ると意味が分からないなんて仰っているのですが、凄いには凄いのは間違いありません。この文字が消えていくというのはリポグラムと呼ばれます。先ほどの筒井御大も『残像に口紅を』という作品で用いてますね。単行本が初めて出たときには、途中から袋とじになっていて、内容に納得できなかったりつまらなかったら袋とじ破っていなければ書店に持って行けば返金するよなんて書いてあったらしいです。今は袋とじはありません。またジョルジュ・ペレック『湮滅』はフランス語で最も使われる"e"という文字を一切使わずに書かれています。これを受けて塩塚秀一郎は『い段』を用いず訳しきるという曲芸をやってのけます」
「『い段』? ってどういう?」
「いきしちに。ですよ」
「そんなことが出来るの?」
「出来たんですよね、それが。エドガー・アラン・ポーの『黄金虫』で英語で一番使われる文字は"e"である。というトリビアが推理の鍵として披露されるのですが、それに対して、じゃあ"e"を使わず書いてやろうとしたのがアーネスト・ヴィンセント・ライトで『ギャズビー━━━━━━Eの文字を一度も使わない五万語以上の物語』は『隠滅』にインスピレーションを与えた作品で、周りからは不可能だと散々言われたのを力にして書き上げた怪作です。もう訳分からんということでどこの出版社にも相手にされず、自費出版したけれどあまり振るわなかったようです」
「かわいそう……」
「今はパブリックドメインになっているのでただで読むことが出来ます」
「へー翻訳はあるの?」
栞が悲しげな顔をして首を振る。
「わたし、英語、出来ない」
「やらないだけで詩織さんは出来るはずですよ」
今度はわたしが悲しい顔をして首を振る。
わたしが知恵熱を発して来たのを察してか、栞は本を差し出して、十七章で一章ずつ話題も違うし、図版も多いから読むのもそんなに重くないといって「小説やその他本の楽しみは色々です。ガイドブックのような物を読むのも楽しいですよ」などといってくる。
二杯目のアールグレイで眼鏡を曇らせてはキュッキュッとレンズを拭きながら、ハフハフと飲んでいる。
「栞は何でそんなに本ばかり読んでいるの?」
うーんと、小首をかしげながら、憧れですかね?
と答える。
「いえ、父も祖父も本代は惜しまず何でも読めといわれ続けていて、当然私もいわれるわけですよね、なのでお小遣いは、こうして詩織さんとたまにお茶をするぐらいしかもらっていないのですが、本代はちゃんと読んだ事を証明すれば結構な金額出してくれるのですよね。そもそも昔からの蔵書も多いのでそこら辺も読んでいるのですが、めくるめく本の世界は楽しいものです。そうしていると今度はもっと深く知ろうと思って歴史や今お渡しした実験的な作品のガイドブックなんかも読みたくなってくるのです」
「読書の連鎖だね、わたしはちょっと真似できないなあ、まあそれでそれで」
ちょっと恥ずかしそうに窓の外に視線を移しながら、こういう。
「自分でも書いてみたくなるんですよね。それも圧倒的な傑作を」
「うわ、凄いじゃん! 今度読ませてよ」
「それがどうにもつまらない物にしかならなくてですね、書いては消してを繰り返しているんです。小説家になりたいというわけではなくてあくまで何かしないといけないという行き場のない創作意欲を持て余しているんですよ。世間知らずなわたしですが、これが青春というものなのかモラトリアムの時代に許された力なのかは分からないんですけれど……まあ今は詩織さんとおしゃべりして一緒に本を読んでくれる人がいるだけで楽しいのですが」
上目遣いでこちらをのぞき見てくる。
「んーじゃあわたしも書いてみようかなあ、最高の小説!」
「えっ! 本当ですか!」
「えっ、いやなんとなく口をついて出ただけなんだけれど……」
「作りましょうよ、文芸部! 別に学校に認められなくても元手はとくにいらないんですから、二人だけの秘密の部活です……」
身を乗り出してきて、秘密のというところで耳に暖かい息をふっと吹きかけてくる。
思わずひゃいん! などとアホ丸出しの声を上げる。
「わ、わたしは無理だよ! 無理無理無理!」
「何事もやってみることが重要です! 挑戦しないことは自分に対する犯罪です!」
「でも本もあまり読んでいないのに、小説とかなんか書き物なんて……いや面白いかもしれないけれど」
「中国では木を植えるのに一番よいのが二十年前、その次にいいのが今というらしいです。わたしたちはまだ二十年も生きていません。木を植えるなら今です! 趣味の延長でも何かこの世に残せたらそれは凄い格好いいことだと思うんです」
「カッコいいかあ」
唐突に両肩をむんずと掴まれ鼻の頭がくっつくまで顔を近づけられる。
「やりましょう、文芸部。今まで通り本の話をしながらゆっくりとでいいですから」
アールグレイの香りのする息がわたしの口の中にそろりと入ってくる。
なんだか恥ずかしくて息を止めたけれど、息が上がってブハーと逆に結構な勢いで彼女の口に溜めた息を吐き出してしまうのだが、そんなことはこういう時の栞が気にすることはないというのが今までの行動から得たわたしなりの知見である。
一人でぽっぽぽっぽと顔を赤らめながらわたしは首を縦に振るしかなかった。
「文芸部誕生ですね!」
こういう時の栞の笑顔はいつも眩しくて仕方ない、わたしはどこへ向かって行くのだろうか?
イラスト提供:
赤井きつね/QZO。様
https://twitter.com/QZO_
次回
內田百閒
『冥土・旅順入城式』
※現在の状況について
そろそろ何の本選ぶか迷いはじめていたため、当初予定していた『ねじの回転』から別な本に変更しました。
どれぐらいの方が見ているのか分かりませんが、無駄足踏ませてしまうのも申し訳無いので
もう少し早めに更新するように心がけます。
ただの自己満足ですが今のところ一度使った作者は使わない縛りを科していますけれど、ちょっと苦しくなって参りました。
とすると筒井康隆ばっかりになってしまうのですがどうなんじゃろうか……。
そんなこんなでお見苦しい後書きですが、今後ともよろしくお願いいたします。




