019鴨長明『方丈記』
『方丈記』中世日本随筆の中でも最も美しい序文をなす。
清少納言『枕草子』(平安期)
鴨長明『方丈記』(鎌倉期)
兼好法師『津徒然草』(鎌倉期)
あまりの序文の美しさに圧倒されて、続きの中身を知る人は意外と少ない。
鴨長明は僧籍を得た後、恐らく維摩経に傾倒し大乗仏教に深く浸透していった者と思われる。
角川ソフィア版の方が学術的なことを知りたいのならよいが
娯楽、教養として読むならば光文社古典新訳の方があっさり読めるので
初読者には後者を薦める。
「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは……あー忘れた!」
「はい残念でした、私の勝ちですね」
何のことはない、例によって国語の授業で習ったときに、教科書に載っていた序文を完全に覚えきったので、と少なくともそのときは思い、完璧の上に完璧を期して授業中読み込んで、栞に「完璧に言えたら甘い物おごりたまえ」と戦いを挑んだのだが無謀だった。
「あー悔しい!」
「淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとしたましき都のうちに……」
「ああもういいです! 私の負けです! 本当に勘弁してください! 調子に乗っていました!」
何の用意もしていないのにこうもさらさらと続けられると惨めになる。
なんでこんな勝負を挑んだのか、もう馬鹿らしくって、衆人環視の中、裸になってプールにでも飛び込んでやろうかと思ってしまっていた。
いや、乙女を自称するわたしがそんなことをしたら後悔に後悔を重ねた上に自死するしかないと悟る。
悟るまでもなく馬鹿の考えなんとやらである。
「さて、詩織さんはどんな甘味をおごってくれるのかなあー楽しみだなあー」
「栞さん手加減してくださいっす、貧乏なので……」
「最初からそんな期待していませんよ。コンビニのケーキでいいです。そういえばコンビニに行くのも久しぶりだし、コンビニのケーキなんて本当に初めてですね」
「うわ出た、お嬢様発言! どうせわたしは喫茶店になんて栞お嬢様に連れて行っていただいたことが何度かあるだけですよ!」
「あ、急においしいお店のモンブランかシャインマスカットたっぷり使った……」
「あ、いえすいません。おコンビニにお連れいたします」
「素直でよろしい」
栞は時々意地悪になる。
コンビニのイートインで『方丈記』の話になる。
「あの出だしかっこいいよね、意味もなんか儚くてさ、本とか栞に言われたときにしか読まない私でも気になる」
「『方丈記』『風姿花伝』『平家物語』辺りは中世日本文学の頂点ですからね。ここで詩織さんに朗報です。『方丈記』は四百字詰めの原稿用紙で何枚分でしょうか?」
「えー、全く分かりません。とはいう物のそこまで言うのなら五十枚ぐらい?」
「実は二十~二十一枚ぐらいなんですね、多分注釈とか現代語訳入れてやっと五十枚超える程度かと」
「たったのそれだけなの?」
「私は角川ソフィア版の方が好きなんですが、初めて読むなら光文社古典新訳版ですかね、はいどうぞ」
毎回なぜか話題の本を持っている。
いつも私から本の話題を切り出しているのにどういうこっちゃと思わずにはいられないものである。
やはりエスパーなのだろうか?
「エスパーじゃないですよ、国語の授業で始まったとこらへんで当たりをつけて持ってきている場合がほとんどです」
「なるほどなあ、あれ今?」
「気にしない!」
眉間の間を白くて細くて本をめくる以外のことをしたことがなさそうな人差し指でツンとつつかれた。
「『方丈記』は先ほどあげた作品の中でも特に序段が美しい。美しいが上に中盤以降が忘れられた不遇な作品でもあります」
「えーと、教科書では、川の流れに浮かぶ泡みたいに人間の人生パチンとはじけるってお話だったよね。あと都に高い建物を作っても人が減ってしまって小さい家になるとかそんなかんじの話だったかな……」
「まあ授業で習う理解の範囲としてはそんな物でしょうね。今回は古文としてではなく、中世日本で起きた災害のレポートと仏教信仰という点について語って見ましょうか」
「おー」パチパチと拍手する。
「ちょっと詩織さん、目立って恥ずかしいじゃないですか!」
「ぼーっとしている店員さんがいるだけじゃない、まぁいいからいいから教えてよ」
「もー……鴨長明は賀茂社の跡継ぎとして生まれます。わかりやすくいうと京都の下鴨神社ですね、父親は賀社のトップで、当然跡継ぎ候補の一人だったのですが、十八の時に父である鴨長継が亡くなります。当時は親の力が何よりも強く、もう鴨社を継ぐことが出来ないと絶望します。そうして神社の仕事を怠り和歌や琵琶の修練に励みます。ここまでの間に最初の部分で中世の五大災害といわれる、大火、大地震、大水……これは地震の時に琵琶湖が氾濫したものだそうです。そして辻風に福原京への遷都の五つなんですね、ここの部分はテレビのアナウンサーのような災害リポートのように淡々と語られていき、最後に一言自分の考えを添える。ここまでで丁度半分なんですね、そして先ほど話した権力闘争については特に触れられず、和歌と琵琶の修練に励みつつ、その和歌の腕から後鳥羽院にスカウトされて和歌寄人として働くのですが、家にも帰らず昼夜無く働いたそうです。その頃になると後鳥羽院からの覚え芳しく、河合社、つまり糺すの社ですね、賀茂社の系列で、そこから賀茂社の神職を得ることが出来る立場です」
「人生大逆転じゃん!」
「しかし、賀茂社のライバルによって、昔の無気力な勤務について攻撃され、話は立ち消えになりました。後鳥羽院は鴨長明のことをかなりお気に入りだったので再三止めたのですが、すべてを捨てて方丈の庵を作りそこに隠棲します」
「方丈ってなんなん?」
「そうですね、両腕を広げてそこそこ余裕のある程度の広さですかね」
栞が両手を広げてふらふら揺らす。
「そのあと和歌の師匠を求めている源実朝の元に行き、大いに話は盛り上がったそうですが、結果については書かれていません。まあそういうことなんですね」
「うわー厳しい」
「失意の中、都市部に住む人はいつ家が潰れるか、大きな災害や、疫病が流行るかも分からないし、そんな中、朝から晩まで働くのはどんなもんかといい、自分はボロ家だけれど解体して牛に引かせればどこまでも逃げていくことが出来る。最初百の広さがあった家は十分の一になり、今では更に十分の一になったけれど、極楽往生するためには執着心を捨てることといって今でいう断捨離をします」
「何もなくなってどうするの?」
「山奥に住む近所の子供達と、野草や果物をとって生活していきます。自分はもう五十路を過ぎ、子供はまだ十にも満たないけれど本当の友情が芽生えているといっています。また和歌や琵琶などを弾いて一人で楽しんでおり、下手でも自分の心が満足ならそれでいいといっていたのですが、和歌については先ほどの通りプロ編集していましたし、琵琶の方も師匠にその技の見事さを気に入られ、例外中の例外として一子相伝の秘曲『啄木』なんかを教えてもらったりと、当時最大の文化人でしたね」
「やるじゃんチョーメー」
「まあそんなこんなで煩悩を捨てて南無阿弥陀仏を唱えているのですが、最後に自分の生活を振り返りなんだかんだで満足しているし、日々の楽しみもなくはない。南無阿弥陀仏を唱えていてもこの方丈の庵に完全に満足しきっている、これで煩悩を捨てたと言えるのか? まあとりあえず、南無阿弥陀仏、と名号を唱えたところで話は終わっています」
「へー凄いジェットコースターみたいな人生送っているおじいさんなんだね」
「中世日本三大随筆は分かりますか?」
「えっ! えーとまずは『方丈記』でしょ……あとは後は何だろう」
「まあ三大随筆といわれてないかもしれないですが清少納言『枕草子』それから兼好法師『徒然草』ですね。今回は話の解説ばかりであまり豆知識的な楽しみ方を提示できませんでしたが……つまらなかったですか?」
アールグレイなんてしゃれた物を飲みながら上目遣いに聞いてくる。
「いや、たまにはそう言うのも楽しいと思うよ。うん栞が語っているところ見ているとわたしも頭よくなった感じがするし
そう言うのも好きだよ」
「よかったあ! つまらない話だと思われると『方丈記』大好きなのでつまらないと思われたらどうしようかと……。後自分ちょっと喋りすぎたかなって……」
「あーそれはちょっとあったかも」
「詩織さんは意地悪です」
ぷくーって頬を膨らましてそっぽを向く。
わたしはテーブルの上に身を乗り出し膨らんだ頬をつい突いてしまった。
ひゅぅと間の抜けた音がして、栞の眼鏡がずれる。
「詩織さん!」
「あははは、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
イラスト提供:
赤井きつね/QZO。様
https://twitter.com/QZO_
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