015オーギュスト・ヴィリエ・ド・リラダン『未来のイヴ』
斉藤磯雄訳と光文社版を底本といたしました。
斉藤訳は格調高い日本語ですが、娯楽として読むには
光文社版の方が良いように思えます。
読書の秋というやつらしくて、図書室で栞がポップを作っていた。
「読書週間とかネットに書いてあったけどさあ、図書室に来る奴なんて本当に増えるの?」
栞は若干苦い笑みを浮かべると。
「正直、なんとなく増えるんですが、国語や社会の先生とかがたまに授業の資料を探しに来る頻度が増えるぐらいですね。あ、あと朝の十五分読書活動が始まるとかでそれで何か薄い本をと探しに来る人が最近少し……といったところです」
「朝の読書活動かあ、あったねそんな話」
「あったねじゃありません! 授業の時間も少し削っているんですからちゃんと取り組んでください!」
栞がツーンとして仰け反る。
あ、なんかかわいい。ということで悪戯でもしようかと思ったが、烈火のごとく怒られても後で面倒なので頭の後ろに手を組んで、栞の強調された胸から目をそらす。
どんな見た目か感想は私だけのものなので誰にも絶対教えない、特に男子は目を潰す。
「んじゃああたしも他の連中より一歩先に出たいからなんか貸して、エンタメしてて文学っーて感じのがいいかなぁ」
「まあその気になってくれたので、許しますが……そうですね、光文社古典新訳から出た『未来のイヴ』とかどうでしょう?」
「へーどんな内容というか、ジャンルが分からない。最近の劇場アニメみたい」
「劇場アニメというのは少し合ってますね、昔、押井守という人が『未來のイヴ』モチーフにアニメ作っています。『イノセンス』というSFですね」
「へー『未来のイブ』って奴はSFなんだ、栞って意外とSFも読むんだね」
「面白いものにジャンルは関係ありませんよ。先ほどの『イノセンス』の下敷きになったのは斉藤磯雄先生という方の訳した旧仮名遣いの古い文章なので、なれるまで読むの難しいんですが、格調高くて私は好きです。ちなみにタイトルの「未来」の「来」の字が旧字の「來」という字ですね」
栞がやたらときれいな字で「未來」と書く。
「新しい訳は、みんなが使っている「未来」ですね、読み口も軽くてSFの古典読みたい人にはお勧めです。初めてアンドロイドという概念を作り出した作品ですね」
「作者はなんていう人?」
栞が眼鏡を光らせてにやりと笑うと「ジャン=マリ=マティアス=フィリップ=オーギュスト=ド=ヴィリエド=リラダン伯爵です」
「何そのピカソみたいな名前……」
「ボクシングのスパーリングのアルバイトをするほどまでに困窮していましたが、それでも伯爵としての矜持は守っていたようで、この本を上梓します。家族も詩作と文章の天才だと信じており、ワーグナーやマラルメなどに激賞されています。まあここら辺は飛ばしましょう」
「難しそう……」
「古典新訳は非常に平易で読みやすいですよ!」
「じゃあそれにしようかな、たまにはSF読んでみたいし、何ページぐらいあるの?」
「えーと七百五十ページ程度ですかね……」
「『はらぺこあおむし』読むわ」
「ちょっと待って、待ってください。この東風栞おすすめの一冊なんです是非読んでください!」
図書カウンターから身を乗り出して私の脇腹のあたりを掴んでくる。
ちょっと栞さんんんんん恥ずかしい!そこもうちょっと上行くと、乙女の秘密が。
真っ赤になった顔が冷えるまで一呼吸二呼吸そっぽをむいて息を整える。
「まあ栞がそこまで言うなら、なんか読みたくなる豆知識ちょーだいよ」
「そうですねぇ……」唇の下に人差し指をやり、しばし考え込むと。
「筒井康隆って作家はご存じですか?」
「ご存じない……」
「『時をかける少女』」
「あっアニメで見た、あとドラマもやってたと思う」
「あれもう五十年以上前の作品ですが、未だに設定変えつつ映像化しているんですよね。日本SF御三家最後の生き残りの一人です」
「ふーん、でその人がどうしたの?」
「丸谷才一という人がいましてね、若い頃の筒井康隆が丸谷に『筒井さんは『未來のイヴ』読まれましたか?』って聞かれて、いや勉強不足でと答えたら。とんでもない阿呆を見る目で驚かれ「まあ作家には知性も教養も必要ないですからね……」と言われたという話があります。今読めば筒井康隆を超えることができますよ!」
なんか「詭弁」に近いものを感じるが、というか詭弁そのもの臭いが、読みやすくて面白くてエラい作家が若い頃とはいえ読んだことのない作品に手を出すのもいいかなーっと思い始めてみた。
「あらすじはどうなっているの?」
「面白いことに実在の人物が出てくるんですよ」
「とはいってもわたしなんかが知らない人でしょー」
「メンロパークの魔術師ことトーマス・アルバ・エジソンです」
「エジソンってあのエジソン?」
「他に有名なエジソンは私は知らないので、そのエジソンさんで間違いではないかと」
「へーエジソンがアンドロイド作ったっていうおはなしなん?」
「話のバックボーンはそれですね。人類初のアンドロイド、彼女の名前は「ハダリー」ペルシャ語で「理想」という意味らしいですね、この頃の作家にはペルシャ語が流行っていたみたいでレーモン・ルーセルという作家も、特殊な溶液の中を呼吸なしで泳ぐ猫に「コンデクレン」と名付けていましたが、これもペルシャ語で「おもちゃ」とかそんな意味ですね」
「今空前のペルシャ語ブームが来ている……?」
「百年以上前ですよ、で、エジソンの恩人のロード・エウォルド卿という人が現実の女性の薄汚さに絶望して自殺する前にエジソンに会いに来るのです」
「女が薄汚いってわたしはそうかもしれないけれど、栞みたいな娘だったらそんなことにならなかったのにね」
何の気はなしに話を振ってみたら、あわあわいいだし。
「詩織さんも自分を卑下してはいけません! 私にとっては理想の女の子なんです!」
「ええーわたしがぁ?」
「先へ行きます! エウォルド卿が自殺を考えていることをエジソンにいうと、アンドロイド、ハダリーに婚約者で見た目も声も美しい精神性以外完璧な美女の、ミス・アリシアのコピーを取ってハダリーをアリシアにしてしまえばいいんじゃないかということを言い出します」
「SFだなあ……」
「まあその後は、どのように体が動いているかやメンテナンスの方法がずっと書き続けられ、なんだかんだでハダリーはミス・アリシアの完璧なコピーとなり、満足したエウォルド卿は船に棺のような箱にハダリー=アリシアを乗せてイギリスへ帰国することになるのですが……」
「満足生活?」
「最後の一、二ページで話はガッと変わります、まぁそこら辺はちゃんと読んでください」
「でた! 栞の読んでください攻撃! そんなん読めないよー」
「何のための朝の読書活動ですか! 自分でちゃんと読んだ先に楽しみや、驚き、感動があるんです。人に聞いた話だけで読んだ気になるのはよくないことです。それに『百聞は一見にしかず』ともいうでしょう。意味合いはちょっと違いますが、積み重ねが大切なんです。せっかく組み立てた七百五十ページの、パズルのピースの最後の一つを人の手に任せていいんですか?」
出た、熱血モード、私が完璧な図書委員と呼ぶ理由でもある。
「はあ、息が……ちょっと言い過ぎましたが、読書は強烈な読書体験をもたらし良くも悪くも読んだ人をどこか他の世界へ連れて行くんです。では『未来のイヴ』読みますね?」
正直断れる雰囲気ではない。ロボットだかアンドロイドみたいに。
「ハイ。ワカリマシタ」
と答えるのが精一杯だった。
うう、二百ページ以上の本なんて辞書ぐらいしか知らないよう。
と、内心すすり泣きながら、青いラインとよく分からない絵が描いてある本を胸に抱き図書室を去って行った。
栞に見られなかったのが幸いだが、なんか透明な鼻水がつつつーっと垂れてきた。
これは心の負った涙に違いない、泣きそうだけど栞との約束だし、わたしは読まなければならない。
それだけはちゃんと約束することにしよう。
栞は私の「ハダリー」なのだ。
イラスト提供:
赤井きつね/QZO。様
https://twitter.com/QZO_
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