010カフカ『変身』
カフカはプルーストやフォークナー、ガルシア=マルケスらと並ぶ
後世への影響が絶大な作家です『変身』は読みやすいのでおすすめいたします。
「ある朝、グレゴール・ザムザが不安な夢から目が覚めてみると……」
「カフカですか」
「うん、これなら薄いし私にも読めるかなって」
栞が逆光の中でにこりと笑うのが見えた。
「カフカは二十世紀の最も偉大な作家の一人ですね、後の世へ最も影響を与えた作家でもありますね、あとそれに比肩するのはジョイスぐらいじゃないでしょうか?」
「ジョイスってあの『フィネガンズ・ウェイク』とかいうの書いた人?」
「そうです。よくしってましたね」
「訳の分からない本ってネットで見たことあるから、それより栞はカフカも詳しいの?」
「私は本が好きなだけで、そんなに詳しい事なんてないんですよ。取り柄がないのが特徴の女なのです」
謙遜するが、私なんかよりは断然本に詳しい。そもそも高校にあがってから栞と付き合いが始まって本をじわりじわりと読むようになった。
そんな自分からすれば本が好きで毎日本を読んでいるというだけで、私の中では彼女は容姿とその趣味嗜好からして文学少女といえた。
「カフカは現代でも研究の盛んな作者で、いま詩織さんが読んでいる『変身』も最近新しい翻訳が出たばかりです」
「翻訳なんてそんなにし続けても意味あるの? 私が見つけただけでも五冊ぐらい『変身』あったけれど、そんなに変わるものなの?」
「変わるものなんです。大体日本語なんていうのは二十年もすれば大分変化が起きるものなので、名作ほど小まめに改定した方がいいんです」
「それでその最新翻訳っていうのは、今までとどう違うの?」
「多和田葉子の翻訳で、タイトルは『変身』と書いて『かわりみ』と読ませます。ここら辺は当時の言葉の研究なんかを反映させているらしいですが、まあ長くなるのでいいでしょう。そして、恐らく世界で一番有名な書き出しの、グレゴール・ザムザが奇妙な夢から目が覚めると一匹の大きな毒虫になっていたというところが大きく変わっています」
「毒虫って毒虫以外に翻訳する言葉なんてあるの?」
「『複数の夢の反乱から目を覚ますと、ウンゲーツィファーになっていた』という風に翻訳されています。今までの作者が奇妙な夢として、意訳していたところを原テクストに忠実に訳した結果です。次に『ウンゲーツィーファー』ですが、これに対応する外国語がなく、毒虫という表現は、当時のカフカの『変身』刊行時のイラストに対する注文を元に毒虫としているらしいですが、意味合いとしては『血や内臓で汚れに塗れた生け贄にもならないもの』だそうです。これなら安易に翻訳するよりも直接、原語を片仮名に起こした方が理解が進みやすいかも知れませんね」
「翻訳って面倒なのね」
「直訳でも駄目ですし、意訳でも不正確だしでプロの翻訳家は凄い知識量と日本語能力が求められます。お世話になっているスペイン語翻訳家のご夫妻がいるんですが、いかに『目減りしない』翻訳をするかに腐心しているということです。原テクストにない言葉は用いず、日本語的にもおかしくならずと、まあ難しいですね」
「翻訳家の人が知り合いに居るってなにそれ、珍しい」
ふふふと笑って唇に人差し指を当てると「秘密です」といって春先の柔らかい光の中で微笑んでいた。
「でもカフカってなんだか夢を見て居るみたいね、なんていうか半覚醒の状態で雲の上をふわふわ歩いているような……」
「それがいいところなんです。難しい話は抜きにして、そのふわふわとした夢の中にいるような気持ちが楽しめればカフカはもう攻略したようなものですよ」
「じゃあ『変身』読んだらもうカフカ・マスターっていっていい?」
「駄目です。ちゃんと『寓話集』や『城』も読んで下さい。とは言ってもカフカは『審判』『アメリカ』『城』の三作しか長編がないので、短編読むだけでもある程度理解は出来ますよ」
「うわー栞さんは厳しいですなー」
「さん付けは禁止です!」
そう言うと私の唇に人差し指を当ててくる。久々にやられたがヒンヤリとした触感の奥に体温を感じる。なんだか酷く恥ずかしくなってドキドキとする。
こういうことを何のてらいもなくやってくるのが栞の怖いところである。
「ごめん、ごめんてば。でもさあなんていうか、悪夢ともいえないし、不思議な夢だよねカフカって」
「有名な話なんで、自身の読書会で『変身』を読んだ時ですが、参加者に爆笑小説がかけたっていって回って、朗読中に我慢出来ず吹き出したなんて逸話が残っています」
「え『変身』ってギャグ小説だったの。なんか頭だけ読んで暗い話というかシュールな話だとは思っていたけれど」
「そこはちゃんと読んで自分で判断して下さい。ネットであらすじ調べて読んだ気になるのは駄目ですよ」
釘を刺されてしまった。
こうなるとなぜだか魔法にでもかけられたようになって彼女の言葉に逆らえなくなるから不思議である。
「詩織さんは夢から覚めなくなって、その中で自分が何か変なものに変身していたとしたらどうします?」
「とりあえず困る」
「困った後どうします?」
「うーん、することも無いから学校に来てここで本を読むかなあ。栞がいれば話し相手には困らないだろうし。でも血塗れの内臓みたいになっていたら栞もこまるでしょ?」
「私は詩織さんがどんな姿になってもここにきて本を読んでくれるなら一生面倒見てあげますよ。多分その変身した姿は夢の中なんです。醒めない夢もなければ、朝の来ない夜もないんです」
「一生面倒見てもらえるんだったら、そんな生活もいいかなあー、でもなんか駄目男のヒモ生活みたいね」
「詩織さんは駄目男なんかじゃありません。それにそんなだらしのない人だったらお世話しようなんて思わないですよ」
そこまで言って、何を思ったのか顔を赤らめてそっぽを向いてしまう。
意地悪な気分になって、そっぽを向いた顔を覗き込んで。
「わーたしは栞を誑かす、悪い男だー!」
とニヤニヤしながらにじり寄っていき、肩を抱きすくめる。
「ひゃん!」
と間の抜けた声を上げて栞がその場にへたり込む。
「あーごめんごめん、ちょっと調子に乗り過ぎちゃった。大丈夫?」
手を引っ張って立つのを手助けすると恨みがましい顔で。
「詩織さんは意地悪です」
と、ぷくーっと頬を膨らませて怒っている。
「ごめんごめん、でもこれもカフカが見せた夢かもよ?」
と、いうと栞はぼんやりと虚空を眺めて。
「夢から醒めない」
と、ポツリと呟いたように聞こえた。
「え、なんて?」
「兎に角、カフカは面白い上に歴史上重要な作家です。ちゃんと読んで下さい!」
というと、手を引っ張った時に繋いだままの手にもう片方の手を重ねてぐっと力を込めてきた。
「春の夢は暁を覚えないっていうしねぇ……」
「春の眠りです」
外から吹く風にカーテンが揺れる。
光の波が床に落ちてゆらゆらと揺れる。
明日は休みだ、図書室も空いていない。
初めて会った時のように、いつか栞を誘って女の子らしく街へ出かけて買い物でもしてみたいなという思いと、図書室だけで二人の共犯者で居たいという思いが何となくごちゃ混ぜになって、まるで複数の夢の反乱のなかに居るような錯覚に陥った。
そんな思いとは裏腹に文学少女は分厚い眼鏡をキュッキュと拭いて顔の定位置に戻していた。
やっぱり文学少女だ。そんな彼女を今度はこちら側に染めたいというちょっとした欲望が湧いてきた。
イラスト提供:
赤井きつね/QZO。様
https://twitter.com/QZO_
次回
坂口安吾
『桜の森の満開の下』




