暁鈴
私が南東北のその山へ登ったのは、半年前の秋口のこと。
日帰り登山の予定でした。
その日は天気も良く気持ちよく昼前から登り始めたのですが、急に霧が出始めたな、と思っているうちにどんどんと一メートル先も見えないほどに囲まれ山の中腹で立ち往生してしまいました。
「なんてこった」
五時間経っても状況は変わらず。
段々と周囲も暗くなりだし、登山用に機能性重視で買った少し重めの腕時計を見ると、日没が近づいており、焦りを覚えました。
その日は平日でしたが、こんな登山日和に他の登山者に出会わないほど人気の無い山ではありません。
この山は人との交わりにおいて歴史が深く、大昔には土葬も多く、歴史有る小さな廟も有ることから一部が観光地となっています。
ただその時、私は不思議に思いませんでした。他の登山者も同様に急な霧に閉じこめられただけだろう、と。
「仕方ない」
本来、登山において視界不良の中で無闇に動くことは御法度です。いくら登山道と言っても岩による高低差やぬかるみ、窪み、折れて尖った草木などいくらでも危険は有ります。
堪えきれずに山頂に向かって歩き出した私は不思議な感覚に襲われました。
腕時計のデジタル表示を頼りに、頂に向かって歩いている筈が、どうにも降りているような感覚に陥っているのです。高度表示も確認しつつ、ただ、登りよりも降り、の方が多い気がしてならなかったのです。
「む。なかなか骨の有る道だなぁ」
腰ほどの高さのある岩を前に、どこに足をかけようか、と思案していると。
「もし。お兄さん。そこのお兄さん。待って」
か細い、ややもすると聞き逃してしまいそうなほどに弱々しい声が掛けられました。
「な、なんだ!?」
飛び上がるほど驚き振り返ると、目の前に、女の顔があり、さらに驚きで後ずさり、転びました。
「いてっ」
転んだ拍子に頭を ーーガンッ と先ほど登ろうとした岩にぶつけ、激痛でうずくまりました。
「……大丈夫ですか?」
徐々に引いていく痛みを堪えつつ、顔をあげると、そこには私を心配するように身を屈めてのぞき込んでくる女性が居ました。
「あ……あぁ」
女性は、細目で唇が薄い、美人でも不美人でもないが、言ってしまえばどこか不幸顔という言葉が合いそうな顔立ちでした。
「ごめんなさい……私が驚かせてしまったせいですね」
ぼそぼそとそう申し訳なさそうに呟く女性は立ち上がり、頭を下げました。
「いや、私が勝手に驚いただけだから、君のせいではないよ」
私も立ち上がると、少女の背が私とそれほど変わらないと気付きました。細身で、モデルのようであるものの、その出で立ちが妙で、また一歩下がって、背に岩を感じました。
「……なんでそんな格好なの?」
「ああ」
女性は、白の、まさに死に装束のような着物を着ていました。
「私、死人ですから」
ぼそぼそと、ですが悪戯っぽい口調でそう告げる女性。見れば狐が笑ったような貌でした。
「……最近の死人は、クロックス、穿くんだね?」
「流行りなのでしょう?」
「登山ではあまり穿かないかな。あと着物も」
流行りというには大分遅れている気がしましたが、とにかく山の中でその格好は無い、と指摘しました。
「丑の刻参り?」
手荷物一つ見当たらない彼女に、私の冗談は当てはまりませんが、思わず軽口を言いたくなるほどには奇妙で現実味が有りませんでした。
あるいは本当に幽霊なのでは、とも。
「まだ夜ではありませんよ。ですが、もうすぐ日が落ちます。このまま進むのは危ないですよ」
「ああ、うん……だけど戻るにしても、これじゃあ」
登山は登るより下る方が迷いやすい。山頂には避難小屋が在るのを確認していたので、何とか登り切るつもりでした。
「途中、谷もあって、足を踏み外せば死んでしまいます」
それほど急な道のりだっただろうか、と初見の山ではあるものの首を傾げてしまいます。ただ、自然の中では何が起こるか分かりません。地図には無い危険個所などいくらでも有り得ます。
「ん……君は、どうするの?」
この山に慣れた地元民だろう、と思った私は彼女に下山の案内を頼もうと思いました。見知らぬ男に声をかけ、引き留めるくらいだからきっとその位は引き受けてくれるだろう、という打算と、先ほどの笑顔が脳裏にこびりついて離れないからあとで食事でも誘おう、という下心もありました。
今思えば、白装束で手ぶらで山に居るような女を何故誘おうと思ったのかは自分でも謎ですが。
「家に帰りますが…………あの…………」
ーーご一緒にどうですか?
彼女がそう蚊の鳴くような声を絞り出すのに、数分を要しました。
ーーここは昔、お墓だったんですよ
彼女、木村鈴は囲炉裏の日で鍋の中をかき混ぜながらそう告げた。
驚くことに彼女の『家』は、私が登ろうとしていた岩から数分歩いた山肌の、小さな洞穴でした。六畳もあるだろうか。
この女は本当に幽霊か何かではないか、と恐る恐るその洞穴をのぞき込むと、枯れ草なのか朽ちた茣蓙なのか、ゴワゴワした上に囲炉裏を避けて継ぎ接ぎだらけの布が掛けられた敷物、鍋釜、陶器などが見えました。
灯りは先に入った女の点けた蝋燭のみ。
ーー幽霊だとしたらずいぶんと生活感のある幽霊だな
私は少しほっとして、床に胡座をかきました。
「驚いた。よく、こんな山の中で暮らしてるね。それにここ、昔のお墓なんでしょ? 度胸あるなぁ」
恐らく山道からは死角になっているであろう場所。
「ずっと暮らしてるので、これが普通なんですよ」
なんでここで暮らしているのか、どうやって暮らしているのか、と聞くも女はまた、狐が笑っているかのような笑顔のまま、黙ってお椀によそった味噌仕立てのお粥を手渡してくれました。
味噌の良い香りでした。
「この家は、中でも意外と冷えます。どうぞ」
「ありがとう」
私は、もしやこの女は犯罪者か精神異常者で隠れ住んでいるのではないか、と考えましたが、助けられた身の上、あまり追求すべきではないと言葉を控えました。
どちらにしても白装束で山の昔の墓である洞窟に隠れ住むなど、まともな訳がない、と。
食事を終えると、ーーふっ……と女が蝋燭の火を消しました。
「え?」
「蝋燭、結構貴重なので」
囲炉裏の頼りない灯りのみ。他は何も見えません。
「何も見えないんだけど」
「もう、寝るだけですから」
ーーざざっ……ざざっ……
そして、徐々に近づいてくる音。
「あの」
私は確かにあの時、恐怖を感じていました。場所が場所だけに。
ですが、彼女が、私に身を預けてくるのを感じ、杞憂だと気付きました。
暖かな彼女の抱擁に、
ーーああ、彼女は幽霊ではなかったのか
と安堵とともに興奮を覚えました。
私は覚悟を決め、痩せて骨ばった彼女の体を抱きしめ返し、床に押し倒しました。
ーー冷えます、から
彼女、鈴は、震える指で、何度も何度も、私を手繰り寄せたのです。
翌朝、私が目覚めると、鈴を腕に抱きしめたままでした。
「おはよう、ございます」
照れくさそうに、狐の笑顔で笑う鈴に見惚れた私は、挨拶を返せません。
「もう、来てはいけませんよ」
身支度を終えた私に彼女はそう告げます。儚く、悲しげに。
「また、来るよ」
彼女の困ったような笑顔に、私は何故か笑いつつ、別れを告げました。
「それからどうなったんです?」
「それから、が……これからさ」
会社の部下であり、十も年上の私を慕ってくれている佐藤君に私はそう笑って答えます。
「あ、この山だったんですか? 山本係長って、空気読めないっすよねぇ。登山するだけじゃなく自分のために捜索隊出された山にまた登るとかって。
あの時、会社内でもいろんな人に連絡言って大変だったんですよ? ーー山本美喜雄はどこ言った!? って」
そんな私を心配して、彼は登山初心者にも関わらず道具を揃えて強引に付いて来ました。その気持ちが嬉しいやら、邪魔っ気やら、複雑な心境です。
「ちゃんと悪いと思ってるよ。だが君に空気読めないとか言われたら、俺はもう人間じゃないなぁ」
「ひっでぇ」
「あっはっは。悪い悪い。ほら、あの岩が俺の頭を打った悪い奴だ」
私が指をさしても、後ろで佐藤君は無言でした。
私は今日、彼女がまだこの山に居るならば出てくるよう説得するために来ました。
ひとまずは、私の家に住まわせれば良いし、私も独身なのでそのまま居着くならそれでも良い、むしろそれが良いのではないか、と。
随分簡単な男らしく、私は一晩過ごしただけの鈴に情が湧いてしまったようです。
「さて、この辺りの筈なんだが」
振り返ると、そこには誰もいませんでした。
「佐藤君……佐藤君?」
悪戯か、と思い何度も呼びますが、出てきません。草むらや木の陰も。
彼はきっと、霧に包まれたのかもしれない。
そう思いつつ、緊急事態には変わらないため、急いで下山し通報しました。
翌日。佐藤君は、無事自力で下山してきました。
不思議なことに、私と同様に、捜索隊とすれ違う筈のルートを一人で。
「いや、すみませんでした。あんな急に霧が出るとは思わず。山本係長もいつの間にかどっか行っちゃうし」
霧なんて出ていなかったが、彼には見えていたのだろう。
「それでですね、山本係長ッ」
すぐに興奮したように語り出す佐藤君。
「例の女の人は居ませんでしたけど、その娘さんには会いましたよ。助けて貰ったんです」
聞くと、高校生くらいの狐顔の少女に会い、一晩を洞穴で過ごしたというではないか。
鈴がそんな大きな子供が居るほど年嵩にはとても見えなかったが、と首を傾げてしまいます。
「お母さんのこと聞いたら、笑って誤魔化されましたけど」
その少女は、こう名乗ったと佐藤君は言いました。
ーー山本美鈴、です。美しい鈴と書いて美鈴。お父さんとお母さんから貰ったんですよ
狐のように目を細めたらしい。
やはり白装束で、クロックス。そして最新の、だが使い込まれ傷が付いた登山者に人気の最新腕時計をしていたらしい。
私は、新たに買った同じ型の腕時計をそっと撫でました。
「そっか……なんか変だなぁ、と思ったんだが」
「いやいやいや! 変なとこしかないですよね!?」
「…………確かに」
私はひとまず佐藤君の頭を強く叩き、これからプライベートでは、私のことを『義父さん』と呼ぶよう命令しました。
佐藤君はしばらく無言でしたが、その間も、気まずそうに、そして不思議そうな表情で、やがて頷くのでした。
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