メモリアルエピソード・昴(上)
遅れてしまい申し訳ありません。
今回のメインである昴編を開始します。今回は将斗や千晶と違って複数話構成となっております。
なぜここまで昴だけが引き伸ばされたのか。彼の上司のキャシーがいるからでした。
「貴方は?」
それが少年との初めての会話だった。第二次世界同時多発テロで家族を失ったその少年の衣類は汚れ、所々に破けていた。
目からは生きることへの意欲が消え失せ、その存在さえ瞬きをすれば消えてしまいそうで。
キャシーには一人娘がいる。少年に声をかけたのはなにより、その娘と年が近そうだったからだった。
虚ろな目でこちらを見上げ、名を名乗る。小さく、聞き取りづらい声。
「昴…」
◇
「キャシー。例の適合結果が出ましたよ」
年配の部下であるケビンが書類の束を渡す。一番上には英語で昴の名前があった。
「でも今でも信じられません。貴女が連れてきた少年が今や我々MI6トップのスナイパーで…しかも今回………」
私もよ。コーヒーを啜りながらキャシーは頷き返した。
一旦引き取り、秘書がわりに育てた昴は狙撃の才能にも優れていた。それだけではない。暗記や変装、話術…そういったスパイに必要な才能さえ持ち合わせている。最初こそとんだ拾い物だと驚いたが、まさかこちらが保有しているアレさえも彼を選ぶなんて…
「偶然かしら?」
キャシーの疑問へケビンは肩をすくめて見せるのだった。
ここ最近の昴の活躍はめざましいものである。狙った者は確実に仕留め、必要な情報は必ず持ち帰ってくる。
「素晴らしい原石を発掘したものです…」
ケビンは仲間達を代表してその感想を述べる。
昴が淹れたのよりも香りの少ないコーヒーに口をつけ、キャシーは溢すように呟いた。
「ありがと。でもね、あの子にはこっちの世界で輝いてほしくなかったの……」
「何か言われましたか?」
聞こえないように言ったのでケビンは首をかしげる。しかし再度口に出すことはせず、キャシーは残りのコーヒーを味わうのであった。
◇
ナタリアは昴が焼いたサンマを慣れない箸でつついていた。震える箸先では上手に身をつまむ事ができず、ボロボロと皿の上に身を落とす様子はお世辞にも綺麗な食べ方とは言えないが。
「苦いけどさっぱりした味わい……それにこの香り…癖になりそう」
「気に入ってくれて良かった」
キャシーの分のサンマを運びながら昴は笑いかけていた。
「刺身は身が柔らかく、その脂もまた別の旨みを見せるからね。合うのはワサビか生姜かな」
「ワサビ…まだトライする勇気はないわ…」
昴が料理をするようになってから食卓に和食が出る回数が増えた。それまではキャシーかナタリアが作っていたのだが、任務につくようになって出張の回数が増えた昴はどこに行っても怪しまれないよう、料理のスキルも身に付けたのである。
「美味しいわ。流石スバルね」
「キャシーに言われるとやっぱり嬉しいよ。はい、コーヒー」
「ありがとう。やっぱり貴方の淹れるコーヒーが1番ね。そういえばスバル。今日は信条を聞いてないのだけど」
昴の教育にあたってキャシーは3つの信条を与えている。それは仕事をこなすためも勿論だが、本質としては昴がいつ結婚して所帯を持っても良いようにするためだった。
「ひとつ。常に紳士であれ。
ひとつ。自分を愛せ。
ひとつ。家族を愛せ」
昴はそんな教えを口に出し、「そうだったよね」と笑いかけた。キャシーも微笑み返す。
紳士であれ。これはいかなるときも余裕を見せつけろという意味である。切羽詰まっている様子は相手にとって、つけこむきっかけとなるからだ。ポーカーフェイスとも言えよう。
自分を愛せ。何があっても自分を捨てるような行為をさせないためだ。昴のような生い立ちの人は自身を蔑ろにするきらいがある。たとえ最悪の場面でも自ら命を投げるようなことをせず、生きて帰るようにするための信条である。
最後に、家族を愛せ。
「身内を愛せってことよね」
サンマの内臓を口にし、苦い顔をしながらナタリアが締めた。昴はテロで家族を失っている。そんな彼が今後、仲間を失う思いをさせないための教え。
昴とキャシーはにっこりと笑った。
キャシーとナタリア。この二人が今の昴の仲間であり、実質的な家族でもある。
小さい頃から散々言われてきた教えを受け、昴は立派に成長していた。
「ナタリー。君が飲もうとしてるそれ…コーヒーじゃなくて醤油」
時すでに遅し。ナタリーはマーライオンとなってしまった。
「けほっ…スバル‼ はやく言ってよ‼」
スバル・タチバナ。第二次世界同時多発テロで家族を失い、現在はイギリスに在住。所属はMI6。組織のトップであるキャスリン・アクロイドに引き取られ、最初は彼女の秘書見習いをしていたがその腕を見込まれ、MI6で正式に採用。狙撃、近接戦、潜入、情報戦すべてにおいて優秀なエージェント。
日本での家族構成は父、母、弟、妹の昴を入れて計5人。いずれもテロで失い、事件前までの血縁者も皆逝去しているため、身寄りがないところをキャスリンに拾われた。
現在はキャスリン、ナタリアと暮らしている。
性格はいたって温厚だが忠実に任務をこなす姿はMI6の皆から一目置かれている。特に射撃に関しては精密性を極めており、スナイパーとして活躍する場面が多い。
先日、パンドラの適合試験に成功。
優秀な人材としては間違いない。しかしここ最近、昴という人物に対してある種の違和感を覚えるようになってきた。
日本人が海外で優秀な成績を残すのはおかしくない。しかし昴のそれは、文句のつけようがないくらいに完璧すぎて、逆に歪であった。
得意があっても不得意がない。任務の成功率は100%、まるで機械のような正確さ。
人間なのだから、得意があるなら不得意があるのも当然。しかし昴にはそれがない。狙撃も、格闘も、変装でさえも。大した努力もなしにそれらをこなしてしまうのは天才とも言えよう。
(あらかじめそうなるよう設計された……そう思ってしまうくらいに天才過ぎるのよ)
そんな人材を拾っただけでなく、パンドラの一件。
「あまりにも出来すぎじゃないかしら」
パンドラの適合試験は身内で行われていた。昴が正式に組織に入ったのは最近というのもあり、彼の試験だけは皆より後に行われたのだ。
完璧すぎる日本人をたまたま拾い、その日本人に合うパンドラがたまたまこちらにあった……
話としては出来すぎているのでないか?
すると控えめなノックが聞こえてきた。
昴だった。
「コーヒーのおかわりはいかが?」
その見慣れた顔は安堵感を与えてくれる。
キャシーは早くに夫を亡くしていた。男のいない我が家にやってきた昴は夫に似て、ムードメーカーな一面もある。
悪くない。
心で呟き、キャシーはカップを掲げる。
「いただくわ」
「君から学んだ技術でナタリーをからかったらものすごい剣幕で叱られたよ」
「あら、また食べ物に唐辛子を仕込んだのかしら?」
「ご明察」
何気ない(ナタリアは被害を被ったが)会話をしながら2人は向かい合う。淹れたてのコーヒーの湯気がゆらゆらと立ち上る中、キャシーは室内で音楽をかけた。クラシックの曲で、彼女のお気に入りだ。
「ヴィヴァルディかな?」
「そうよ。以前は貴方を演奏会に連れてったものだわ」
「自然の風景をきれいに表した曲だね。僕も好きだよ」
和やかな時間を楽しみ、カップを持つ音が小さく鳴る。
「スバル……」
キャシーは本題を切り出した。
「パンドラの適合試験は成功よ。これから先、貴方にはパンドラを使った任務も与えられるはずだわ」
「……そっか」
特に喜ぶでも嫌な顔をすることもなく、昴はコーヒーをすする。
「嬉しいよ。これでまた君達の役にたてるからね」
「……別にそういうつもりで貴方を引き込んだわけじゃ」
「いいんだよ。僕は君達に救われた。この命は君達のものと言ってもいい」
キャシーは長いため息を吐き出した。
「私達に恩を返すために貴方に信条を唱えた覚えはないわ」
「僕は何もかも失った。そこへ君達という家族を得た。それだけで充分さ」
これは昴が組織に入る時、既にキャシーに言った言葉であった。すべてを失ったからこそ今の家族を守りたい。恩を返したい。
養子の健気で、律儀で、それでいて歪な生き様。
昴が言い切ると同時に、キャシーのパソコンにメールが届く。
「……でも約束してちょうだい。もし今後、貴方の全てを受け入れるような……そんな人と結ばれて家族を得たら、その人達にも私達に向けるような愛情を注ぎなさい」
彼は不幸に遭いすぎた。そんな昴の未来を心配しての、キャシーの教えだ。昴はにっこりと笑い返すのだった。
◇
昴が去ってから届いたメールを確認し、顔をしかめる。
送り主は彼女も知る人物だった。知人で、若き頃のキャシーも会ったことがある。
その人物に連絡先を教えた覚えはないが、あの人ならそれを調べることぐらい可能なはずだ。
素早くキーを打ち込み、返信する。するとすぐに返事がきた。
キャシーはカーソルの手を止める。
「……なに……それ……」
『パンドラに適合するための因子はある人物の血筋が持っている。その人物は既に故人だが、子孫・親族に該当する者は扱うことが出来る可能性がある。
人物名は白鳥三門』
リストで見たことのある名前だった。過去に犯罪を犯した者でもなく、単に昴の日本でのデータを漁った時に知った人物。
(あのパンドラは……最初からスバルのために作られたとでも言うの?)
だが何故? 何のために?
『証拠はないがイギリスで研究をしている可能性のある所には目星がついている』
情報を提供する代わりに調査しろということかしら。
キャシーは席を立つ。
◇
「ひいお祖父さん?」
「ええ、貴方の親戚について調べたいの。近々日本での任務も考えてるから」
「ひいお祖父さんの事かぁ……とにかく多趣味かな。なんか家族に良い顔したいあまりに身に付けたらしいけど……あ、僕にコーヒーの淹れ方教えてくれたよ」
「是非学びたかったわ……」
いや、聞きたいのはそこではなく。
「こう……兄弟がいて、他の家に奉公に出してたとかはないのかしら?」
「ないね。身寄りがなかったらしいし、引き取ってくれた家にも兄弟がいたなんて聞いてない」
「……そう……」
昴の曾祖父の経歴だけなら調べていた。
白鳥三門。養子として引き取ってくれた白鳥家の両親も逝去した後に北海道の銀行員として働いていたという。
それといって目につくような情報もない。
だが何故、そんな人物がパンドラに適合できるのだろう。O2との関わりなんて一切見られない。
これで白鳥三門が医学や科学技術関連の機関に属していたとかならまだ着眼すべき点があったのだが……
今はとにかく情報がほしい。頭の中で彼の家族について調べるべく、計画を立て始めた。
とは言ってもめぼしい情報が簡単には手に入らない。あらためて日本での昴の情報をかき集めるも、身内で新たな事実が生まれるでもなく、ましてや知人などにも関係ありそうな人物は一切、該当する者はいなかった。
そうなると昴の曾祖父に隠し子がいる場合なども想定してみるわけだが、過去にどこかへ仕送りをしていたなどの事実は見られない。
こちらの持ちうる情報は完全にまっ白な状態となっていた。
(調査の視点を変えてみるべきかしらね……)
本来ならキャシーは椅子に座って部下に指示を出す役割なのだが、こればかりは自分で調べるしかなかった。
なにせO2関連の情報は最重要機密として扱われている。その情報の詰まった資料室を開ける人物はキャシーを含め、片手に数える程度しかいない。
何より、自身の養子に関わることならなおさら、他人に任せるわけにはいかなかった。
◇
「キャシー。最近何か隠してるよね」
チェス盤を挟み、昴は何気ない口調で尋ねてきた。
「隠してるって? 王手」
「最近帰りが遅いし、資料室によく出出入りしてるよね。王手」
「最重要機密の調査よ。大丈夫。ただのデータの洗い出しだから。王手」
昴達エージェントにとって最重要機密の任務はキャシーが許可しない限り関わることが出来ない。下手にごまかすよりも先手を打って昴の追撃を止める。
「一声くれたら、いくらでも手伝うつもりだよ。王手」
「あら、それは私への恩返しのつもり?」
「それもあるけど僕の今の家族は君達だけだ。だから何でも力になりたい。王手」
「嬉しいわ。でもスバル。貴方、昨日すてきな令嬢さんに告白されたらしいじゃない」
手がピタッと止まった。明らかな動揺。キャシーは今の言葉の意味をきちんと理解した上で、しかもそれがどのように作用するのかわかってて口に出していた。
「断ったのよね。貴方の事をこれからも知ってゆきたいなんて、素敵な告白をされたのに。王手」
「……」
「チェックメイト」
先の動揺で昴の手は明らかに乱れていた。王手に王手を重ねて繰り広げられた闘いはキャシーの勝ちで終わる。
「なかなか楽しかったわ。上達したのね」
「……もしかして今の心理も考慮して?」
「それはどうかしら。でも貴方も闘いやすいよう、動かしたつもりよ」
つまり昴の王手は全てキャシーによって与えられたハンデだった。彼女の掌で転がっていたに過ぎないのだ。
「……やっぱり敵わないな……」
「チェスの試合だけで落ち込まないの。でもどうして? 学校のクラスメートでもあったんでしょう?その子」
「……良い子だよ」
駒を片付ける昴は笑いながらも、どこか影を見せていた。
「じゃあ何? 組織絡みの事態を考慮したとか?」
公安によくあるのが、交際相手への調査だ。素性の知れない人物では困るので、必ずチェックが入ってしまう。また、仕事上一緒に居られる時間が極めて限られてしまうのも特徴だ。
「それもあるけど……」
「…………私達に気を遣ってるの?」
昴は答えなかったが、黙っているのが何よりの証拠だった。
もしも誰かと交際して、結婚もしたら自分の余った時間をそちらにつぎ込まなくてはならない。
しかしキャシーやナタリアは彼の家族で、恩人だ。拾ってくれて、育ててくれて、さまざまなことを教えてくれた。そんな彼女達に恩返しをすべく、昴は動いている。今の彼の行動の動機は、彼女達にあるのだ。
「何のために私が信条を教えたの」
「家族を持ったときのためだよね。でも僕はまだ、好きな人と君達を天秤にかけた時に好きな人を選ぶなんて……出来ないんだ」
昴は真剣だ。真剣にキャシー達を思っている。
しかしこちらはそんなつもりで彼を育てた覚えはなかった。彼の才能には気付いても、恩を盾に彼を引き込むつもりは毛頭もなく、ただ彼のやりたいようにさせたかった。
それなのに彼は、やりたい事として彼女達への恩返しを選んでいた。組織だけで見れば手を広げてしまうくらいに喜ばしいのだが。
ただ昴に、人として幸せに生きてほしかった。
だから彼にガールフレンドなんて出来たら喜ぶつもりでいたし、他の一般企業に就きたいなら全力で応援する気でいたのに。
「……エージェントとしては優秀なのにね」
その夜、ワインを飲みながら一人、自室で考え事をしていた。
昴は優秀なエージェントだ。こちらの心強い味方だ。
しかし、人として大事な物を失ってしまっている。
理念。彼は全てにおいて自分達を最優先してしまう。自分を押し殺し、あらゆる願望を自ら潰してる。
自分の幸せというのが存在しない。このままでは彼はただの傀儡でしかなく、キャシー達の人形で終わってしまう。
連れ帰った最初の理由は気まぐれに近かった。しかし一緒に育ってゆくうちに彼に、自分らしく生きてほしいと。自分で選んでほしいと。そう思うようになったのはいつからだろうか。
なのに彼は愛され過ぎた。
闘う才能に。
殺しの技術に。
とどめにパンドラときた。
パンドラを搭載したATCが完成すれば、また任務は増えてゆく。それを昴はまた、恩返しと言って笑ってこなしてゆくに違いない。
それがどんなに可哀想なことか。
母として、子が羽ばたく可能性を奪われてゆくのがどれだけ酷な話か。
グラスに映った自身の顔を確かめる。
養子を自分の操り人形にしている女の顔だ。最低な母親の姿。
自身の情けない姿に落胆し、グラスの中身を一気に飲み干す───
◇
「今日からここが貴方の新しい家よ」
好奇の視線が辛いのか、少年はキャシーの後ろに逃げてしまった。
ちょうどあの同時多発テロの後の事。幼いながらもナタリアは少年の事情に気付いてしまう。
しかし、だからといって距離を置こうとは思わなかった。
むしろ自分から歩み寄り、少年の手を握る。
「はじめまして。私はナタリア。貴方の名前は?」
無邪気な眼を真っ直ぐに向けられ、少年は重い口を開く。
「……昴……」
「スバル? 知ってるわ。星の名前よね」
昴は何も言わない。しかしナタリアは構わず話しかける。
「ねぇ、スバル。ママはね、魔法使いなのよ」
「……?」
昴は言葉の意味を理解できないのか、キャシーに質問の意をこめてその眼をやる。その姿がおかしく思えキャシーはつい吹き出してしまった。
「魔法使いなんかじゃないわ。でも……そうね、せっかく来たのだから驚いてもらおうかしら」
そう言って右手を昴の顔の前に運ぶと、パチン、と鳴らした。すると彼女の指には赤いバラが挟まれている。
間近で見せられ昴は眼を丸くした。さらに指を鳴らし、すると今度はバラが姿を消す。
最後にもう一度。どこからともなく白い鳩が姿を見せ、翼をはためかせた。
元々は手先を鍛えるために身につけた手品だが、任務先で人々に見せてきたキャシーにとってこれくらいの芸当は容易い事だった。
「私はね、人を笑顔にする魔法しか使えない……道化師なのよ」
手を叩いてはしゃぐ少年に向かって、キャシーはそう告げるのであった。
◇
「……製薬会社の薬剤師……グレン・ジーニアス」
グレン・ジーニアス。若くして会社の薬剤師の最高責任者及び社長を勤めている。歳は今年で30。若くしてこの肩書きはなかなかのものだ。
しかし彼の経歴には不自然な点が多かった。出身や家族など、違和感がないくらいに書き留められているのだが、その証拠となる写真といったものが一切存在しない。
彼自身の幼少期の姿も、家族で一緒に写っている様子も。あるのは会社のホームページ用に張り出された胸から上だけの写真だけだ。経歴を詐称している可能性が浮上してくる。
「………次に会社の支援」
この会社は相当の財を持っていることがうかがえる。地元への援助も惜しむことなく、地域との一体化に成功しているともいえよう。
さらには孤児院に投資しているとの情報もあったが、怪しいのはここだった。
孤児院はいずれも紛争地域周辺に存在しているらしく、諜報機関でさえも迂闊には近寄れない。そんな場所に食料や医薬品を頻繁に送っているらしい。
慈善と言えばそれまでだが、大手でもない製薬会社がなぜそこまでするのか? 見返りなんて期待できないはずの、紛争地域の孤児院へ援助の手を伸ばすなど考えにくいというのに、その出資額は莫大なものとなっている。
これらだけなら、提示された情報としてまだ心許ない。
「何の関係がある?」と一蹴することも出来ただろう。
しかし。それを伝えてくれた存在に問題があった。
「ユウセイ……アマタ……」
そして
「アクアフォレスト・カンパニー……」
この2つの存在が、彼女にとって細やかな情報を重大なものに変換している。
天井を仰ぐキャシーの唇は強く噛み締められ、端からは先に飲んだワインよりも鮮やかな赤い筋が垂れるのであった。
◇
後日、ナタリアはキャシーを近場の喫茶店に呼び出した。昴がパンドラの適合者として発表された直後のことである。
彼女が何を言いたいか、キャシーにはわかっていた。
「なぁに。納得がいかないのかしら?」
「当然よ」
憮然とした様子でナタリアは肯定する。
「スバルの腕は認めてるわ。でも私達の切り札であるパーシヴァルまで彼に取られるなんて、まだ納得出来ないの」
パーシヴァルの計画は既に持ち上がっていた。あとは完成すれば昴の機体として活躍が見込まれる。
「もう一度私に適性試験を受けさせて」
やはりか、とキャシーは笑いながらコーヒーに砂糖を放り込む。
因子を持つ昴でないとパンドラは動かせない。だから血の繋がりのないナタリアが何度試したって、結果は変わらないのだ。
それでも食いつくのは単に、昴より上でありたいと思うナタリアの執着心……エゴに過ぎない。
彼の存在はMI6でも良い刺激となっている。彼に負けじと奮起し、精進している人達もいるくらいに。
ナタリアも同じだろう。今まで弟分であった彼に負けるなんてプライドが許さないからだ。
だが、これだけは何があっても覆すことは出来ないのである。
「パーシヴァルは……スバルにしか使えないわ」
ナタリアの呼び出しを予知していたキャシーは予め、あるものを用意していた。
取り出した封筒にはパンドラの適合者としてのデータが一部記されている。
昴に適合の試験を実施させたのは気分ではない。解明してゆくにつれ、パンドラが提示したDNAマップの存在があった。
この人物しか主として認めない。語ることのないパンドラの意思表示に従い、DNAマップに該当する人物を調べた結果。それが昴だった。
「貴女には無理よ。ナタリア」
資料には昴の適合値が記されている。
99.7%
他の誰にも叩き出せない高得点。
この点数はナタリアには逆立ちしても出すことの出来ない、圧倒的で無慈悲な数値だ。
唇を噛みしめ、その数字に眼をやるナタリアの姿を見て胸が痛まないと言えば嘘になる。
彼女は母の姿に憧れ、こちらの世界に脚を踏み入れた。妥協を許さず、常に技術を磨きあげてきた。その様子を見てきたのは他でもない、母であるキャシーなのだ。
だが、乗り越えられない壁は存在する。彼女の努力を嘲笑うかのように昴の才能はそれを容易く凌駕してしまうのだ。
暗殺も、闘いも、結果も。
テーブルを叩くようにして出ていってしまったナタリアの後ろでキャシーは仮面をはずすことなく、コーヒーを飲みながら謝罪の言葉を吐き出す。
「……ごめんなさいね……」
やっぱり自分は最低な母だ。
幸せであってほしいと願いながらも昴を縛り付け、挙げ句事実上の娘であるナタリアさえも傷つけてしまった。
ここ最近の自分に嫌悪感さえ抱いてしまう。
笑顔を振り撒いておきながら大切な人達の幸せを尊重してやれない。
今日ほど道化師であることを恨んだことはなかった。
◇
列車で数十分。乗り継ぎのバスで終着まで。はずれにあるその街は豊かな自然に囲まれた、それでいて建物には近代化の見られる不思議な空間だった。
製薬会社が街に寄付しているのもあって、店が建ち並び、豊かな生活を送ることが出来ると判断できる。
そんな街の中心に建つのは、広い敷地を贅沢に利用し複雑な形を保っている、一際背の高いビルだった。
これが今回調査する製薬会社、ジーニアス・メディカルオフィスだった。
「お待ちしてました」
受け付け口に偽造用の名前を言うと、目当ての人物がやって来た。
グレン・ジーニアス。薬剤師にしては締まった体つきで、顔の彫りは深く、高い鼻筋に黒い髪が特徴的な若者だった。瞳の色は黒。
(東洋の血があるのかしら?)
「はじめまして。エミリー・ボルドです」
作り上げた経歴として、同じく薬剤を取り扱うキャリア・ウーマンを用意した。今回の表向きでは、グレンの会社で製造している薬剤で市場に出せそうな商品の視察……ということになっている。
目的としては見学中に中の研究員に姿を眩まし、情報を集めることにあった。
「お若いのですね。それでここまで会社を大きくして……」
「たまたま世間に受ける薬剤を開発したに過ぎませんよ。ご案内します。どうぞ」
ちょっとした空白の時間があれば他人に化けるなど容易い。数十秒もあれば十分だ。
だから焦ることはない。じっくり窺っていけば、必ずチャンスはあるのだ。
グレンによる案内は続いた。細かい箇所も丁寧に清掃の手が行き届いている屋内は清潔感に溢れ、社員も皆、挨拶を忘れない。一見すれば後ろ暗いところなど一切ない会社だ。
途中、スーツ姿の男性がファイルを片手にやって来た。
「社長。書類になります」
「ご苦労。見せておくれ」
受け取った書類へ気づかれないよう素早く目を通す。キャシーには一瞬でも見えれば暗記など容易い。だからこそ、その異常性を直ぐ様見抜くことが出来た。書類の題や内容なら、物資のリストとその送り先についてだった。
送り先は南アフリカにある紛争地域の孤児院。食料、資金、薬品、投与のための注射器等々。ここまでは通常と言えよう。
しかし孤児院に送る物資としては有り得ないものが記されていることをキャシーは見逃さなかった。
まず、研究所で使うような超大型試験管。さらに試験管に入れるのであろう培養用の液体薬品。顕微鏡、菌を培養するための機材……
名称こそ様々だが予め薬剤関連の知識を詰め込んでいたからこそ、直ぐ様それらに気付くことが出来た。
「今のは支援している孤児院への物資ですよ」
サインを終えグレンは歩く。
「そういえば孤児院や地域への支援も行ってると。お優しいのですね」
「私は孤児院で育った経歴がありまして、似た境遇の子の手助けをしたいだけですよ」
意外な発言にキャシーは「おや?」と声をあげた。
「孤児院を……」
「ええ。なので両親は養父母なんです」
「……大変な思いを……」
「いいえ、勉強は好きですし、こうして父の会社で働いて恩返しが出来て生き甲斐を感じてます」
爽やかに笑うグレンだが彼の記録に孤児院としての経歴は一切存在しなかった。過去を隠したいがために伏せられるケースもあるのだが、自ら経歴を隠していることを惜しげもなく笑って話すなど、気を抜いたのか豪胆な人物なのか。
「この街の人々にも良くしてもらいましてね。お礼も兼ねて地域の活性と安全の援助もさせていただいてるんです」
2人はビルの丁度中腹にあたる場所にたどり着いていた。ここからなら街を見下ろすことが出来る。
「街に地下シェルターを張り巡らせてましてね。いざという時隠れることが出来るようにしてるのですよ」
キャシーは目を見張った。
普通のシェルターだけでもかなりの金額であるが、彼はそれを張り巡らせてるなんて言う。良くしてもらってるだけでそこまでの寄付はありえない。
「第二次世界同時多発テロの件もありましたからね。この先、何が起きてもおかしくない。私は最善を尽くしたいのです」
「ですが孤児院の他にこんな……」
誰もが思うだろう。
普通じゃここまでしないと。
しかしグレンはそれを笑うだけだった。非常識的にも度の過ぎた行為。彼はそれを自覚しているのだろうか。
「私には必要なのですよ」
そんな言葉を放ち、グレンは端末に目をやった。丁度部下から連絡が来ていたらしい。
「少し休みましょうか」
カフェにキャシーを誘い、サンドイッチを注文しておく。呼び出しをくらったらしく、席を外すと彼は告げた。
「食べ終える頃には戻ってきますので。どうかゆっくりしてください」
うわべだけの笑顔を返し、キャシーは周囲を見渡した。
すると経理らしい従業員の女性が通りすぎた。一緒にいる同僚と、お昼に何を食べるか話し合っている。
その姿をチラリと確認し、キャシーはほくそえんだ。
丁度良い……
「昼飯行ったんじゃなかったの?」
経理部の部屋にいた男性が尋ねてくる。驚くも当然だ。先程の女性に変装したのだから。
「ええ、確認し忘れた箇所があって」
「そうかい。あ、先に飯行っても良いかな」
どうぞとキャシーは笑いかけ、一人になる。早速孤児院への援助について調べてみると、怪しい箇所は直ぐに見つかった。
先の計画書とは別の、過去の援助記録。
試験管や保存液の他に、メスや手術用のロボット等……普通、孤児院では扱うはずのない器具が大量に、しかも場合によっては名称を偽造していたのだ。
孤児院は南アフリカや中国、南アメリカ大陸様々。いずれも金を積めば戦場にも物資を届ける闇輸送会社に依頼している。
周囲に誰もいないのを確認し、キャシーは次の狙いを定めた。孤児院にこれらの物資を届ける理由を探るためだ。
彼女は流し読みをするだけで中身を理解、暗記する能力にも長けている。関連性のありそうな資料をひたすら開き、読み漁り、情報の収集に努める。その作業は10分もしないうちに終わっていた。
莫大な情報量を頭に叩き込み、小さく息を吐き出す。結局理由らしいものは見つからなかったが代わりにグレンの父の情報を集めることは出来た。
この会社を立ち上げたのはグレンの養父であった。名前はセイン。地元との付き合いは滅多に無かったが、経営の知識が豊富らしく会社の成長は順調だったらしい。
グレンが支援活動に力を入れて以来、この会社は地元からの圧倒的な支持を得ることとなった。それ以前はセインによる堅実な営業方針で会社の地盤を固めていたことになるわけだが。
パラパラと資料をめくってゆく。とにかく情報を持ち帰り、整理する必要があった。
最後の一冊をめくってゆくうちに、キャシーはあることに気が付いて手を止めた。
それは前代社長であるセインのサインが入った、とある書類だった。
彼女の顔が急に凍りつき、口は大きく開かれる。
弾けるように別の棚へ駆け寄り、経理部の過去の書類を引っ張り出した。
目当てのものはすぐに見付かったが、その事実にキャシーは己の目を疑う。
「……どういうこと……?」
結論だけを言うと、今の時点ではまだパンドラとの関わりは見出だせてない。
しかし、そんなことはどうでも良いと思えてしまうくらい、キャシーはこの会社のショッキングな事実に気が付いたのだ。
彼女が最初に気付いたのはセインとグレンのサインだった。グレンのは先程、経理の者の書類に書いていたからよく覚えている。
しかしセインの代の書類に記された彼の手書きの文字。それはグレンの筆跡とまったく同じだったのだ。
いくら親子でも筆跡がまるっきり一致するなんてありえない。必ず個人の癖がどこかで出るから筆跡鑑定が警察の調査で有効とされるのだ……
(まさか……?)
だとしたら。キャシーは目元を指で押さえ、頭を整理しようとした。
しかしそんな暇は無かった。大きく音をたてて開かれた扉。入ってきた人物は変装を解いてないキャシーへと拳銃を向けていた。
「調べものは終わりましたか、婦人……いや、道化師様、の方が馴染み深いですかね」
変装に一切のミスもなかった。どこかに手がかりとなりそうな物を落としたわけでもなかった。
しかしグレンは変装したままのキャシーへ、余裕のある笑みを見せていた。
端から見たら爽やかな青年の笑顔だろう。しかしキャシーにはなんとも表現しがたいほど、不気味で、不吉な表情でしかなかった。
「……いつから気付いたの?」
拘束される事はなく、キャシーとグレンは会社のエレベーターに乗っていた。
「最近、私どもの会社の情報を覗き見てましたよね。あの頃からです」
一見すれば人の良さそうな笑顔で語るグレンだが、つまりは最初から気付いててキャシーを入れたわけか。
騙すのではなく騙されるなど、道化師の名折れである。
グレンはキャシーに銃を突きつけたが、誰かに突き出すでもなく、ましてや攻撃の意を示すこともしなかった。
ついてきてほしい。見せたいものがある。
そう言われ、今こうしている。
「……貴女はパンドラについてどこまで知ってますか?」
パンドラ。その名前を聞いて思わず身構えそうになる。パンドラの単語を知っているだけでこの製薬会社は、グレンは黒だと判明した。
「莫大なエネルギーを産出すること……使う人が限られてること。もし扱えない人が無理にでもパンドラを起動したら……死ぬことくらいかしらね」
昴のことは言わないでおく。しかしグレンは満足そうにうなずくのであった。
「そうです。パンドラはO2が造り出した、新たなエネルギー源。ですが扱える人はごくわずか……」
エレベーターは最上階に着いた。最上階は蛍光灯に光が灯ってない暗くて不気味な雰囲気を漂わせている。
エレベーターを出てすぐの分厚い扉には光彩判断の装置が取り付けられていた。
グレンの光彩を探知し、扉のロックが解除される。中も電気がついておらず、暗い闇の中に何かの装置が作動しているのかエアコンの作動音によく似た音が鳴り渡っていた。
「ただいま灯りをつけますので、少々お待ちを」
グレンが背後で何やら探している。キャシーは機械の音とその反響から、室内の空間を把握していた。
どうやらこの室内は真ん中の一本道しか歩ける場所がなく、脇を挟むように大きな機械が並んでいるらしい。
「お待たせしました」
グレンの声と共に灯りがつけられる。
拓けた視界。明らかになる室内の状況。
キャシーは目を疑った。
両脇に並べられているのは薄緑色の液体を敷き詰めた巨大な試験管だった。中には服を身に付けていない人が試験管にそれぞれ入っており、身体にはチューブがいくつも繋げられている。肌は液体に浸けられ、青白くなっていた。
一目でわかる。これは標本ではない。
モルモット。
それぞれの首にはアルファベットと数字を組み合わせた暗号のようなタトゥーが刻みこまれている。
なによりそのモルモット達は皆……まだ年端もいかない子供達であった。
「何よこれ……」
ショックも大きかったが、それを上回る怒りに襲われる。
わかってしまったのだ。彼が、グレンがなぜ、孤児院に援助を送っているのか。
「まさか孤児院の……」
己の罪も業も全てを受け止めてなお、グレンの表情は爽やかなままだった。
「これらは皆、私が援助している孤児院の子供達です」
迷いなどなかった。身を翻し怒りに身を任せ、グレンの胸ぐらを掴み床へ押し倒していた。
下手をすれば脳震盪を起こして殺しかねないほどの力を込め、そのすました顔に向かって吠える。
「答えなさいっ‼ 貴方は……パンドラを造っているの⁉」
グレンはここでようやく笑い方を変える。口元を引きつらせ、毒々しい笑顔が眼前にあった。
追い討ちとしてさらにショッキングな言葉が投げ掛けられる。
「そうです。パンドラの製造源はヒト……O2が創設した施設で育てられた子供達ですよ」
彼女はこれまで様々な醜悪とも呼べる行いを見てきた。人身売買、臓器の不正販売、麻薬でおかしくなった人……
しかしパンドラが人から、ましてや初めて会った当時の昴と同じくらいの歳の子供達を使って出来ていたなんて。
そんな物を道具として、主力として使おうとしていた自分に。ましてや昴にそれを使わせようとしていた自分に。
怒りだけでなく憎悪さえ感じてしまった。
「なにも驚くことはありません」
仰向けに頭をうちつけられながらも淡々とした口調でグレンは続けた。
「彼らはナノマシンで全てを製造されたクローンです」
「……クローン?」
ここでグレンはからくりを説明する。
「まず最初に、クローンの元となる人の細胞を入手します。それを各地にある施設で培養し、時期が来たらパンドラに精製するのです。簡単でしょう」
頭が痛くなりそうだ。
人体実験も人体精製も、世界の禁忌でしかない。こいつはその罪を犯し、容易いことだと称している。
人間をなんだと思っている‼
「パンドラにするには一定以上の適性値が必要でしてね。これがなかなか大変でして。
適性値というのは産み出される前に投与される因子のことで、これが成長して一定以上までの定着率を見せないとパンドラになれないのですよ」
「因子……」
「定着率が規定値を超えた者は保有者と呼ばれる存在になり、パンドラ精製に使われますが……寿命が短いのが特徴でして、18~30ぐらいでしょう。環境や薬などによってより長生きも出来るでしょうが。
逆に規定以下の保有者……私達は新融種と呼んでます。普通の人と同じくらい長生き出来るのが特徴ですが、これはあまり存在しませんね。人並みに長生きできる上にパンドラを扱えるので研究のし甲斐もあるので……」
「そんな話は聞きたくないわ」
拳銃を懐から取り出し、額に押し付ける。
禍禍しい研究の価値なんて聞きたくなかった。
「それよりこれは貴方の意思なの? 貴方がO2だと言うわけ?」
グレンは目をぱちくりとさせ、可笑しそうに笑い声をあげた。
「まさか私があの方と勘違いされるなんて……!」
「なら貴方は何なの‼」
「私はあの方の手駒でしかありませんよ。あの方によって産まれ、あの方のために動く7人の使徒……」
不意に銃を握る手を掴まれた。キャシーは反射的に動く。
乾いた発砲音。弾丸はグレンの頬を掠め、静かに血を流していた。
一歩分の距離を置き、向かい合って2人は立ち上がった。
研究者とは思えない判断力と力。おそらく戦い慣れているのだろう。
「さて……何からお話ししましょうか」
キャシーはパンドラの真実に近付きます。今回はユウヤのような存在や、施設にも関わっています。また、今回はss2に出した白鳥三門……将斗達の祖先の名前も出してます。




