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最後の奪還

さて、千晶が消えました

今回は詰め込んであります

そして長かった千晶の奪還編はこれにて終了です。



「シトラニコフ大佐」



 声をかけられ、大佐は振り向いた。



「イヴァン……首尾はどうだ」

「ルスランは……失敗しました」



 部屋にどよめきが生まれる。

 シトラニコフはカッと目を見開き、口の開閉を繰り返した。

 あり得ない。計画はこれまで順調だった。このまま橘千晶は死に、ルスランはパンドラを持ち帰る。その手筈だったのに。



「バカな‼」



 机に拳を叩きつけ、唾を撒き散らしながら怒声を放つ。



「負傷した狂犬にそれだけの力は残されていなかったはずだ‼」

「ですが事実です。ルスランは死にました」

「そんな……」



 まさか狂犬にパンドラを倒すだけの余力があったとは予想外だった。

 これでは狂犬とマキシムの復讐が訪れてしまう。彼らの実力を知るだけにその場にいた全員が恐怖に震え上がった。



「クソッ……見積もりを誤ったか……」

「……」

「仕方ない……次の計画を練るか……」



 報復を恐れてシトラニコフは次の暗殺計画を建て始めようとする。

 だがそれをイヴァンは許さなかった。



「その必要はありませんよ」

「なに……?……?‼」



 扉の軋む音とともに部屋に入ってきた軍服姿の男は背に大勢の軍人とスーツ姿の面々を引き連れていた。

 皆が顔色を変える。スーツ姿の殆んどに見覚えがあったからだ。

 軍の調査委員会。これから起こることを察し、腰を抜かす者もいる。



「シトラニコフ大佐以下9名。チアキ・マキシム・モノロフ大佐の暗殺未遂、共謀の容疑で……」



 先頭を行く軍人は、殺されたはずのモノロフ大佐だった。

 その横でイヴァンは顔色を変えず冷たい声を放つ。



「この場で死んでいただきます」








「……やれやれ……ここまで計画していたならもっと早くに教えてくれても良かったろうに」



 血生臭い部屋を後にして、大佐はあきれた様子で息を吐き出した。



「すいません……こちらも証拠やら用意するのに手間取ってまして……貴方には死んでもらうフリをしていただいて……」

「ま、演技派に少々憧れていたし。私が下手に動けばややこしくなってたかもしれないからな。咎めないよ」

「そう言ってくださると幸いです……」

「それで、ティーナは……」



 彼は素直に千晶の身を案じているのだ。



「詳しい情報はまだですが……」



 イヴァンは端末に目をやり、まだ情報が無いのを改めて確認してから言い切った。



「無事なはずです。マキシムも……」








「千晶ちゃん‼ 千晶ちゃん‼」



 何度も白夜に向かって叫ぶ。しかし白夜は知らぬ存ぜぬと言わんばかりに動くこともなく紫音と向き合っていた。

 マキシムはルスランの機体と白夜を交互に見る。2つとも搭乗者の姿は見られない。



「まさか……」



 彼が考えたのはこれまで白夜のパンドラの起動実験で命を落とした軍部研究員のリストだった。どうやって死んだのか、リストには詳細が書かれておらず、当時の写真もない。

 しかしその真実が彼らと同じように姿を消してしまったものだとしたら?



「だが何故……」



 白夜のパンドラが主として認め、尚且つ起動するための因子を持つ千晶まで?



「どうして……!」



 彼の心情を代弁するかのように紫音は泣く。


 その時背後からモーター音が近付いてきた。見ると紫電とパーシヴァルに乗った橘兄弟だった。



『紫音?‼』

「将斗……!」

『千晶は?!』



 昴に尋ねられ紫音はべそをかいたように顔を歪める。それを見て2人は白夜へと視線を移し、そして中に誰もいない事を初めて知った。



『嘘だろ……』



 将斗の声に合わせて白夜の中から衣類が零れる。止血のために千晶に巻き付けた、血濡れの上着。それは紫音のだった。


 2人の息を飲む音がスピーカーから漏れた。


 間に合わなかった。誰もがそう思う。


 文字通り、まるで喰われたように千晶の姿は跡形も残ってはいなかった。



『何で……』

『僕らがパンドラを使ってもこんな事は起こらなかったのに……』

「将斗……私……」



 紫音の目から涙が流れていた。

 助けるために来たのに救えなかった。守りたい人を目の前で喪った彼女はとくにやるせない気持ちになったことだろう。その気持ちは将斗も昴もよくわかる。

 あのテロ事件でそれを知ったのだからよくわかる。


 轟音をあげて床を踏み、将斗は怒鳴る。そうでもしないと正気でいられない気がした。



『畜生……またかよっ!』

『そんな……嘘だろう……?』



 場所に悲しみが満ち溢れる。

 自分達の唯一無二の力で妹は命を落としたのだ。

 将斗が叫び、昴が呆然とし、マキシムは歯軋りをし、そして紫音は泣き崩れてしまった。

 しかしいくら泣いても千晶は戻ってこない。


 後悔、怒り、悲衰……


 誰もが諦めた。無力さを嘆いた。


 しかしそこへ、2つの足音が聞こえてきた。



「やはり……こうなりましたか……」

「千晶さんはやはり……」



 皆が反射的に声の方を向く。待機していたはずの五木と山縣が無表情のままこちらを眺めていた。



「五木さん……」

「確率は低くなったのですが……やはり……」



 その物言いに怒りを滲ませ声を荒らげた者がいた。

 将斗だった。



『なんだよ……まさかこれも予想どおりだったのかよ……!』



 昴が、紫音が目を鋭くする。もし将斗の言う通りなら彼らは千晶がこうなる可能性を知っていて、話さなかったことになる。

 怒りと殺意が立ち込めるなか、マキシムだけが五木達の声にハッとした。



「その声……」

「ええ。あの時私達の提供した場所を使っていただいてありがとうございます」

『そんなのはどうでもいい!』



 怒り狂った将斗が2人に詰め寄った。



『こうなるなら俺か兄貴のどちらかが先に乗り込むべきだった‼それを考えた上であんた達は千晶を見捨てたのか‼』

「将斗さん、落ち着いてください」

『ふざけるな‼』



 今にも殺し合いが始まりそうな雰囲気に緊張が走る。



『もしあんた達の狙いが千晶の死なら俺は……』

「将斗さん」



 山縣が先制する。



「千晶さんはまだ完全には消えてませんよ」



 訳がわからない。しかしその言葉に全員が反応した。



『何……?』

『どうして……』

「だって今も……」

「千晶さんは今、白夜のパンドラの中にいます」



 無表情のままは語り出す。



「白夜は少々特殊でしてね。従順でありながら自分の意思を持っております」

「本来ならもう手遅れですが……白夜は千晶さんをまだ手の届く所に引きとどめているのです」

「なんで……」



 紫音の問いかけだ。



「ならなぜ白夜は……」

「たとえ因子を持っていたとしても引きずり込まれるリスクがあるのです。今の千晶さんのようにね」


『「な……っ⁉」』



 そんなこと、誰も言っていなかった。

 いや、知らなかったのだ。

 知ってたら簡単に使うようなことはしなかったのに。



「じゃあ将斗や昴さんも……」

「お2人はまだ全然使っていないから大丈夫でしょう。しかし千晶さんは違った。クレムリンによる殲滅任務でパンドラの解放を……いや、乱用を繰り返してきたのです」

「そんなこと……一度も……」

「紫音さん」



 遮ったのは五木の声だった。



「千晶さんの本気を見たでしょう? 昴さんや将斗さんと違い、今まで以上に獰猛な姿を見たでしょう?

 彼女にとって、その姿は醜く、貴方達には見せたくないし知られたくもなかったんです」



 普段の任務よりもずっと狂暴で、危なげな姿。まるで自分のようではないその様子を見られることが怖かったのだ。

 だから千晶は言えなかった。話せなかった。

 日に日に自分が白夜の視界で何かを見ることとなっても、それを話せば自分のおぞましい姿について話さなければならないから。


 自分達に黙ってまで彼女は、いつ消えるかわからない不安を背負っていたのだ。


 彼女の恐怖に気づいてあげれなかった事が胸に痛みを与える。

 しかしマキシムは本題を忘れてはいなかった。



「ティーナは完全には消えてないと言ったな。なら、取り戻す術はあるのか」



 逸らしてしまった話題を引き戻した彼に2人は笑みを向ける。



「ええ。今ならまだ……間に合うはずです」



 思わず身を乗り出す。それは暗闇に差し込む一筋の光だった。

 まだ間に合う。ならば決断に迷いはない。



「どうすればいいのです?‼」



 今度は視線が紫音に向けられた。



「紫音さん。貴女が……」

「白夜に干渉し、千晶さんを引き戻すのです」



 それは途方もない提案だった。

 確かに保有者ホルダーである紫音には意識への干渉は可能である。しかし無機質のパンドラに入り、千晶の意識に干渉するなど、普通は考えないし出来るとも限らない。


 ましてややったこともない事を……



『待て』



 そこへ静かに、怒りを露に昴が割り込んだ。身内には滅多に見せない殺意を隠すこともせず、紫音を守るように前に立つ。



『それは紫音ちゃんがパンドラに触れるというわけですか?』

「そういうことになりますね」



 山縣の返しはあっさりしたものである。痺れるくらいの昴の殺気など微塵も気にせず、ただ淡々と述べた。



「言いたいことはわかります。紫音さんには貴方達のように因子が存在しません。つまり、触れればすぐにでもパンドラによって消えてしまうでしょう」



 言葉は紫音の腹に鉛のような重みを与えた。

 死と言う言葉が頭の中でうずまき、恐怖を感じさせる。

 救える手段の自分が、同じように消えてしまう。死の恐怖と生きる願望が紫音の中で待ったをかけた。



『ふざけるな』



 昴は普段の敬語を忘れ、山縣の胸ぐらを掴んだ。



『千晶を救うために紫音ちゃんに死ねと言うのか!』



 その怒りは当然だ。紫音の命を捨てるような要求をしてきたのだから。

 それは将斗も同じだった。2人が近付かないよう、紫音の肩を抱き寄せて警戒を露にする。

 だが2人はなにも言わず、ただ紫音を見るだけだった。


 このままでは千晶は間に合わなくなる。しかし自分だって死にたくない。

 迷い、頭が痛くなるほど迷い、それでも答えを出せずにいる。

 そんなとき、頭に紫音自身の声が聞こえたような気がした。


 大丈夫だよ


 その声はそう語りかけてきた。

 何が大丈夫なのか。


 わからない。


 迷ってる紫音へ、五木は静かに声をかけてきた。



「確かに……普段の紫音さんなら、死んでしまうでしょうけど……」

「……え?」



 五木の言葉は紫音の中で、宝箱の鍵を開けたようにカチリとはまった。


 普段なら。


 そこで記憶と知識が混ざり合い、答えを見出だす。


 3人には因子がある。あのルスランも、千晶の血を飲んでパンドラを動かせた。

 ルスランから彼女を取り返したとき、紫音の口は確かに千晶の傷口に当たった。その口は千晶の血を……


 ……そうか。

 2人が何を言いたいのか、ようやく理解した。


 自分には今……



『……紫音?』



 将斗の腕を外し、紫音は目を伏せて話す。



「大丈夫……」

『大丈夫って……』

「今の私には……一時的にだけど因子がある」



 だからやれる。



『バカ言うな‼ お前は因子が……』

「さっき……千晶ちゃんの血を口にしたんです」



 兄弟が「えっ」と声をあげた。しかし詳しく話す時間はない。紫音は白夜の元に歩み寄り、その腹に優しく手を添える。



「心配させてごめんなさい……でも私も……」



 もし失敗すれば自分も消える可能性がある。それは素人ながらにもわかっていた。

 だから本音を言う。



「将斗達を……守りたいから」



 大きく音をたてて装甲が割れ、赤い光が体を包んだ。

 痛い。剣に刺されたような痛みがザクザクと体に突き刺さる。

 気がおかしくなりそうだ。しかし手は放さなかった。


 こうして紫音は光へ、白夜へと誘われた。











 夜空を埋め尽くす星達と目を惹くような緑で飾る森の中、美しい湖の真ん中で白いワンピースの女性が待っていた。湖の真ん中というのに膝から上は沈んでおらず、さも当たり前と言わんばかりに彼女は座っている。



「綺麗な場所でしょう?」



 透き通った声は紫音に向けられたものだった。



「ティーナはここを気に入ってたの」



 答えず、近くへと行く。冷たい水が膝を濡らすがかまわなかった。



「私も連れてきてもらったことがあって。だから私も好きなのよ。ここ」



 女性の膝には千晶が頭を載せ、眠りについていた。つま先から腰まで水に浸かり、まるで浮いているようにも見える。

 帽子で顔が見えないが女性がこちらに笑顔を向けているのはわかった。



「ティーナったら、いつも貴方達のことを話していたのよ」



 敵意は見られない。むしろ、千晶に害すら与えないかのように彼女を好いているのだと察する。


 紫音は直感的に、その女性が誰かわかった。



「あなたが……白夜なんですね」



 今度は彼女が返事をしない。しかし白夜がクスリ、と笑う声が聞こえたような気がした。



「でも、よく来たわね。パンドラなんてただの人が触れたら戻れないんだから、普通は怖くて触れないはずよ?」

「……千晶ちゃんをここに連れてきたのはあなたの意思ですか?」

「まさか」



 白夜はすぐに否定した。



「引きずり込むのは私じゃないわ。パンドラのシステム。システムと私の意思は別なのよ」

「システム?」



 紫音がまだ理解していないことを悟ってか、白夜は「言い過ぎたかしら」とぼやいた。が、今必要なのはその説明ではない。



「ではあなたは……千晶ちゃんを死なせる気は……」

「ないわ。でも死ぬのは語弊があるかしら」



 見て、と水を掬ってみせる。澄んだ水はキラキラと星に照らされ、手の平からこぼれ落ちた。



「綺麗でしょ? でもこの水で眠りについてしまうと、二度と引き上がってこれない。ティーナは因子があるからある程度は大丈夫だけど……奥深くまで沈んだら……ね?」



 その意味はすぐにわかった。

 もう手遅れになってしまうのだと。

 五木と山縣が言っていたではないか。白夜は千晶を引きとどめていると。

 彼女が千晶にひざ枕をしているのはただの安眠のためではない。完全に沈まぬよう、こうしているのだ。



「でも何で……」



 千晶にそこまでするのか。



「簡単よ。私もティーナが好きだから。奥まで沈んだら私はもうティーナに触れることが出来ないの」

「…………」

「信じられない?」



 いたずらっぽく笑っているが本気なのだろう。白夜は千晶の額を撫でた。前髪が細い指にはらりとかかる。



「私と出会ってからのこの子の苦労は全て知っているのよ。そして私を武器ではなく友達として接してくれたわ。だから私はティーナが好きなの」

「それで千晶ちゃんが消えてしまうかもしれないのにですか?」

「それでも、よ。私だってティーナと離れたくないもの。自分から突き放すなんてしない」



 白夜はずいぶんと人間らしい思考の持ち主だ。それがこの上なく意外に思えて、紫音も白夜に対して好印象を持った。



「千晶ちゃんを……」

「ええ、返すわ。もしこのまま湖に沈めたらもう話せないもの。さっきも言ったでしょう?」

「でも、あなたはここで……」

「1人でも寂しくないの。ATCでだけど私はティーナと一緒だし、またティーナはここに来るかもしれないから。だからそうなったらまたあなが連れ戻してあげてね」



 約束よ、と付け加えてくる。無論そうするつもりだが、千晶が好きだからとはいえ白夜は優しすぎやしないか?



「私にはこの子を守る責任があるのよ」

「それは……仕事の相棒だからですか?」

「どちらかというとお姉さんとして、の意思よ。だから私、貴女のこともけっこう好きなのよ。……はい、妹のこと、よろしくね。そちら側のお姉さん」



 本当の姉はエレーナだが、千晶を思う気持ちは一緒……いや、あちらほど過激ではない。

 両手を広げ、ひざ枕をしたままだが千晶を差し出す白夜の前に行き、膝をつけ、千晶の上体を抱き上げた。まだ眠っている千晶の息が肩にかかる。



「よかった。シオンが引き戻しに来てくれて。私じゃいつまでこうしてティーナを守れるかわからないもの」



 そう笑う白夜の顔を、近くに来てようやく見ることが出来た。ロシア人らしい、綺麗な顔つきに思わず緊張してしまう。

 千晶を抱き締めたままの紫音の頬に手を添え、白夜は微笑んだ。



「貴女の能力は凄いわね。こうしてパンドラに引きずり込まれた人を取り戻せるだけの力があるのだから」



 白夜の笑顔に何故か既視感を覚えつつ、尋ねてみた。



保有者ホルダーを知っているのですか?」

「勿論よ。まぁ、貴女よりちょっと……って程度だけど」



 驚いた。まさか白夜には思考だけでなく知識まで存在していたとは。

 質問を重ねようとするがその時既に、背中を引っ張られているような感覚が襲ってきた。


 

「時間よ。貴女にはこれ以上ティーナの因子がないのだから、早く帰りなさい」

「待って……」

「あ、そうそう」



 白夜は思い出したように付け加えた。



「ティーナってあまり人前で泣きたがらないの。だからもしティーナが辛くて抱え込もうとしたら……そばで支えてあげてね。これは後輩お姉さんとしての私のアドバイスよ」

「待って……白夜……!」

「またね、シオン。ティーナを放さないであげて」



 白夜の姿が遠退く。遠退いて、小さくなる。

 見えない力に引っ張られながら紫音は千晶をしっかりと抱き締め、そして白夜の名を呼び続け……



 残された白夜は さっきまで千晶がいた膝を穴が悪ほど見つめていた。水の冷たさも、今は感じられない。



「……危ないわ。バレてしまいそうなことを言っちゃった……

 でも、まだ知らない方が良いわよね……

 今、私の正体を知ったらティーナは……」


 

 その膝に涙がポタリと落ちた。



「私と一緒に闘うのを拒むかもしれないもの」
















 薄暗い闇。なにも見えない。体が重い。

 

 声が聞こえる。知ってる声。でもどうして叫んでいるの?


 私はさっきまで何をして……



「……ん……しお…………紫音!」



 幼馴染みの声に目を覚ます。気づけば紫音の上体は将斗によって背中から抱き起こされていた。背中を逞しく、温かい将斗の体が支えてくれている。

 紫音の顔を覗き込ながら将斗は尋ねた。



「平気か⁉」

「私は……」



 何をしていたっけ。寝ぼけ眼をなんども開閉させ、ようやく思い出す。



「千晶ちゃんが!」

「大丈夫だよ」



 正面から昴が優しく声をかけてきた。



「ほら」



 千晶は紫音の腕の中にいた。なぜか胸と肩の傷は消えており、胸の中ですぅすぅと寝息をたてている。

 体は温かかった。脈も普通。


 生きている。


 それだけで熱いものが込み上げてくるのを感じた。涙が千晶の頬に落ち、濡らして行く。


 今度こそ取り戻せた。

 守り抜くことが出来た。



「よかった……」



 感極まってより強く抱き締めた。将斗が後ろから紫音の肩を抱き、昴がしゃがみこんで紫音と千晶の頭を撫でる。


 皆、目に涙を浮かべていた。



「本当によかった……」

「まったく、心配させてくれるよな」

「千晶もよく寝ていられるよ……」


















 日本に戻ってきたイヴァンを最初に待っていたのは将斗の顔面ストレートだった。

 いくら千晶のためとはいえ、黙って敵と一緒に行動していたのだから怒りはごもっともである。

 怒りはイヴァンだけでなく、五木や山縣、天田にも向けられた。



「変に隠し事をしたのは事実だ。仕事はこなすが、これからは俺達が警戒するのは当然だよな」



 さすがに隠し事の多かった今回の落ち度はこちらにあると理解していたのか、天田達は反論しなかった。

 ちなみに五木と山縣について追求しようともしたが、こればかりは話せないとの一点張りだったので彼らへの用心はより一層強いものとなったが兄妹は納得することにした。



 千晶暗殺を目論んでいた上層部は解体され、モノロフ大佐がトップとなって新たな組織を立ち上げた。

 これでクレムリンは千晶の死を企むことは出来ない。


 クレムリンへの不信も兼ねて、マキシムは日本に残ることとなった。役割はルスランの後がまで、搬送任務や千晶と同じく暗殺も行える。





 さて、橘家はというと……




『ねえ……シオン達、ティーナにベタベタしすぎじゃない?』



 TV 電話でエレーナに睨まれていた。パソコンを食卓に運びだし、将斗や昴も交えて通話したのである。



「でもエレーナ。こうでもしないと画面に4人入りきらないし……」

『その言い分はわかるわ。でもちょっとおかしくないかしら?』



 エレーナが言うのは、昴が千晶と密着しながら肩に手を置き、千晶の頭に将斗が顎を載せ、紫音は千晶の肩に頭を預けている状況を指していた。



「その……お仕事で危ない目にあったからか、昨日からスキンシップ激しくて……多分、近々治ると思うけど」

『ティー・ナ?』



 黒い笑みがこちらを見る。



『私だって貴女と触れあいたいのよ?貴方はそれをいつも拒んでるのよ?』

「それはエレーナの自立……」

『私だってティーナとハグしたりあんなことやこんなことしたいのに!

 そっちの家族には体を許してるなんて!やっぱり予想通りだわ‼私との連絡は忘れてそっちの家族とイチャイチャイチャイチャ‼』



 あげく「キィーッ‼」と泣き叫ぶ始末。



「俺、挨拶ぐらいしかしたことないけど……確かに凄い奴だな、お前のロシアの姉……」

「エレーナは千晶ちゃんのことになるといつも……」

「何だろう……僕、彼女と仲良くなれそうな」



 最後のは似た者同士のシンパシーだろう。

 散々わめき散らした後、エレーナはふと千晶の方に目をやった。



『そういえば危なかったって……ティーナ、体は大丈夫なの?』



 さっきとはうってかわって真面目に千晶の心配をしてきた。本当を言うとけっこう危なかったのだが千晶は強がってみせる。



「ダー」

『そっか……よかった』



 そうしてエレーナは優しく微笑みかけた。

 彼女は絵に描いたモデルのような女性である。要は美人である。



「……残念な美人とはこのことか……」

「…………(あれ……?)……」

「ギャップの差も……どこか親近感を……」



 ちなみに昴も残念なイケメンだ。何度でも言おう、似た者同士だ。シンパシーだ。








 その夜、千晶の部屋で紫音は尋ねた。



「その……怖くなかった?」



 死にかけ、パンドラに呑まれたのだ。

 しかしあっさりとした答えが返される。



「ニェット。戦場で怖い経験なら沢山してきたから」

「でも……」



 普段の無表情な顔に、日常を取り戻せた安堵感と一抹の不安がこみあげる。

 


「……本当に?」



 そう尋ねると千晶の表情は無と同時に陰りを見せた。

 重たい空気が流れる。緊張した面持ちで千晶を見つめる紫音と、暗い影を浮かべながらも黙りこくる千晶。

 その肩が僅かに震え……



「白夜のが怖くなかったのは本当……でも……」

「…………」

「ルスランは私に執着していた。あのまま捕まってたら……多分、私は……レーナのような酷い目に遭ってた……」



 それは彼女と、ロシアの姉共通のトラウマだ。

 

 肩を震わせ、でも視線を合わせようとしないのは多分、紫音の前で虚勢を張ろうとしているから。


 しかし紫音はそれを許さない。


 千晶の肩に腕を回すとそのまま抱き寄せ、肩に顔を当てさせる。



「……泣いて良いよ……」



 紫音の肩に収まるくらい、最強の狂犬の体は華奢であった。



「怖いのは……死ぬことだけじゃないんだから……」

「…………」



 その言葉を受け、千晶は紫音の脇腹あたりの裾を掴み───



 声をあげて泣き始める。





 橘家のある住宅地ではあまり星が見れない。

 しかしようやく、千晶は思いっきり泣くことのできる場所を故郷で見つけることが出来た。











「………白夜は人らしい思考の持ち主らしいな」

「そうですよぉ、天田さん」

「………まさかだとは思うが……」

「今、天田さんが考えていることはわかっているつもりです。なのでイエス、と答えましょう」

「………」

「が、今はこちらも気になるのでしょう?」



 紫音が調べあげた、マンションのデータ。そしてそれとは別に今回や問われていた暴力団のデータ。それらを見比べ、天田はため息をついた。目に疲労の色を滲ませ、重々しく肩を落とす。



「………また将斗達の反感を買いそうだ」

「大丈夫です。これはあくまで、内部の一部によるものです」

「その一部が誰か、問題はそこですよ」



 天田は五木と山縣に目をやる。



「………で、お前達の予想はついてるのか?」

「勿論ですよ」

「近いうちに将斗さんは強敵と当たります。ですが千晶さんを生かせたことでまた新しい展開になるでしょうね」



 2人の顔を見ても何を考えているのか、天田にはわからなかった。



橘千晶奪還編を読んでくださりありがとうございます。

今回、いくつかの謎を明らかにさせていただきました。

将斗達の持つ因子、パンドラのリスク、そして白夜の自律性

白夜にある千晶の防衛意識は、彼女から基づいたものです。なので今までの動きは千晶からの命令だけでなく、白夜の意識によるものでした。



ついでにネタバレをしておくと、最後のエレーナとの会話で紫音は彼女に疑問を抱いております。しかし紫音はすぐにそれも忘れているのです。





さて、本編はこれで終了しますが、天田達に動きがありますよね。次回、2回目のSS編となりますがそれ以降にこの動きは本格化します。

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