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思い合い、探り合い、すれ違い

紫音と将斗が喧嘩しちゃいます。




「はぁ……っ……はぁっ……」



 黒服の息は既に絶えていた。それでも将斗は怒りのままに蹴りつけ、ひたすら暴力をふるう。連なる衝撃を受け、手足は鉛のように重くなり、額からは大粒の汗が流れ出ていたが構わなかった。この程度の痛み、今ごろ千晶が受けているものと比べれば小さなものだ。

 残虐な腹癒せを見て辟易しつつも、ルスランはその右肩を掴むようにして引き留めた。



「マサト、情報はなかったんだ。これ以上は……」

「黙れっ!」



 その手を振り払い、何度も黒服の体を痛め付けた。相手がもう動かない存在と化しても怒りは振るわれ続ける。



「くそっ、まだ千晶の場所すら……わからないってのに!」

「マサト‼」



 将斗!


 ロシア人のルスランの声が、千晶のそれと同じように聞こえた。妹に呼び掛けられたような錯覚に襲われ、反射的に動きを止める。

 そうだ、兄も怒り狂っているというのに自分まで冷静さを欠いては千晶を救えない。なにより近くにはイゴールとルスランがいる。千晶暗殺に関与している疑いが強い今、彼らの前でこそ落ち着いて対応する必要があるというのに。



「さすがに拷問で殺してしまうのはまずいよ……」



 黒服の遺体を眺めるルスランが言う。どこか気まずそうな顔つきだ。



「情報を得る前に殺してしまうなんて……お前らしくない」

「……悪かった……」



 これは心からの謝罪であった。自分の独断で捕虜を死なせてしまった以上、今後の調査で他の皆に迷惑をかけてしまうからだ。

 深く息を吐き出すと少しだけ、理性が取り戻されたような気がした。


「ティーナを心配する気持ちはわかるが……そんなヤワじゃないよ」



 将斗は肩で息をしながら頷いた。



「……ああ……そうだよな……」



 そうして最後に付け足した。


 すまない、と。








 帰りの車の中はお通夜のように沈んだ空気に充ちていた。兄弟は互いに目を合わせるでもなく、これといった会話もなしに、ただ流れる景色を横目に見ていた。



「……将斗は……天田悠生の出身を知っているかい?」



 運転席の兄が静かに尋ねる。助手席の将斗は頭を向けた。



「……いや?」

「……陸軍中野学校。戦前より設立され、スパイや工作員を輩出してきた……まぁ、スパイの養成機関だね」

「戦時中の中野くらいなら知ってるさ。映画にもされたしな」

「…………」



 ハンドルを握る手に僅かだが力が込められる。ミラーに写る昴の目は険しくなってきた。



「戦後の日本は情報戦だけでも優位に立とうと、財閥の力を借りて中野学校を再度設立した。主な目的は世界情勢の調査・害を為す因子暗殺……」

「あのジジイが、その中野学校の出身だって話か?」



 驚いた眼差しが一瞬だけ、将斗に向けられた。



「……気付いてた?」

「いや。ただ、あれだけの暗殺技術や情報力。それにATCを……パンドラを持ってたんだ。個人の財や情報網でどうにかなるはずないとは思ってた」

「驚かないんだな……」



 まさか、と鼻で笑う。



「こんなことになって、驚くだけの余裕がないんだよ」



 それもそうか。昴も小さく笑った。



「で、その出身がどうかしたのか?」

「ああ、今の中野学校のバックには日本の財閥……アクアフォレスト・カンパニーが関わっている。天田の今までの指令も……発信源はその財閥だった」

「…………」

「財閥はこれまで天田に任務を指示していた。だけど今回、千晶の件に関して……財閥は予想していなかった。なのに天田は今回の事態が起こりうる可能性を知っていた」



 将斗の眉間にしわが寄せられる。隠し事の多い天田だが、知っててそれを阻止せずに回ったという現状が信じられないと言わんばかりに。



「ジジイが……なんで?」

「あらかじめ言っておくと、予想をしたのは別の存在だった。天田はその予想者を完全に信じることが出来なかった。半信半疑だったんだね。そしてその予想者は……山縣さんと五木さんだ」


 

 将斗の手がピクリと反応するも、とりわけ騒ぎ立てる様子は見られなかった。千晶を奪還したい焦りが、それどころではないと訴えかけてくるのだ。再び流れる沈黙を乗せ、車は橘家へと向かっていった。





 玄関には灯りがつけられたままだった。中にまだ紫音が起きているのだろう。せめて気不味い空気を悟られないよう、アイコンタクトで確認し合った後にドアを開ける。

 リビングのソファには紫音が座っていた。とっくに深夜と呼べる時間だが、将斗達が帰ってくるのを寝ずに待っていたらしい。

 申し訳ないことをしたかな。そんな罪悪感を胸に留め、兄弟は平然を取り繕った。



「ごめんね、紫音ちゃん。待たせちゃったね」



 寝不足なのか、うらめしそうな目がこちらに向けられる。



「……おかえりなさい」

「ただいま……って、紫音ちゃん、まだ寝てなかったんだね」

「そうみたいだな。もう休んだ方がいい」



 幼馴染みに隠し事をすることに気が引けるものの、ここでやり通さねば意味がない。

 胸に突き刺さるチクチクとした痛みを振り払うかのように、精一杯の演技で乗り切ろうとする。


「任務だったから心配かけさせちゃったな。悪い……」


「僕らは無事だし、大丈夫だよ」


 紫音はまだ千晶の件を知らないのだから。


 そんな2人を黙って見つめた後、紫音はぎこちない空気に楔を打ち込むかのような言葉を投げ掛けた。



「千晶ちゃんは……無事なのですか?」



 刹那、リビングに冷たい空気が走る。

 彼女はまだ知らないはずだ。そう思っていたのだが、紫音が嗅ぎ付けたのだとすぐに察することができた。


 背中を伝う冷たい汗が気持ち悪い。


 しかし無闇に情報を提示するわけにもいかず、2人は無理な演技を続ける。



「千晶? 連絡はないが……あいつなら無事だろ」

「今ごろどこで油売ってるんだか」

「将斗の携帯を覗き見ました」



 直球で投げつけられ、ついに笑顔が硬直する。紫音がハッキングのプロだということを忘れていた。彼女なら将斗の携帯を回線を使って盗み見る事など朝飯前なのだ。

 失念していた。普段から一緒にいるからこそ、紫音が端末を盗み見るような行為はしないと思っていたが、彼女も自分達同様、3兄妹になんらかの危機が迫れば危険を省みず突っ走る傾向があるというのに。


 僅かな時間を置いて何かが氷解した。

 見られたのならこれ以上取り繕うのは無理だ。ばつが悪そうに表情を曇らせる2人を見て紫音は、まだ千晶を取り戻せていない事を察知する。



「やっぱり…」

「…………」

「……安否はわかっているのですか?」

「…………」



 答えることのできない2人を見て紫音の顔から血の気が引いた。そのまま詰め寄ると、真っ直ぐ視線を合わせたまま将斗の左手を握り出した。

 一見すれば、答えを求めている様にも見えるだろう。将斗や昴もそう思っていた。


 だが紫音の額から変な汗が流れ始めるのを見るなり、鋭い兄弟は気付いてしまう。

 彼女は人の意思を読み取る能力を持つ保有者ホルダーだ。こうして触れるだけで人の記憶や思考を知ってしまう。最近はスイッチの切り替えに慣れ、他者の記憶が逆流してしまうなんてことはなかったが、自らの意思で読み取ろうと考えていたなら……!


 気付いた時にはもう遅く、読み取りを終えた反動で紫音の体はその場に崩れ落ちようとしていた。


 慌ててその華奢な体を支える。将斗の腕の中で激しい吐き気や悪寒に悶えながらも紫音は自分の脚で立とうと踏ん張っている。



「大丈夫? 紫音ちゃん‼」



 ゼエゼエと荒い呼吸をしながらも彼女の頭の中ではこれまでの詳細が整理されていた。



「……やっぱり……」



 兄弟の不安げな眼差しを受けるも、紫音にはそれに答えるだけの余裕なんてない。


 知ってしまったのだから。千晶が捕まり、生死がわからない中でこの2人は足掻いている。



「無事だなんて……嘘じゃないですか‼」



 彼女は滅多に怒らない。本気で怒るとするなら、初めて千晶を救出したときに怒鳴ったあの時ぐらいだろう。

 しかし今回は千晶の負傷、拉致を隠されたあげく、自分には何もさせないつもりの態度に腹を立て怒りのあまり鋭く剥いた眼で睨み付けていた。

 こうなっては誤魔化しなどきかない。流石に申し訳ない気持ちに苛まれながらも紫音を説得しようとした。



「クレムリンには君の存在はまだ広められていないんだ。ここで君まで動いたら、奴等に君の事がバレてしまう。そうなったら紫音ちゃんも危ないんだ」

「隠していて悪かったが……千晶は必ず俺達が助ける。だからお前は待っていてくれないか」

「そんなの……私だって皆が好きで守りたいから、同じように危険な任務だってこなしてきたんですよ⁉私も……」

「ジジイだってお前を加えるつもりはないんだ。お前がロシア側に狙われる可能性を危惧している。わかるだろ?」


「それでも……」


「紫音!」「紫音ちゃん‼」



 食い下がる紫音に、将斗と昴の叱責が飛ぶ。

 紫音は普段こそ物わかりの良い幼馴染みだからこそ、こうして強い口調でも使わないと引き下がらないのだ。

 厳しい態度に気圧され、ようやく紫音の猛攻がストップする。


 その肩を強く握り、将斗は息を吐き出した。


 お互い、完全に冷静さを失っている。そんな状態で彼女まで任務に投入したらどうなるかわかったもんじゃない。

 だからここだけでもクールになって、紫音を引き留めよう。これ以上家族を失うリスクを減らすべきだと考えた。

 たとえ彼女を傷つけたとしても。


「紫音……見たならわかるんだろ?敵はロシアのクレムリンだ。イヴァンだ。お前が任務に参加したら奴らの標的にされる可能性だってある。

 そうなれば俺達は千晶だけでなくお前も守る必要がある。だとしたら千晶を救出できる可能性が低くなるのは……わかるだろ?」


 その眼に絶望の闇が走るのを将斗は確認した。

 これでいい。傷つけたとしても、それで彼女が無事でいられるなら。



「もう俺達は誰も失いたくない。あの事件でバラバラになったのをようやく取り戻せたんだ。これ以上奪われるのは……もうごめんだ」



 肩から手を離す。紫音の体はつついたりでもすれば今にも倒れてしまいそうなほど力が抜け、表情は悲しみの色で塗りつぶされていた。



「それは……戦えない私が……足手まといってことですか?」



 返答に詰まってしまった。彼女の本領は後方支援であり、それに至っては心強い味方だ。

 だが前線に巻き込まれたら……



「……ああ……そうなる」



 胸を締め付けるような罪悪感を、精一杯の演技で隠しとおす。

 吐き捨てられた言葉を受けた紫音は最初こそ呆然とし、やがて眼に涙を溜め始めた。

 潤んだ瞳を前に狼狽えそうになるも、将斗と昴はそれを冷酷なフリで受け止める。



「私……」



 唇を震わせながら訴えてくる。



「3人みたいに戦えないけど……同じように命をかけて皆を守ってきた……そう思っていました……」



 それは事実だよ。そう言えたら、言われたら、どれだけ救いがあったことか。



「将斗達がもう誰も失わなくて済むように……私だって将斗達を死なせたくないから、今まで一緒に頑張ってきたのに……」



 そうだよ。誰も失いたくない。



「なのに……私には命をかけてでも皆を……守る権利すらないのですか‼」



 悲痛な叫びは2人の心を抉った。

 後方支援だって命がけの仕事だ。敵にバレたら真っ先に狙われてしまう。だから紫音の言葉を否定し、違うんだよと話せば彼女だって取り乱すことはなかったはずだ。

 だがそれでも無言を貫く2人を前に、紫音は絶望の色を一層に深めてしまった。否定してほしかったのに肯定の態度を取られ、千晶を救うための手助けも許されない今、不安と怒りと悲しみの入り交じったこの感情は止まることを知らない。

 涙を数滴床に落とし、紫音は2階へと逃げるようにして駆けていった。

 残された兄弟は互いに気まずさを感じながら、紫音がいなくなった以上保つ必要のない平然なフリを解くことをしなかった。



「……ごめん」



 先に昴が口を開く。



「謝るなよ、気持ち悪い」



 両者の表情にも、言葉にも、感情と呼べるものは一切なかった。



「今みたいな汚れ役は僕が引き受ける役だった。君が紫音ちゃんを傷付けることになってしまって……」

「俺が逆の立場でもそう思ったよ」



 床に落ちた滴を虚しそうに眺め、ため息を吐く。

 もし将斗が紫音と同じように戦える力を持っていなかったとしたら、きっと同じように食いついたろう。そして無力な自分を呪ったに違いない。たまたまATC を扱えるか、戦闘能力があるかないかの違い。

 第二次世界同時多発テロの時、誰も守ることが出来なかったあの時、ひたすらに己の無力を呪った。そして今も、千晶を救えずにいる無力さを恨みがましく思っている。

 紫音だって同じはずだ。今ごろ、闘うことの出来ない無力さに涙を流しているに違いない。


 俺達は皆、無力だ。


 やがて虚空を仰いで力のない声で呟いた。



「でも、あいつに嫌われるのは……流石にへこみそうだ」



 こうして紫音と喧嘩をするのは初めてかもしれない。


 裏話


 紫音を任務に加えたらルスランがクレムリンに報告し、向こうが彼女を狙うと天田達は考えました。隠してもイゴールがいるから無理じゃね?と思われるのですが、彼は無闇に情報を流す男ではないことと、五木&山縣の頼み(理不尽)により、口止めをされてるのです。

 さて、紫音を突っぱねた兄弟ですが吉とでるか凶となるか。


 ちなみに次は小話集みたくなるので翌日掲載します。

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