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メモリアルエピソード・千晶



 チアキ・アベルツェフ。それがロシアで得た名前だ。


 クレムリンに入って暫くしたが、アベルツェフ家が自分を引き取りたいと申し出たときはかなり驚いたものだ。


 ルキー二シュ・アベルツェフ。アベルツェフ家の大黒柱であり、元軍人でもある。


 とにかく一度家族を失った千晶がまた家庭を持つということは、狂犬を外に放つと言うこと。戦力として重宝される彼女を手放したくないクレムリンは渋るのではないかと思っていたが、意外にも申請はあっさりと通った。

 手配をしてくれたのはイヴァンだった。彼は上層部に何度もかけあい、千晶が家族を持つことの重要性を説いたらしい。


 手配はすぐに終わり、晴れて千晶は極寒の地ロシアで新たな家族を持つことになる。


 しかしいくら相手方が熱望したとはいえ、少女がアベルツェフ家に馴染むのは簡単ではなかった。






「………ナ………ティーナ」



 呼び声に応じて千晶は瞼を開ける。外は漆黒の夜を迎え、止んだ雪は月明かりに照らされ輝きを放っていた。

 気温は既にマイナス10度を下回り、さらに冷え込んでくるがロシアでは当たり前の寒さ。車の後部座席で革の帽子を被り直す千晶にイヴァンは具合をうかがうように尋ねてくる。



「もうすぐ着く。今日の任務もご苦労だった」


「今日は遠い場所だったからかな。長時間の輸送車移動は疲れたよ」


「輸送車がこんな外国車ならまだ楽だったろうな」



 軽口を言ってイヴァンは前を見る。少し離れた先には民家が並び、暖かそうな光が見えていた。



「この辺でいいよ。降ろして、イヴァン」



 アベルツェフ家からイヴァンの護送でクレムリンに合流し、任務をこなす。これが今の千晶の生活サイクルだ。

 だが帰りは道中で降りたがる千晶を、イヴァンは不安そうに見つめる。



「疲れてるのだろう。今日は……」


「いいの。今日も歩いて帰りたい」


「………そうか。確かに今日は星が綺麗だからな」


「知ってる?イヴァン。日本では星が綺麗っていうのは告白に使うらしいよ?」


「ティーナ……それは月、だ」



 小さく笑いながらもイヴァンは車を停めた。

 次回の任務の時間だけを伝え、イヴァンは車を走らせる。人気のない雪道には千晶だけが残された。


 白い吐息を眺めてから千晶は歩き出す。柔らかい新雪は簡単に踏み潰され、彼女の足取りを残していた。

 広大な大地はどこまでも広がる世界のようで、町外れになるとそれは強調される。


 雲ひとつない空には満天の星々。日本では見ることのなかった幻想的な空間に今、自分は放り出されている。

 雪を踏む音が遅れて聞こえてくる。肌を刺すような寒さも今では慣れてしまった。

 任務の慌ただしい雰囲気も戦場でしか嗅ぐことの出来ない硝煙の匂いも、新しい家族の面々と過ごすときの居心地の悪さもここには存在しない。


 コートの襟を立てて、千晶は足跡を残していった。








 メスを手にした男が上に股がっている。何かを叫んでいるが薬を使っているのか呂律はまわっておらず、ただ自分に害を与える人種としか認識していなかった。

 叫ぶ言葉の中に、テロ国家の名前が聞こえてくる。

 それで相手がテロ国家の人員だと幼いながらに理解した時、自分の中で何かが音をたててキレた。

 子供だからと油断していたのだろう。メスを握る手はあまり力が入れておらず、かじりつけば簡単に落とすことができた。

 そこから先は自分の意識が獣のそれに変わっていた。ただ無我夢中で落ちたメスを拾い上げ、男の手を切りつける。


 男が悲鳴をあげた。追撃を許さず、その首を切り上げると、鮮血が噴水のように………








 木組みの屋根を仰ぐようにして千晶は毛布を払いのけた。

 外はまだ暗く、雪が降り始めている。飾り気のない部屋にはクローゼット、机、ベッドが用意されているが、千晶はそれらを使ったことはない。

 任務に即応出来るよう、指定の服や道具は段ボールに入れてあるし床にマットを敷いて毛布を被れば寝る場所には困らない。段ボールは机がわりにもなる。

 用意されているものを使わない時点でひねくれものと思われがちだが、千晶としてはどうしてもそれらに手を出せなかった。


 ドアがノックされる。


 入ってきたのは3人。うなされていた声に気付いてきたのだろう。自分を見る顔からは家族を思う温かさがある。



 だが。



 エレーナ・アベルツェフ・ルキーニシュナ



 ブロンズヘアの少女だけは、千晶を心配する反面、憎悪にもよく似た複雑な表情でこちらを見ていた。

 この暗い部屋の中、少女達の視線は確かにお互いに向けられていた。







 小さな手にすっぽりと収まるのは、ナイフの柄か銃のグリップ。


 渇いた発砲音と耳をつんざくような機械の破裂音。


 声はみな、任務でつかう単語や悲鳴、命ごい。





 銃がないならナイフで闘え。


 ナイフがないなら食器で殺せ。


 それすらないならペンでもいい。


 何もないなら身体で闘え。殺せ。


 貴様達ならそれができる。


 ロシア最強のザスローン部隊をも上回る力。


 貴様達クレムリンにはそれがあるのだから。






 訓練生だったときに教官が何度も唱えた言葉だ。任務中は呪文のようにそれが頭の中で蘇っては消えて行く。


 隣で仲間が通信報告を終える。今回の任務が終了を迎えようとしていた。



「さすがティーナ。対象のほとんどは持ってかれたよ」



 感嘆、尊敬、羨望。


 仲間達のそんな視線を受け、千晶は背後を振り返る。


 道端に転がる死体は血にまみれ、死体と化した彼等がかつて乗っていた車輌は大破し、道端の小さな崖で黒い煙をあげている。漏れだしたオイルは雪に染み込み、車輌は小さな火を灯す。もうすぐ爆発し、遺体は焼き消されるだろう。


 千晶の手には血染めのナイフ、そして銃口が熱くなったマシンガンが握られていた。




 輸送隊が来るまでの待ち時間、待機場所で千晶と仲間は腰を下ろした。遅い朝食として、支給されたレーションとピロシキを出す。普段はレーションのみだがピロシキが入っているだけ今回の食事は豪華なものだ。


 まあ、冬の寒さで冷めきっているが。



「ティーナ、タバコくれないか」



 歩哨を終えた仲間が戻ってくるなり千晶に声をかけてくる。彼女が支給されるタバコを吸う人間ではないとよく知っているからだ。

 開封もしてないタバコを取り出し、仲間に向かって放る。そして彼の持つピロシキを指差した。千晶もまた、彼が任務を終えたら食欲が減退するのを知っているのである。



「よく食えるよな。俺なんてまだ食欲が湧かないのに」


「マキシムは近接戦が下手だからね。長期戦に持ち込まれて、血とか肉片とか余計見えたりするんじゃない?」


「飯時にそういう単語出すなよ………」



 レーション片手に「おえっ」と嘔吐するような仕草をしてみせてから、ピロシキにかぶりつく千晶を見る。

 彼女だって多生の返り血は浴びてはいるが、他の仲間と違ってその汚れは圧倒的に少ない。相手が死んだかなどあらためて確認することはしない。それは一見、しぶとく生きていた人物に背後から襲われる危険を露見しているように感じてしまうだろうが、近接戦で人を殺しすぎた千晶だからこそなせる業。


 息を吸うように相手の息の根を確実に止める。確認しないのは慢心ではなく絶対的な手応えがあるから。


 俺はその領域には達してないよ。仲間はそう笑ってみせる。そして上空を仰いだ。

 

 降下してくるヘリはクレムリンの輸送機。

 狩りを終えた彼等を迎えに来たのだ。



「新しい家はご飯出ないの?」



 機内にて2つ目のピロシキを食べる千晶を見て、隣に座る少女は首をかしげていた。



「出るよ。料理も美味しい」


「外の料理を知ったら支給品なんて食べれたもんじゃないって、先輩が言ってた」


「慣れたからかな。これも美味しいよ」



 私にはわからない、と少女は呟く。砕けた笑みを浮かべマキシムは割り込む。



「ティーナみたいなコミュニケーション能力の低いやつは新しい家では居場所がないんだ。ごはんは皆で食べたら美味しいってよく言うだろ?こうして俺達と一緒に食うのが楽しいんだ」


「すごく失礼なことを言うよね、マキシムは……でもティーナ、本当なの?家で居場所がないの?」



 子供ならではのオブラートに包むということを知らない、ストレートな聞き方。

 それがなぜかおかしなことのように思えて、くすりと笑ってしまう。



「そんなことはないよ。いい人達だよ。新しい家は……一応、ね」


「ほら、マキシム!ティーナにも居場所はあるんだよ、一応は!一応は!!」



 君もなかなか失礼だよ。2度も「一応は」と言う辺りで。


 外を眺めているとマキシムは少女には聞こえない程度の声で聞いてくる。



「でもお前の新居のリストには目を通してる。………本当に大丈夫なのか?」



 彼等がリストを見たのは千晶も知ってはいる。アベルツェフ家の事情もあらかじめ聞かされていた。

 だからマキシムが何を心配しているのかも察しているつもりだ。

 


「大丈夫だよ」



 それ以上何かを言われる前に目を閉じる。マキシムは追及をしてこなかった。


 


 アベルツェフ家で千晶に与えられた部屋は日本での兄妹部屋よりも広い、立派な作りだ。

 クローゼット、ベッド、机………それらは千晶が来たときには既に綺麗で埃ひとつついていなかった。

 クローゼットの中にはいくつか、子供の服がかけられていた。しかし千晶が着るにもエレーナが使うにもサイズは小さく、机の引き出しには小さなガラスのアクセサリーがいくつか保管されていた。

 まるで千晶とは別の女の子を迎えようとしているようにも思えた。



 決定的になったのは後日、アベルツェフ家のリストが手渡されたとき。


 4年前、テロ国家としての独立を宣言した小規模の武装集団がモスクワの美術館を襲撃した。

 死者は120名。そのほとんどが学校の見学旅行に参加していた子供達だった。

 犠牲者の名簿のコピーの一部がリストに貼り付けられている。


 

 アリシア・アベルツェフ・ルキーニシュナ




 当時10歳にしてエレーナの姉だった少女の名前がそこにあったのだ。

 アベルツェフ家は未だにテロ国家によって娘を喪ったことから立ち直れていない。その証拠に、千晶が今使わせてもらっている部屋にはかつて住んでいたアリシアの名残が強く残っているのだから。


 アリシアはきっと帰ってくる。それまでの間、千晶という代用品で忘れようとしているのだ。しかしアリシアを忘れられないからこそ、エレーナは自分に複雑そうな表情を向けるのだろう。



 居場所なんて結局はないのだ。



 仲間に嘘をついたことを心の中で謝罪し、千晶は窓の向こうを見る。任務で破壊した敵の車輌は爆発からの炎上がすでに収まっていた。死体はもう形も残ってはいるまい。







 今日はイヴァンが食事に来たため、夕飯はかなり豪勢なものになっていた。大黒柱のルキーニシュはイヴァンと仲が良いため、酒を飲みながら昔話に華を咲かせていた。


 イヴァンが帰った後はシャワーを浴び、それぞれが寝床に着く。明日の任務の確認をした後、千晶も部屋に戻った。

 部屋と言っても居場所ではない。段ボール2つとベッド代わりのマット。寝泊まりするためだけのスペースだ。


 机もベッドもクローゼットも使わない。使えばきっと、自分はアベルツェフ家の人たちの大事な何かを壊してしまいそうな気がするから。


 亡くなった娘を待つくらいなら最初から自分を引き取らなければ良かったのに。


 暖かい室内。美味しい手料理。そして家族の団欒。

 ここにいる時間は、人殺しから離れている時間だけは。どうにも馴染めそうにない。

 マットに潜り込み、千晶は瞼を閉じた。





 恋しいのだろうか。今でも見るのは無くしたはずの家族の夢。とにかく笑っていた日々。兄たちの眩しい笑顔を追いかけるように手を伸ばす………


 すると伸ばした手は熱い血に塗れ、明るい世界には影がスーッと入り込む。足元にはたくさんの死体が転がって………



「っ!」


「きゃっ⁉」



 寝ている間も人が近付いたら起きるよう、夜襲の対策として気配の察知は敏感になるまで磨きあげられていた。だから何者かが千晶の傍にしゃがみこんだときには無意識にも近い状態で跳ね起きて、その喉に手を突き出していたのだ。

 伸ばしかけた手を止めて目を凝らしてみると、寝間着姿のエレーナだった。千晶の迫力に完全に圧され、腰の力が抜けたらしい。脚はだらしなく投げ出されていた。


 どうにか落ち着こうと肩で息をする。自身の服が汗でぐしょ濡れになっているのに気がついた。

 またうなされていたのか、自分は。



 エレーナの怯えが手に取るように伝わってくる。



 ああ、やってしまった。








 その日の朝食は殺伐としていた。アベルツェフ夫妻は気まずそうにしてパンを食べ、エレーナは千晶を避けているかのように朝食のタイミングをずらし、既に登校の準備を終えていた。

 昨日は善意で近付いたのに殺されかけたのだから仕方ない。


 いつも通りの美味しい手料理のはずが、味を感じられないのはなぜだろう。



「ティーナ」



 ルキーニシュが皿を片付ける千晶を呼び止めた。

 テレビでは丁度、女子を狙った強姦殺人のニュースが流れている。



「帰ったら話があるんだ」



 その表情は堅く、大事な用件なのだろうとすぐにわかった。







 黒い車は白銀の世界を走って行く。座り馴れたはずのシートなのに今日は違和感さえ感じられた。



「今日は来るの、遅かったね……」


「すまないな。途中でエレーナに会って、声をかけていたんだ」



 エレーナの名に反応し、千晶の眉がひそめられたがすぐに戻る。



「じゃあ説明は不要だね」



 千晶は揃えていた両足を投げ出した。



「私の荷物ならこの車に収まるはずだから」


「昨日の事なら聞いたが、まさかルキーニシュが君を追い出すはずは……」


「断言できる?」



 イヴァンはなにも言わない。


 家族を喪った過去から立ち直れていない一家。新しい家族である千晶には喪ったアリシアの存在を重ね、それでいて距離感に戸惑っている様子さえみられる。


 千晶という存在に見限りをつけたら、あとは別のアリシアを見つければいい。



「とにかく帰ったら私も一緒にルキーニシュに説明しよう。だから……」


「もういいよ、イヴァン……」



 窓に頭をコツリとあてる。ひんやりした感覚が今は心地よかった。



「もう疲れた………」



 自分を偽り、隠し通す日々はこの上なく難しかったように思えてきた。これなら普段の人殺しのほうがもっと楽だったと思うくらいに。


 家族ってこんなに疲れるものだったか?


 ふぅっ、と息を吐く。窓に写る自分の顔が曇り、見えなくなった。









「ティーナ……もしルキーニシュが……」


「良いよ、その時は私も受け入れるから」


「しかし………」


「いいの。決めたから」



 今回も早く終わることが出来た任務、早々に切り上げてはアベルツェフ家の待つ町に向かう。車内は今朝と同様、重々しい空気が漂っているが千晶はかまわず今後の予定を頭の中で組み立て始めていた。


 クレムリンの隊舎は住み慣れたこともあり、再度あの生活に戻っても苦には感じないだろう。むしろ家族なんて幻想に囚われないだけマシかもしれない。


 そう思った時、千晶の頭の奥がチクリと傷んだような気がした。


 兄達との記憶と、なぜかエレーナの顔がちらついていた。




 アベルツェフ家の前に車を停めたとき、イヴァンに通話状態にした携帯を手渡した。ここから先はまず自分一人で行く。もし千晶の予想する勘当が通知されたらこの携帯から聞こえてくる会話を聞いたイヴァンが乗り込むつもりだ。

 本当にいいのか?そう問いたげな素振りのイヴァンに対し頷いてみせ、千晶は車を降りた。



「?」



 肌寒い空気も雪の冷たさも伝わってくる。しかしそれを上回るかのような違和感が千晶に殺しのプロとしての寒さを与えた。



 何かがおかしい。



 車がないところからして、夫妻はまだ帰ってきてないのだろう。エレーナはわからないが………






 玄関に近付こうとして気づく。


 新雪の上に足跡が散乱しているのだ。おそらく大人2人くらい。足跡は踊ったかのような不規則な動きをしていたことを匂わせる。そして玄関へと続いているのだ。


 ヒヤリ、と首筋を寒い風が過った。


 ゆっくりと玄関の前まで行く。ドアノブに手をかけた時、千晶の違和感は確信に変わる。




 鍵がかかっていない。



 そして中から人の気配がしないのだ。



 扉を開けた先には、まったく荒らされていない様子の屋内に、内玄関には置き捨てられたリュックとコート。片方だけの靴が散乱していた。


 いずれも、エレーナのものだった。










「家のどこにもいないところからすると、連れ去られたと見て間違いない。おそらくは自宅に着いた直後か………」



 車内で待機する千晶に報告し、イヴァンはアベルツェフ夫妻へと連絡を取り始めた。千晶はそれを確認してから近くの道を、そして周囲を見渡した。

 胸の奥から不快感を通り越した何かが爆発しそうになっている。その何かは千晶の思考を明らかに妨害していた。



(なんでこんなにカリカリしてるの?私……)



 もう腹を決めたはずなのに。2度と会うことはないだろうとさえ思ったのに。



「ティーナ。夫妻は無事だ。やはり連れ去られたのは……」


「イヴァン。今私達が来た時、怪しい車はあった?」


「無かったが……」


「この町は2方向しか出入りが出来ない。私達が来た時、反対側にタイヤの後はなかった。それでいて私達は怪しい車は見かけていない」



 千晶が気づいたことなど、イヴァンもとっくに知っているはずだ。



「ああ。間違いなくまだ町内にいる……しかももうすぐ日は沈み始める。連れ込むなら街中の山か………」



 千晶はこの辺りの地形を思い出していた。既に目星はいくつかついている。



「行こう、イヴァン」



 アベルツェフ家から追い出されるのはその後でいい。今はただ、エレーナの命が危ないのだ。

 さっきまで割りきると決めたくせに誘拐が発覚したとたん、激しい苛立ちと助けたいという意欲が燃え上がっている自分に疑問は覚えない。



 意識は狂犬に切り替わりつつあった。






 目星さえつけば捜すのは難しくない。足跡からして、あまり時間は過ぎていないようだった。いくつか山がある場所をあたり、そこにタイヤ痕も足跡もなければ、次へと行く。


 そして4ヶ所目に行ったとき、ようやく見つけることが出来た。



 乗り捨てられたように残地されたワゴン車。複数の大人の足跡。




 ドクン、と大きく胸が脈打つ。



「イヴァン………私が片付けてくる。事後処理の準備をお願い」


「わかった……」



 銃は持ち合わせていなかったのでナイフとワイヤーしか武器はないがそれだけあれば十分に闘える。

 息を切らすことなく山道を一気に駆け上がる。


 頭を過るのは家族を失うきっかけとなったあの日。あの時千晶はただ泣いて逃げ回ることしか出来なかったが今はちがう。

 手遅れになる前になんとしても救う。



 あんな思いをするのはもうたくさんだ。



 クレムリンで鍛えた体力と山を走る技術。それらをフル活用して山の2合目に達したとき、ようやく見つけることが出来た。


 それと同時に息を呑む。



 散乱する女の子用の服。1人の少女を取り囲む複数の男。


 その中心にいるエレーナは冬にも関わらず身に何も纏うことなく、ただ虚ろな眼をして横たわっていた。

 胸が動いているところからして、生きてはいるが、女性としては既に手後れなのは目に見えていた。


 生きている。それに安堵するはずが、千晶の頭は絶望に近い何かに塗りつぶされていた。


 パニックを起こすのは久しぶりだ。


 しかも、あの時と同じようなパニックは。


 唇が乾き、震えが止まらない。



 泣き叫ぶあの事件の被害者達。逃げ惑う人々。


 そして入院先で自分を強姦しようとまたがる、メスを握った男の醜い笑み。


 体中を電流が走り、怒りは理性を食らいつくした。


 迷うことはない。


 ただ怒りに身を任せ、ナイフを手に襲いかかる。最初に狙ったのはエレーナにまたがる男だった。


 気配に気付き、男達がこちらを見る。しかし気付いたときには既に怒り狂った獣は顎を開いて目の前まで迫っていた。

 鋭いナイフが男ののど笛を突き破る。他の男達は何が起きたのかわからず、ただ仲間が崩れ落ちる様を唖然として見ていた。


 間髪入れずに手近にいた男の顔を蹴りあげ、首に腕を回し、捻るようにして組伏せる。着地ついでに側頭部に肘を突き立てておいた。



「エレーナ!」



 虚ろな眼をした少女はビクッと肩を震わせ、こちらを見た。千晶の怒鳴り声で意識を取り戻したらしい。

 男達が怯んでいる今なら、彼女を連れて逃げ出せば安全を確保できる。


 

「早くこっちへ‼」



 手をエレーナに向かって伸ばす。エレーナも手を伸ばして……


 しかしエレーナの目の色が変わった。

 その千晶の手に男の返り血がべったりついていることに気付いた瞬間でもあった。



「嫌………近づかないで‼」



 バチン!と弾けたような音が鳴る。差し出した手には痺れるような痛みが僅かに残っていた。

 何があったのか、千晶も理解に時間を要した。

 しかしエレーナの手が自分の手と繋がれていないことでようやく、彼女が手を叩いたのだと察する。


 なぜ?


 真っ先に頭の中で出た言葉はそれだった。


 なぜこの男達に酷いことをされたのに逃げようとしないのか。なぜ助けに来たのに拒むのか。

 なぜ、私がこれまでに殺してきた人達と同じように脅え、恐れ、命乞いさえしそうな哀しい顔をこちらに向けるのか。


 その時千晶は自分の体に染み込んだ血の匂いを感じた。いくら洗っても流れ落ちることのない、人殺しの証。



(ああ、そっか………)



 ようやくわかった。


 びくびく脅えながら千晶を見るエレーナ。これ以上近付いたら彼女はきっと、全身全霊をもって千晶を拒む。



 今、彼女エレーナの中では彼女を犯した男達も、そんな男達を刺し殺した千晶も、同じような存在なのか。



 自分を正義の味方と思ったことはない。ましてや戦場が仕事場の千晶にとって、善悪を区別する概念はどこにもない。何が正しいのか、いちいち考えていたらその隙に殺されてしまうからだ。


 だから殺される間際、相手が自分を詰るようなことを言っても憎悪の感情を向けても痛みなんて感じなかった。


 いや、違う。

 麻痺していたのだ。罵声も憎しみも、受けてゆくうちに。

 これが任務だから。殺さなきゃ殺されるから。そう言い聞かせていくうちに心は麻痺していたのだ。



(じゃあなんで………)



 家族エレーナに拒まれたことにこんなにショックを受けているのか?



「?‼」




 意識が空白になった瞬間、男の1人が千晶を背後から捕らえた。普段ならかわしてカウンターを入れたところだがそれも間に合わず、千晶の体は雪の上にうつ伏せに倒された。


 見た目は普通の東洋系の女の子だが、仲間の1人が殺されたのだ。放っておけば自分たちも殺されると男は本能で理解する。



「この……クソガキがああああっ‼」



 男がナイフを降り下ろす。ナイフの先は千晶の頭に向けられていた。



「っ………!」

 


 しかし千晶は惑わされることなく、まだ余裕のある左腕を、体を捻って出す。千晶の左腕上腕部にナイフが深々と突き刺さった。雪の上に血が飛び散る。



「なっ⁉」


「ぅ………ああああああああああ!」



 男の右手を掴み、その掌にかじりつく。男の小指がもげて、掌の肉が千切れるのがわかった。



「ぎゃああああああああああああ!」



 兵士でもない彼らは、体の一部を失っても戦意を喪失させない術なんか知らない。他の仲間は千晶が吐き捨てた男の指を見て顔を青くさせているが、千晶は止まらなかった。

 浮いた男の体の下でさらに体を回転させ、左目に親指を突き刺す。眼球を狙う訓練では抉り出し方も学んでいた。


 さらに沸き上がる悲鳴。痛みにもがき苦しむ男の声は寒空を震わせていた。


 ようやく男の下から抜け出したとき、千晶の顔は、服は返り血で濡れていた。

 ずいぶんと下手な闘い方をしたものだ。我ながらそう思う。 


 エレーナはさらにガタガタ震えながら千晶を見ているが、それを見ると自分がスーッと冷静な意識を取り戻していくのがわかった。


 腕のナイフを抜きとり、刃を見る。あまり手入れはされてないが、この男達を殺すには充分だった。


 ナイフの面に写る自分の顔は既に血に飢えた獣の顔。そういえばこの顔、どこかでも………



「……ああ」



 そうだ。初めて人を殺したときの……


 あの時は自分が犯されそうになって殺った。

 そして今は、エレーナが犯されて……


 記憶と現状は静かに、しかしより激しい怒りを千晶の中で爆発させた。


 男達は既に脅えきって、逃げようとさえしている。



 テロリストは嫌いだ。家族を奪ったのだから。

 そしてエレーナを犯した彼らは……女の体を弄ぶだけの男達はもっと嫌いだ。



 千晶はナイフを手に男達へ向かう。

 ここから先はただの虐殺だ。

 しかし自分を抑えることはもう出来そうにない。



 雄叫びをあげ、男達の命を無惨に食い荒らしながら狂犬は思う。



 そして、奴らと同じような自分はもっと嫌いだ………と。







「良いのか?本当に」



 病院に送り届け、その駐車場に停めた車の中で傷の応急処置をする千晶にイヴァンは問いかけた。

 千晶はコートを着ていない。衣類を皆引き剥がされたエレーナに渡したのだが、エレーナは千晶の名を呼ぶことはなかった。いや、その時口を開きかけてはいたが結局はなにも言わなかった。それだけ千晶への恐怖が強かったのだろう。



「かまわない。私はもう、あの家に帰れないから」


「それは建前だろう。本音はどうだ?」



 包帯を千切り、千晶はため息を吐く。



「家族なんてものに期待したこと、後悔してる……もう……嫌なの」



 思いを計るようにイヴァンは千晶を見つめていたが、やがて



「そうか……なら荷物は私が引き取りに行こう」



 と言ってくれた。





 本日は入院してくださいと医師に言われ、質素なベッドが用意された個室で体育座りをしながらエレーナは膝に頭を押し付けていた。

 消毒液の香りがツンと鼻にくるが、男達の汗の臭いと血の色が頭から離れない。

 今日は友人宅で急遽パーティーをすることになっていた。だから学校から帰って家を飛び出したとたんに連れ去られ、暴行を振るわれたと思ったら今度はティーナが………


 手を振り払った時の、千晶の表情がフラッシュバックする。



「レーナ」



 病室の扉が開かれる。驚いて震えるエレーナの元にやってきたのはイヴァンだった。



「具合はどうかな」


「イヴァン……」


「ティーナのコートを引き取りに来たんだ。失礼するよ」



 籠に入れられた血塗れのコートをイヴァンは取り上げる。腕の裂けたヶ所を見ると、胸が締め付けられるような痛みを覚えた。



「ティーナは……」


「怪我なら大丈夫だ。ティーナはナイフで刺されたくらいじゃ死なない。鍛えているからね」


「………」


「それともエレーナを嫌いになったか、という意味だったのかな?その質問は」



 エレーナの指先が微かに動くのをイヴァンは見逃さなかった。



「だって……」


「昨日の夜の件は今朝、君と会ったときから聞いている。それに今回も、落ち度は君を怖がらせたティーナにある」


「………」


「だから今のうちに私に謝らせてくれ。ティーナの担当でありながら君達家族に負担をかけてしまったことを」


「負担だなんて、そんな‼」



 予想外かな、今にもベッドから飛び降りそうな勢いだったのでそんなエレーナの両肩を宥めるようにおさえる。



「意外だな。君がティーナを擁護するとは」


「あの子は私達の……」


「家族だからか?君達を騙していたのに?」


「だって………」



 エレーナは足元に目を落とした。



「帰ってきても全然喋らないし、笑わないし、夜はいつもうなされて……なのに何も話してくれない」


「意外と見てるんだな……だが君はティーナが嫌いになったのでは?」


「そんなこと……」



 ない、と喉まで出かかる言葉を飲み込むのがイヴァンにもわかった。

 千晶の殺気に、狂犬としての顔を垣間見たのだ。エレーナが脅えるのも仕方ない。

 単なる喧嘩ならまだ改善の余地もあったろう。しかし人殺しはまた別だ。他人の命を奪うような人間と知ってその人への感情が変わらない方が珍しい。


 それを知っているからこそイヴァンはここにいる。



「そういえば君には見せたことがないかな」



 そう言って取り出したのは千晶が貸したままの携帯だった。

 ロシアに来てから何度か機種は変えているが、メモリーカードに残している画像データだけは昔と変わらない。


 データに残されていた画像を開き、エレーナに手渡す。それを見てエレーナは目を見開いた。



 幼い頃の輝かしい思い出はそこにあった。

 兄達と一緒になにかを食べ、遊び、泣き、思いっきり笑う千晶。

 それはエレーナ達の知らない千晶の顔だった。

 死や奪われる恐怖を知らない、無邪気な子供。誰もが一度は迎えるはずの宝物のような時期…………



「信じられるかい?」



 面影はいまも強く残っている。大きな瞳に細い眉筋。


 だが写真にある、甘えるような目でこちらを見る様子など………明るい笑顔など、今のティーナからは想像もつかなかった。

 


 この無邪気な子が一人で男達を殺した、あのティーナ?



「テロ事件で家族を失なわなければ……きっとティーナはまだ、こんな毎日を送っていたのだろうな」


「………………」


「人を殺した人間は基本、2つのパターンで狂う。1つは殺したことに味をしめ、さらに殺す狂人。もう1つは罪の意識に苛まれ、狂う人だ。前者は手の施しようがない。しかし後者は………」



 そこまで言ってイヴァンは耳元に口を近付けた。



「君は……ティーナはどっちだと思う?」



 人殺しを好む狂人


 人殺しに苦しむ狂人



「ティーナをどちらとして信じることができる?」





 ベッドの布団は床に落ち、サンダルは消えていた。そこにはさっきまでエレーナがそこにいたことを示している。


 携帯電話はエレーナが持ったままだが、おそらくは千晶の手元に戻るだろう。

 あまり笑う人間ではないがイヴァンの口は確かに、優しく微笑んでいた。



「……やっぱり、君は愛されてるよ、ティーナ」



 自分も千晶を実の家族のようにして愛しているからわかる。

 過去のショックとこれまでの環境、そしてしばらく家族との幸せを味わうことが無かったから、気付けなかっただけだ。


 あとはエレーナが癒してくれるだろう。






 車の暖房は効いているのに寒い。気候のせいだろうか。

 諦めたはずなのに胸にぽっかり穴が空いたのか、スースーと風が通り抜けるようで体が冷たくなる。


 ウィンドウにこびりついた雪のせいで自分の表情はまだ見えない。頭の中では「これで良かったの?」と何度も自分が自分に問いかけてくる。



「……うるさいなぁ」



 誰もいないのに千晶は呟いた。



「もう疲れたのに……」



 ウィンドウにくっつけていた頭をずらしてシートに全体重を乗せる。頭には重いなにかが振動となって伝わってくるような気がした。



 視界をずらすと、ワイパーで何度もクリアになる世界で一生懸命に走っている少女の姿が見えた。


 あり得ない光景だった。

 いくら現地の人が寒さに慣れてるとはいえ薄っぺらい病院服で、雪が降るにもかかわらず足は病院のサンダルのみ。寒さにかじかんできたのか柔らかそうな肌は真っ赤になっていた。


 胸が痛いくらいに締め付けられる。



「どうして……」



 どうしてそこにいるの?


 もしかしてショックから立ち直れなくて?


 薄着のままエレーナが公道に向かって走り出す。


 あんな目にあったのだ。その時の事を思い出していつ発狂するかわからない。今だって気をおかしくして飛び出したのかもしれないし。



 気付けば千晶は車から飛び出していた。



 衰弱していたエレーナに追い付くのは簡単だった。

 手が届くまであと数歩といったところでエレーナが振り返る。その両手に握られていたものを見たとき、千晶は彼女が飛び出した理由に気づいた。同時に後悔が押し寄せる。彼女は自分を探しに来たのだ。自分から姿を見せるなんて、間抜けにもほどがある。

 握られていたのはイヴァンに貸していた携帯だった。中には千晶の宝でもある思い出が詰まっている、大切な家族との記憶。


 あまり走っていないのに息を切らすエレーナを見て、一瞬だが、日本にいたときの大好きだった幼馴染みの姿が重なったような気がした。



「ティーナ……」


「………エレーナ………」



 僅かに息を呑んでから千晶は声をかけた。



「どこに行く気?病院に戻らないと」


「ティーナはどこへ行く気なの?」


「私は帰るよ」


「帰るって、何処に?」



 口をつぐんでしまった。

 極秘レベル最大級、ロシアの特殊部隊の基地です、って言えるはずがない。



「前までいた場所」


「逃げる気なの?」



 エレーナが何のためにここに来たのかは知っている。しかし何を言おうとしているのかは予想も出来なかった。


 逃げる気かと問われても、自分が何から逃げようとしているのかすらわからない。


 逃げるって、何から?


 私は今、逃げてるの?



「逃げてるじゃない‼私が声をかけても俯いたまま!挨拶以外何も言わないし、笑いもしない!何も聞いてこないし、泣きもしない!私達から逃げてるじゃない‼」



 突然まくしたてるエレーナはそれこそ、事件のショックで気をおかしくしたとしか思えないほどの声量で千晶を責めた。

 一言一句、彼女の言葉を聞いていくうちに胸が痛くなる。

 確かに自分はアベルツェフ家の人と距離を置いてきた。


 だが痛みの原因はそれではない。


 ロシアで出来た家族と、こんなに話したのは初めてだ。


 世間から見ればまだあまり話してない部類だが、それでもロシアに来てからここまで話したのはエレーナが最初。


 それなのにこんなシチュエーションで、こんな喧嘩みたいなやり取り。


 日本に居た頃、将斗もこのようにして急に叱ってきたっけ。


 どうして忘れていたのだろうか。


 家族と喧嘩する時、興奮して理性を失いそうになる瞬間


 意見を聞いてほしくて泣きじゃくっていた自分


 なぜ忘れていたものが、エレーナを前に取り戻されつつあるのか。



 あの頃の自分は事件で、長きに渡る過酷な訓練と戦場での生活で死んだとさえ思っていたのに………


 もう疲れたとさえ思っていたアベルツェフ家との毎日に怒りさえ感じる。



「エレーナだって……エレーナ達だってそうじゃない‼アリシアの証拠ばっかり残した部屋を用意して‼それを私に使わせて‼

 私じゃなくてアリシアでしょ!皆が見てたのは‼」


 

 エレーナの眼が強く見開かれた。次に悲しそうに細められる。

 これは失言だった。千晶はアベルツェフ家の事情を知らないふりで過ごしていたからだ。しかし頭に血が昇った今、そんなことは気にしない。



「パパはまだ話してないって言ってたのに……知ってたの?」


「事件についてはイヴァンから教えてもらっていた………私はアリシアじゃない。私をアリシアの代わりにするつもりで引き取ったなら、もうやめて」



 これ以上はお互いが傷付くだけだから。


 おそらく既に自分はエレーナに見限られている。これ以上は追及してこないと千晶は確信していた。



「そうだよ……私達はアリシアが死んだ時の辛い気持ちを今も引きずってる。パパは軍人の仕事を辞めたし、ママは毎晩泣いている。私だって、ふとしたときにアリシアが帰ってくるんじゃないかって期待することがあるもの」



 確信していたからこそエレーナが怒ったその瞬間を千晶は忘れない。



「でも………ティーナをアリシアと同じなんて思ったことはない‼ティーナはアリシアと違ってお喋りじゃないし食べ物の好き嫌いもない‼表情もわかりづらいし落ち着きすぎて、こっちが話しかけるタイミングがわからないくらいよ‼」



 認めるのかと思っていた。思っていたのに、エレーナの答えはまったくといっていいほど予想外で、否定の理由もどこか斜め上。呆気に取られるあまり、格闘戦で頭に打撃を受けた時のような目眩を覚えてしまう。



「何を言ってるの………?」


「そのまんまだよ‼ティーナはわかりづらいんだよ‼何をしたいか、どうしてほしいか!

 何をすれば喜ぶのか、何しているときが楽しいのか‼好きなもの嫌いなもの、ティーナはそれが全然わからないよ!

 わからないからアリシアが好きだった服やアクセサリーで喜ばないか、試してみた‼いつも魘されているから何の夢を見ているのか気になってた‼

 ティーナは自身のこと何も教えてくれない!教えてくれないからわかんないよ‼」


「そんなの嘘だよ!いつも私を邪魔そうに見ていたくせに‼さっきだって私を……」


「それは私が悪かったけど………初めて人が殺されるのを見たんだよ⁉驚かない方がおかしいじゃない‼」


「う………

 ………でもどうせ今日、私を追い出す気だったんでしょ?」



 千晶が何を言っているのかわからないといわんばかりにエレーナは口を開けた。そしてじっくりと意味を噛み砕くかのようにゆっくりと、言葉を紡ぐ。



「それ……パパが言ったの?」


「……今朝は、大事な話があるって言われただけ……でもそれしかありえないじゃない」



 昨日はエレーナを傷つけかけたのだから。

 切りつけられた腕の痛みを無視して強く拳を握る。滲み出た血が筋となって、固く握られた拳に流れ落ちるが力んだ体は思った通りには力加減を変えることを出来そうにない。


 戸惑ったようにエレーナは何度か口を開きかけ、強く閉じる。

 今になってようやく寒さを感じたのか、自身の体を抱き締めるようにしてポツリポツリと語り出した。




「私の通う学校にね、セルゲイって友達がいるの。お調子者ですごくバカみたいな奴だけど……友達思いで、私がティーナとの関係で悩んでいるときはいつも励ましてくれた」


「………何を………」


「ヴェリアは」



 遮るようにエレーナは続ける。



「弟妹が沢山いるから、私にティーナとの接し方でアドバイスをくれたの。姉らしく見守れ、って。ティーナが助けてほしいって言ったらすぐに手を差しのべなさいって言ってくれた。

 ターニャは勉強好きで、ティーナに勉強を教えるんだって意気込んでいる。

 ユリアはティーナと会ってみたい、一緒に遊びたいっていつも言ってるの。誰かと仲良くなるのが好きみたいで。今日だって………」



 その時エレーナが持つ、千晶の携帯に着信があった。メールのようだ。送り主の名を見て驚いたように目を開いた後、エレーナは千晶に携帯を向けた。


 送り主はエレーナの名前。しかし彼女の携帯は病院の中だ。そうなると誰かが彼女の携帯を使ってメールを送ったことになる。

 イヴァンの存在が脳裏にちらついた。しかしそんなことはもうどうでも良い。



「え………?」



 千晶にはそれしか言えなかった。


 送られてきたのは写真だった。千晶の知らない、でも同い年くらいの少年少女が華やかな紙を切りながらこちらを向いて笑っている。

 紙で作っているのはパーティーに使うような飾り物ばかりだった。

 その飾り物の中にはロシア語で「ようこそ」と書かれたものもある。

 彼女らが作業している場所は同じ机が沢山あることから、学校だと察することが出来た。


 この人達がエレーナのクラスメイトだろう。

 しかしこの飾り物は………?


 千晶の疑問に答えるようにエレーナは話した。



「今日はパパに頼んで、ユリアの家につれてきてもらうつもりだったの……」


「私を……?何で……」


「だって……」



 寒さで白くなった息を吐き出しながら放たれた言葉



「ティーナの歓迎パーティーだったから……アベルツェフ家の新しい家族として、皆に紹介したかったから」



 声だけならこの寒空にかき消されてしまう。しかし言葉は千晶の胸へ、溶けゆく雪のように染み込んでいった。



「………嘘………だって………」


「皆は私を通じてティーナを知っている。パパもママも参加するつもりだった」


「でも私は、皆を知らない………」


「これから知っていけば良いよ。皆、ティーナと会えるのを楽しみにしているんだから」


「でも私………」



 歓迎パーティーなんてされたこと、ない。


 パーティーなんてクレムリンの難関任務を成功させた時か、潜入任務でしかやったことがない。


 ましてや自分のためなど………


 いつしか視界はぼやけ始めていた。意識はしっかりしているのに、世界が揺れている。



「私……もう仕事以外のことなんてわからないよ……友達も家族も、長いこといなかったんだから」


「その時は私が教えるよ。私だけじゃない……パパもママも皆も、きっとそうする」


「仕事の事は話せない。私は皆と距離を作っちゃう」


「話さなくていいよ。それでも仲良くなることなんていくらでも出来る。仕事以外のティーナのことも、もっと知りたい」


「ルキーニシュに追い出されるかもしれないんだよ?」


「そんなことしないって。もしパパがティーナを嫌っても、私が守るから」


「皆は私を不気味に思う」


「だから言ったでしょ。皆、ティーナに会いたがってる。不気味に思うなら会いたいなんて、思わないでしょ?」



 会ったこともない自分と出会うことを心待ちにしている人がいる。


 自分を認めてくれる人がいる。



「私達はアリシアを喪った時から辛いままだけど、ティーナをアリシアの代わりになんて思わないし思ったことはない」



 橘千晶という自分を見てくれる人がいる。


 エレーナは千晶に歩み寄った。あと一歩でも踏み出せばぶつかるくらい近くに。



「……私を助けてくれたティーナも………いつものティーナも………ひっくるめて私達の家族なんだよ?」



 視界がぼやけているからだろうか?エレーナも泣いているように見えるのは。


 エレーナの手が千晶の頬に添えられた。

 罰としてビンタや拳は何度も受けたことはあるが、ここまで優しく、温かい手はいつぶりだろうか。



「ごめんね……ティーナ……突き放して………誤解させて。家族なのに………辛かったよね」



 声は涙と謝罪で震えていた。


 同時に彼女の気持ちが掌を通じて伝わってくる。

 急に出来た新しい家族に戸惑っていたのはエレーナも同じだった。それでも千晶と仲良くなるべく、姉としてあるべく、彼女も悩んでいた。


 あの瞳は嫌悪ではなかった。


 どう接しようか迷い、悩み、苦悩していた色。

 それを勘違いして敵意と読み取ってしまうほど、自分は追い詰められていたのか。


 馬鹿だ。


 家族であるエレーナに教えてもらうまで、彼女がこんな目に遭うまで、それに気付けなかったなんて。

 エレーナの腕が首にまわされた。こすられた頬を通じて熱い涙が顔につく。


 涙が付いたヶ所が熱い。


 頭がただ熱い。



「……ごめんなさい」



 千晶の声も震えていた。

 互いの誤解は初めての姉妹喧嘩でひもとかれ、静かに降る雪で洗い流されてゆく。


 必死にとどめていた2人の理性まで流すようにして



「でも………家族なんだから……勝手にいなくならないでよ!バカティーナ‼」


「ごめんなさい……」


「もう嫌だよ……大事な人が急にいなくなるなんて嫌だよぉ‼」


「ごめんなさい………ごめんなさい………」



 真っ白な雪を体に受け止めながら、姉妹は泣き合う。

 今にも溶けて消えてしまいそうな儚さの中、初めて心通う瞬間を実感して。


 ごめんなさい……

 気付けなくて、傷付けてごめんなさい。


 闘いに狂った犬の人間としての心は、新雪の中でさらけ出されていた。







 随分と懐かしい夢を見た。

 あの家に引き取られた頃の、苦くも輝かしい思い出。

 あの事件がなければ自分は誤解をしたままアベルツェフ家を離れ、今も最前線で殺戮の限りを尽くしたろう。

 家族との再会もなかったかもしれない。

 いや、出来たとしても紫音の言葉が胸に響いたかどうか。

 そうなれば自分はあの燃え盛る屋敷で命を落としていた。



 残された人の気持ちを


 大切な人をもう失いたくない気持ちを



 随分と自分は姉たちから教わってきたものだ。

 1名は戸籍的にも姉ではないのだが………



「……目を覚ましたら頭を抱える紫音ちゃん、いたから………何事かと思えば………」


「うう………ごめんなさい………」



 人の気持ちや記憶を読み取りすぎると頭痛や体調を崩してしまう幼馴染みは、昼寝をしていた自分に触れて記憶を読み取っていたらしい。


 こういうときの言葉は日本語を勉強しているから知ってる。



 ジゴージトク、だ。


 いくら体質をコントロールしたいからって、寝ている私の記憶を読む?普通。



「………何の記憶を見たの?」



 不安になり聞いてみると、紫音ちゃんは頭に手を添えながらも優しく笑ってくれた。



「優しい記憶だったよ」



 優しい記憶………?



 最初こそ首をかしげる千晶だったが、やがて何を見たのか悟ったように目を開き、そして頬笑む。団欒を楽しむときの彼女の笑いかたに安堵し、僅かだが紫音は頭痛が和らぐような気がした。



「水、持ってくるね」


「平気だよ。千晶ちゃんにはいつも面倒かけてるし、私も下に戻るから」



 そう言って部屋を後にする紫音の姿に、ロシアに残してきた姉の背中が重なって見えた。


 私だって、いつも面倒かけてるんだよ。


 胸のうちで苦笑いをしながら千晶はもう1人の姉を見送る。



 今日は本当に懐かしい夢を見た。



 もう一度眠りにつけば、見ることが出来るだろうか。


 あの屋敷の中で紫音が怒鳴ったときの記憶を。もうひとつの懐かしい思い出を。


 生きる理由を教えてくれた2人の姉達


 紫音が触れていたのだろう、片手にはあの時頬に添えられたのと同じ温もりが残っていた。



 昴の奇行にあわてふためいた紫音と将斗が、兄の部屋を捜索すると騒いでいるのが聞こえてきたのは、それからしばらくしてのこと。


 いつものか。


 微かに笑い、千晶は部屋の扉を開けた。


 さあ、行こう。

 1階で騒いでいる家族のもとへ。


ss編は一部として終わります。

次回から新章『you are friend』編になります。

将斗の学園生活での姿を描いた作品になります。

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