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夜の兄妹


 ーーー

  まぁ、橘さん、いらっしゃい。将斗くんもよくきたね。もう4歳になるのよね、


  やっぱり将斗くんはいい子よねぇ、元気があって、兄妹思いで……橘さんが羨ましいです。



  将斗くん、近所ですごく人気者なんですよ。友達もたくさんいて、いつも皆のリーダーなんですって。先生は将斗くんをえらく誉めてるって……橘さんも親として嬉しくないですか?


  …………うちの……そうですね、あの子は勉強は出来るんだと思います。でもあの通り内気な性格でして……ほら、以前、将斗くんを連れていらした時、あの子すごく抵抗して、隠れてしまったんです。まったく……誰に似たのやら……


(その口が微かに動く)


  ホントウニ、アンナノガワタシノムスメナノカシラ



 ◇



 目を覚ますとタンクトップにショートパンツというラフな格好に身を包んだ千晶が、紫音を見下ろしていた。相変わらずの無表情だが本気で紫音の身を案じているらしく、その瞳にはかすかに動揺が走っていた。


「……千晶ちゃん……?」


 夜中の2時。見覚えこそあれど、自分のではない部屋、布団で眠っている自分……

 そこまで思考が追い付いたところで紫音は思い出した。あの後、橘家に泊まることになった紫音は千晶の部屋で就寝したのだ。


 が、あの夢を見ていたということは………



「……うなされてた?」



 答えを聞くまでもなかった。借りていたパジャマは汗でベトベト。手先は微かに震えている。千晶に心配かけないようにと笑いかけたつもりが、ひきつった笑みしか浮かべることが出来ない。


 この症状は小さい頃からのものだった。



「ごめんね、千晶ちゃん……いつも……」



 千晶は顔色をうかがった後、膝から立ち上がる。



「飲み物入れてくるから。少し待ってて」



 ◇



 キッチンでお湯を沸かしている千晶の表情に相変わらず変化はない。


 コンロの青い火がその黒い瞳に揺らめく。

 そして彼女の背後には影が……



「ちーあきっ!」



 影の主が千晶の背に抱きつく。



「昴兄ぃ、危ないよ……急に抱きついたら」

「危ないのはそっちさ。熱湯の入ったヤカンを人の顔面に押しつけちゃいけないって教わらなかったかい?」

「昴兄ぃこそ、兄弟相手でもセクハラは犯罪として成立するの、知ってる?」

「ロシアの大地のように広い心で許してもらえないかな……というより、躊躇なくそうやって危険なものを突きつけてくるのは流石だね。僕は君のお兄ちゃんなんだよ」

「嫌いなものは嫌い」



 熱湯満タンのヤカンに触れるのは洒落にならない。昴の表情には笑みが絶えなかったが、千晶に抱きつきながらもヤカンを押し返す腕には筋肉が張りつめていた。掌がプルプルと震えている。


 千晶も本気で兄の顔に火傷を負わせるつもりはなかったのか、おとなしくヤカンを引っ込めた。


 昴も抱きつくのをやめ、妹の手元を覗きこむ。



「ココアか……いーなぁ、お兄ちゃんもほしい」



 演技がかった兄からの要求に何も言わず、黙々とココアを作り始めた。



「でもこんな時間に?」

「……女の子の会話に、飲み物はつきものだから」

「ガールズトーク? いいなぁ、僕も混ぜてほしい!」



 こんな返答がくるなら無視するべきだったか。

 

 そんな千晶の心情は露知らず、昴はニコニコと笑顔を向けてくる。千晶は大きくため息を吐くと、手元のマグカップにお湯を注いだ。そしてそれを昴に押し付ける。


 頭の上に「?」を浮かべる兄に、千晶は言う。



「あげるよ」

「良いの?」



 妹が淹れてくれたココアを手にして顔を輝かせる昴。変態な兄だが素直に厚意を受け取って喜んでくれるのは千晶としても悪い気がしない。



ダー(うん)

「嬉しいよ。ありがとう」

「どういたしまして」



 それだけ言うと千晶は背を向けるなりスタスタと歩いてしまった。



(ま、仕方ないか……)



 千晶のそんな愛想の無い反応に怒ることはない。

 寡黙でこそないがあまり喋る妹ではないので、むしろ今日はよく喋った方だ。


 ココアを一口啜りながら、自室へ戻る。


 彼の部屋は本がびっしりとならんだ大きな棚が両端をうめているせいで、少し狭く感じてしまう。

 しかし昴はこの狭さを意外と気に入っていた。

 本棚の間にある安楽椅子に腰を下ろし、机から携帯電話を取り出す。それと同時に電話がかかる。


  1コール、2コール、3コール、4コール……


 相手が出るまでの間、ココアを飲んで待つ。千晶が淹れてくれたココアは甘さ控えめであるが、体を芯から温めてくれた。



『遅かったわね』



 英語で電話に出たのは良く通る、凛とした声だった。



「最愛の妹にココアを淹れてもらってたんだ。美味しいよ」



 ヘラヘラと笑いながらココアを啜る昴も英語で話している。



『良かったわね。ところで仕事なんだけど……』

「飲み終わるまでまっててくれないかな」

『わかったわ、それじゃあ飲みながら聞いて』



 容赦のない口調だが昴も顔色ひとつ変えない。この声の主とのやり取りには慣れている様子だった。



『今、札幌に中国のテロ国家[香龍会]の戦闘員が潜伏してるわ』

「へぇ」



 昴の口調は、これから始まるゲームの解説を聞くような、ワクワクを隠せない子供のように無邪気で、なのにどこか客観的で、

 

 氷のように冷たい感情を含んでいた。



「情報収集の依頼? それとも暗殺?」



 まるで遊びの誘いを受けたような態度。



『後者。でも下手したら暗殺よりも戦闘の方がありえるわね』

「諜報機関らしからぬ選択肢だね。暗殺はともかく戦闘は一番愚かな行為だと教えたのは貴女だろう」

『柔軟性を大事にしろ、とも教えた筈よ。それに戦闘になっても問題ないよう、MI6は貴方専用のアレを用意したのよ』

「アレ、ねぇ……」



 昴はマグカップのココアをゆらゆらとまわしながら微笑む。ギラギラとした、狂気に近い眼差しだった。



「正直、今の生活になってからアレを使うことはないと思っていたのだけど?」



 ◇



 同時刻、将斗は小樽の港駅近くにある海岸沿いの倉庫で、コーヒー缶を啜りながら言った。この倉庫は元々、食品の保管に使われていたらしいが将斗の上司が購入。仕事の会議等に使用している。


 で、その上司というのが目の前で電気ストーブをつけている、白髪頭の男性だった。顔のほりは深く、鼻筋が高い。若い頃はハンサムだったろうと予想できる。実際の年齢は71だが、50と言っても通用するほど姿勢は真っ直ぐで背も高かった。


 名は天田悠生あまたゆうせい



「……一昨日、お前が運び屋を殺してからずっと、すすきの周辺で目撃されている」



 年配者特有のしゃがれた声だが、どこかしっかりしていて聞き取りやすい。



「へぇ……たかが運び屋だぜ?」

「………あの運び屋が連中にとって大事なものを運んでいた可能性もある」

「狙いは運ばれた荷物、と……」



 香龍会は第二次世界同時多発テロにより中国で生まれたテロ国家だ。もともとは火器の売買を主とするマフィアだったのだが事件以来、中国政府と同等の強大な力を得た。


 そのため中国国内では政府軍と香龍会の戦闘員による内戦が絶えない。


 しかし、そんなテロ国家の戦闘員がなぜこんな島国で?



「……例の運び屋が香龍会の何を運んでいたのか、そこまで詳しくは知らん。だが……仮に運ばれたのがATCだとしたら……」



 その一言で将斗は背筋が寒くなるのを覚えた。

 近代科学の産物の1つであるATC、外骨格型パワーアシストスーツだ。もともとはリハビリの活用や重機の作業を目的に作られたのだが、軍事利用目的で開発されたATCは一台で戦車同等の戦力を有すると言われる。


 第二次世界同時多発テロではこの展示会が襲われた。そして奪われた機体がテロ国家誕生の礎になったといっても過言ではない。


 軍事利用においてATCの恐ろしいところはその馬力に加えての隠密性だ。

 種類にもよるがサイズは2メートル程で人間が装着するので、装甲車輌と比較すると明らかに小さい。それでいてエンジン音も小さく、特に夜間のゲリラ戦では静かに動いて派手に暴れることができる、まさに悪魔のような兵器。そんな機体が日本国内で暴れたら多大な被害は免れない。



「……まぁ、実際に運ばれていたのかはわからんさ。運ばれていたなら……とっくに騒ぎが起きてもおかしくない」



 天田はそう言ってタバコに火をつけた。



「戦闘員を始末しろと?」

「それだけじゃない……運び屋が運んでいた荷物も確認しろ……場合によっては壊せ……運び屋のルートはこちらで調査する……」



 将斗は頷くと立ち上がり、コーヒー缶を一気に飲み干した。



「……最近は仕事も難なくこなすようになったな……」

「ま、慣れてきたからな」

「……変わったな……」



 将斗は缶をゴミ箱に捨てると、天田の方を見ずに答えた。



「多分、兄貴達が帰ってきたからかな」

「……変な話だ……大切な家族がかえってきたら、人殺しに躊躇いを覚えるのが普通だろう……」



 なにも言わない将斗。天田は自分の缶コーヒーを開けて、悲しそうに呟いた。



「……それとも人殺しに没頭しないとならないほど……今の生活が嫌いか……?」



 未だに無言を貫く。そして倉庫から歩いて去っていった。


 天田はもう一本のたばこに火をつける。


 赤い、小さな光が暗闇の倉庫中で揺れていた。



 ◇



 ココアを飲んでからは落ち着きを取り戻した紫音が寝静まったのを見計らい、千晶は一階に再度、脚を運んでいた。


 流石にもう昴はいない。


 結局、千晶はココアを飲まなかった。飲めなかったわけでもないが、今は気分ではなかった。

 長年ロシアで生活をしてきたのだ。ココアよりもホットミルクよりも。


 ウオッカ。

 ロシア人のソウルドリンク


 ロシアでは当たり前のように飲んでいたが法律にうるさいこの国で未成年の千晶が堂々と飲むことは出来ないので、食器棚の奥底に隠しては夜な夜な飲んでいる。


 今、千晶が飲んでいるのはズブロッカのストレート。仄かな甘味と桜餅のような香りが口に広がる。

 40度と、ウオッカでは低い方かもしれないがそれでも酒の中では強めの類いだ。それを具合を悪くする様子もなく、ショットグラスでゆっくりと味わっていた。


 するとポケットに入れていた携帯電話が静かな振動を始めた。

 途端に柔らかな空気が霧散する。同時にピンと張りつめた空気がその場に生まれた。



「アロー」

『日本語でかまわないよ。ティーナ』

「今日は?」

『出来れば直接会って話がしたい。部下を送るから合流してくれないか』



 電話の主は場所を指定してきた。

 千晶は一気にショットグラスの中を飲み干した。しかし酔いがまわる様子は全くない。



「今から向かう」



 そのままウインドブレーカーの上衣を羽織るとしっかりした足取りで玄関に向かった。



 ◇



「任務了解、作戦に移行する」



 昴は電話を切ると机の上に目をやった。昴宛の手紙に紛れて、一枚の広告が隠れてある。広告は銃を持った男の姿を写し、「テロはあなたの近くに潜んでる‼」とゴシック文字で飾られていた。


 近年よく見る類いの内容だ。テロ国家が乱立してからというもの、国内外ではテロを危惧してこのような呼び掛けをすることが多い。

 広告の隅には「すぐに警察へ連絡を」とも書いてある。


 愚かなことだ。


 警察の力でどうにかなるようなら、この国に沢山のテロのスパイが入り込むことはない。


 国家は首都を守るためにセキュリティを何重にもしているが、貿易が盛んな北海道にテロリストが入り込んでるのが現状だ。放置すればやがて奴等はこの北の大地に拠点を置き、内地へと侵略を果たすだろう。


 日本政府はこの土地の重要性を未だ理解していない。


 広告で紙飛行機を作り、天井に向かって軽く飛ばす。次に鉛筆立てに刺さっている万年筆を手にした。


 あのテロ事件……逃げる最中、爆風の勢いに呑まれそうになって手放してしまった弟妹の手。


 長男なのに、弟妹を守れなかった責任感。

 帰国してからも妹が未だ帰ってこなかった数ヵ月。

 父のいない家庭。

 家族を守れなかった自責に悩まされる時間。

 彼にとってはそれこそが地獄だった。


 昴は片手で弄んでいた万年筆を手首のスナップを効かせて飛ばした。


 折り紙で作った手裏剣を投げる要領だ。

 しかし万年筆は真っ直ぐに、一直線に、筆先は窓から漏れる月の光に反射して白い煌放った。

 

 タァンッ‼


 木に釘を打ち付けたような音が部屋に響き渡る。万年筆は紙飛行機を巻き込み天井に突き刺さっていた。


 写真のテロリストの心臓部。ただ一点を貫いて。


 将斗が

 千晶が

 母や紫音が


 生きていてくれるならなにも怖くない。それ以外に恐れるものもない。


 仮にテロリストがこの国で活動し、彼らに不幸をもたらすなら。


 奴等には政府の飼い犬たちではなく、自分自ら手を下そうではないか。


 イギリス諜報機関MI6所属のエージェント


 主な任務は、日本におけるテロ国家からのスパイの排除である


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