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共闘・Ⅰ

投稿が遅れ、申し訳ありません。

次回、アーカイブがはいります。



「こんな医療機関を用意していたなんて、資金は困ってないんだね」


 天田とパイプのある病院の治療室のベッドに昴はいた。点滴や包帯が体のほとんどを占めており、彼の怪我の大きさを語っている。


「どういうわけか俺の上司はあちこちのパイプが強い」

「なるほどね、確かに彼ならありえるかもしれない」


 笑う昴と向かい合い、将斗は椅子に腰を下ろしていた。彼も治療を受け、病院の服に袖を通しているが昴と違い、拘束はされてない。


「にしても将斗が見舞ってくれるなんて……リンゴの皮とか向いてくれるのかな?!」

「これから大事な会話をするのに………調子狂うなぁ」


 その言葉を聞いた昴は真顔になった。


「千晶かい?」

「………ああ」

「あの子から何か連絡は?」


 将斗は首を横に振った。


「移動時間を考えたらまだ連絡することができないのかもしれない」

「………アジトがわかれば手っ取り早いがな」


 病室の扉の前に立つ天田を見た。千晶の話題があがった時点で彼の気配を既に感じ取っていた。

 天田は入ってくるなり病院内にも関わらずタバコを取り出した。


「………吸ってもいいか?」

「嫌だと言ったら?」

「…6本吸う予定が、2本に減る」

「控えてくれると有難いんですが」

「……先が短い爺の楽しみだ。見逃してくれると有難い」


 天田はそれだけ言うと遠慮なくタバコを吸い始めた。タバコのケースは金色にコーティングされていた。


「珍しいタバコを吸いますね」

「………吸ってみるか?」

「遠慮します。タバコの中でもゲルベゾルテは大の苦手なものですから」

「……ほう」


 銘柄を知っていることが嬉しかったのか、天田は少し顔を綻ばせた。


「………橘千晶とイヴァンのアジトだが」


 本題に入ってきた。視線が天田に集中する。


「………イヴァンの仕事から、港をあたっているところだ。だがまだ見つからない………」

「……やはり簡単には見つけさせてもらえませんよね」


 肩を落とす昴。落ち込むのは彼だけではない。将斗も、これまで傍にいてくれた紫音が見つからない不安や家族の千晶の件でショックもある。


「千晶は………どうして………血の臭いも人殺し特有の空気ももっていなかったのに」


 気づけばそんなことを口にしていた。しかしそれを昴それをあっけらかんと否定する。


「人殺しを繰り返しても千晶の場合はそれが無表情という形で表れていただけさ」


「将斗だって、上手く隠してきたじゃないか」

「俺の場合は紫音が同伴だったからな」


 カップルのように見せれば疑いづらい。将斗の場合はそういう心理を利用していたことが幸いした。

 

「兄貴だって、気付けなかった。千晶よりも長く一緒にいたのに」

「僕は学生の身分を良いように利用してたからね。ま、大学は本当に楽しいから勉強させてもらってるけど」


 これまでゼミやら論文やらで抜け出し、学業と平行で仕事をこなしてきたのには将斗も舌を巻きそうだ。


「なんだ、俺ら……家族同士騙しあってたんだな」


 思わず吹き出してしまった。つられて昴も笑いだす。


 天田は笑い合う兄弟を眺めながら、2本目のタバコに火をつけた。

 ……………。


 小樽の某港にある倉庫に紫音は連れてこられた。猿轡は外されても手の拘束は解かれておらずイヴァンに促されるままに進むしか方法がない。


 ここまで、誰もが終始無言であった。イヴァンとイゴールの2名はともかく、千晶でさえも何一つ問いかけには答えず、黙りこんでいた。

 倉庫の中は大量の毛布が山のように積み上げられ、少し離れた所には個室トイレが設けられていた。毛布の近くの柱には長い鎖が取り付けられており、紫音の自由がこの鎖によって限定される展開は見え見え。


「驚いたな。もっと怯えたり抵抗するかと思っていたが」


 イヴァンが足に鎖を取り付けながら話しかけてきた。


「………抵抗しても無駄なことぐらい、わかってます。それに……既に幼馴染みが2人、そういう立場の人間だと知ってるんです。それが3人になるだけの話です」

「……なるほどな」


 イヴァンは顔色ひとつ変えることなく、背後に呼び掛けた。


「ティーナ。君の幼馴染みは思ったより大丈夫そうだ」


 荷棚の影から現れた千晶は薬箱を片手に下げていた。


「スパスィーバ、イヴァン。あとは私が引き受ける」

「シオンの服も用意しよう………ん?ティーナ?」


 千晶とすれ違いざまにイヴァンが呼び止める。千晶はというと少し顔を赤くしていた。


「どうした?………具合悪いのか?」

「ウオッカを多く飲んだから」

「……ならいいが……こんな時にもウオッカか。相変わらず大物だな、君は」


 半ば呆れ、半ば笑い。イヴァンの表情はまさにそれだった。


「シオン・クサカベの監視は頼んだ」

「ダー。イゴールの手当ては終えてる。後はお願い」


 千晶はイヴァンが倉庫から立ち去るのを足音で確認してから、紫音の元へ来た。

 先とは違うが黒い服装。胸のホルスターにはナイフが納められている。


「…じゃあ、紫音ちゃん」


 脱がされた箇所からは眼をそらすようにして千晶は毛布が積み重なった箇所を指差した。


「殴られたとこ、手当てする。座って」


 ………………。


 しばらく笑いあった後、兄弟は互いの身の上話を始めた。

 テロ事件の後、昴はイギリスのMI6に所属するエージェントに引き渡され、渡英。子供にしては切れる昴をMI6は育て、エージェントになったという。


 それを聞いて将斗は「似てる」と思った。

 細かい経緯はどうあれ、将斗も偶然出会った天田に見込まれ、殺し屋の技術を教えてもらった。

 仕事で多忙な母に代わって将斗に色々教え込んだ親みたいな存在である。


 昴が帰国してからというもの、将斗は自分が人殺しとして生きている目の前で幸せそうに生きる昴に距離感を抱いていた。

 生きている世界が兄とは違う。そんな考えさえ抱いていたのに。

 真実はまったくの予想外。昴は自分とお同じ世界で、自分と同じような経験を積んできたのだ。

 最初から兄妹が自分と同じ世界にいることを知り、それを受け入れればこんなすれ違いは起きなかったはずだ。


「互いの正体を知ったからかな」


 昴の声で我に帰る。


「今では将斗が近く感じるよ。仕事がバレないよう注意していたからかもしれないけど、僕は弟達といくら接しても拭えない距離を感じていた」


 それがようやく縮まった気がする、と昴は言った。


(あ………)

 

 これまで将斗が兄妹に抱いていた違和感の正体が、見えてきたような気がした。


「俺もさ、あの事件の後、母さんが塞ぎこんで、療養目的で軽井沢に泊まってたんだ」


 口が勝手に語り始める。昴はそれを黙って聞いてくれた。


「そこでジジイに会ってさ、スカウトしてもらったんだ。


 テロリストはもちろん憎かった。兄貴も千晶も死んでたと思ったからなおさらだったさ。

 でも兄貴達が帰ってきてから、俺、なんのために人殺ししているのかわからくなってさ。

 だからかな。俺、気づけば人殺しに専念することでそんな感情を忘れようとしていたよ。でも、どんどん人殺しに慣れていくと兄貴達と一緒にいられなくなるんじゃないかって不安もあった」


 一気に話したら胸がスッキリしたような気がした。

 最後に大きく息を吸って、残った感情を告白する。


「でも今なら思う。兄貴も千晶も、俺と同じような人間で良かった」


 ……………。


「多分これで大丈夫。骨折とかはないみたい」


 殴られた箇所にガーゼやら湿布やらを貼りながら呟く千晶を見つめていた。


「ありがとう」

「………ちょっとごめん」


 千晶は消毒液を染み込ませた布を紫音の首筋に押し付けた。


「………?」


 怪我はしてないのになぜ?と最初は思ったがすぐに気付いた。

 千晶が拭っているのはさっき男に好き勝手された所であった。


「………私は大丈夫だよ。千晶ちゃんに助けてもらったから」

「……………」


 千晶はなにも言わない。ただ真剣に紫音の首筋を拭ってくれる。力を込めてきたので少し痛いが。

 少しずつ、触れている指先から千晶の「記憶」が流れ込んでくるのを感じた。

 ノイズ混じりだがすぐにわかる、わりと最近までの記憶。家族と一緒にいるときの千晶の見た世界。

 笑う昴、照れ臭そうにむくれる将斗。兄妹のやり取りを見て笑う紫音。

 そのやさしく、温かい日々の光景があまりに綺麗な毎日…………………………………………


 そして見えてしまう。

 体の一部を失っている人間。荒れ果てた大地。黒い煙が所々で立ち上ぼり、山のように積み上げられる死体。

 死体。

 死体。

 無念を訴える苦痛の表情を向けてくる屍――――


「………っ?‼」


 頭が割れそうな感覚。

 反射的だった。見えてしまった血生臭い世界から、千晶から逃げようと体が仰け反り、首筋を擦ってくれていた手だけがその場に残った。

 逃げないと、見えた勢いで心が押し潰されそうだった。

 だから紫音の反応は間違ってはいない。

 間違ってはいないのに。


 反動で目眩が、動悸が、息切れが。


「……紫音ちゃん?」


 しかしそれらを押し退けて、優しいはずの幼馴染みが見た世界の残酷さを経てなお、平然としていられることに恐怖を覚えていた。


 今、見たのはほんの一部だ。

 きっとこの子はそれ以上、死体の数を見てきたに違いない。


 やさしさや温かさの欠片もない世界。

 その荒れたヴィジョンは、紫音が知る限りでは最も醜悪なものだ。


 ある程度察したのだろう。小さく、静かな問いが千晶の口から


「………見えたんだね。私が殺した人達」


 少女は自ら殺したことを暴露する。その口調には何の抑揚もなく、ただ淡々と述べただけ。

 なんて惨い。

 あんなに殺したのに、平然を保っていられるなんて。

 胸から不快感が込み上げてくる。紫音は口を押さえ、幼馴染みを睨み付けた。


「………やっぱり」


 千晶は諦めたように目を閉じる。


「私といると気分悪くなるよね」


 もう限界だった。

 紫音は千晶を押し退けてトイレへ駆け込む。脚に繋がれた鎖がジャラジャラと音を立てて引きずられていった。


 その背中を見守ることなく、手際よく薬箱を片付けていた。幼馴染みが吐く音も気にしない。

 そして綺麗に片付けた薬箱を抱き上げ、なにも言わずに立ち去る。

 倉庫を出ると肌寒い潮風が吹いていた。風に煽られるようにして見上げる夜空。黒雲は流れるように移り、空を、月を隠し続ける。


「………星………見えない」


 薬箱を強く抱き抱える。

 夜は好きだ。天体観測は千晶の数少ない趣味とも呼べる。

 趣味の多い曾祖父は星の知識も豊富だった。千晶が曾祖父の読んでいた本を覗き混んだことが、趣味の発端とも呼べる。


「………いいのか。傍にいてやらなくて」


 パートナーが立っていた。空を見上げたまま千晶は返す。


「仕方ないよ」

「イゴールから聞いた。ティーナ。ウオッカは一滴も口にしてないそうじゃないか」


 それでも千晶はパートナーを見ない。

 決して彼に怒りや後ろめたい感情があるわけではなかった。


「その体調の悪化。やはりシュプリンゲンだろう?」


 波の音が大きくなる。千晶はそこでようやくイヴァンの方を見た。


「熱だけ。やっぱりこの薬、嫌い」

「俺達クレムリン以外が使えばもっと副作用は大きくなるがな。だが、やはり………」


 2人の視線がぶつかり合う。長年のパートナーだからこそ無言のアイコンタクトは会話を成立させていた。

 波の音が少しだけ弱くなったところで、イヴァンが先に切り出す。


「それよりティーナ。今後だが………」

「イヴァン」


 千晶が遮った。この子が何が言いたいのか、それを知っているイヴァンはさっきまで言おうとしていたことを一応だが述べる。


「君が兄達を殺したくはないことも知っている。今回の件は彼らに委ねることだって可能だ。だから我々はシュプリンゲンの破壊のみに徹することに任務を切り換えることを考慮するべきだが」


 目の前の犬の目には哀しみも後悔もなかった。

 ただ洗練された軍用犬。

 そこに、狂気に身を任せる気配は微塵も感じられなかった。


 イヴァンは千晶の幼い頃を知っている。


 初めて人を殺した幼い少女は、恐怖と狂気で目をぎらつかせていた。

 テロで家族と別れ、ロシアに来てしまった少女が人を殺したと知ったときの驚きをイヴァンは知っている。日本人は体格も筋力も優れた人種ではない。ましてや十にも満たない少女が大柄の男を殺すなど論外だ。

 だから少女が殺した大男を足下に立つ姿を見たとき、イヴァンは少女を見て恐怖を抱いた。


 だから次に抱いたのは畏れだった。

 人を殺したことで何かが変わった少女は落ち着きを取り戻した直後、人が変わったように決意を向けてきたのである。


 殺し屋の才能が光となっていた目。

 今、こちらを見ている目だ。


「………君の兄達については君が決めるべきだ」


 言い終える刹那、千晶はイヴァンの傍に寄り、その首をやさしく抱き締めてきた。

 小さなパートナーの体は薬の副作用で熱く、汗が滲んでいるのがわかる。


「だから少し休みなさい。家族達のことでも疲れてるんだろう」

 

 千晶はうなずき、イヴァンの首に抱きついたまま静かに眠り始めた。


 ……………。


「一応、だけどわかった気がする」


 立ち上がった弟を見上げた。


「なにがだい?」

「俺のやりたいこと」


 昴はその中身を聞かなかった。聞かなくても、弟が自ら話してくれることを信じているのだ。

 将斗ももちろんそうするつもりであった。


「でもそれを確信するには、千晶に会わなくちゃいけない」


 今見えるのは、ぼんやりとした存在感だけ。

 決定打は将斗が兄妹両方を見定めた時にしか発生しない。

 将斗はその時まで自分の選択を伝える気にはなれなかった。


「千晶に会いたい」


 それを口にした直後だった。


 将斗の携帯に、見知らぬ番号からの着信がきたのは。


 ……………。


 渡された服に着替えてから毛布の上で仰向けになる。高い天井に吊るされる灯りは頼りなく揺れていた。

 胃のものはすべて吐き出した。これ以上出せるものはないのに、胸の不快感はまだ止まない。

 血なまぐさい過去を見たから?


 考えたらきりがない。

 目を閉じていれば少しだけ楽になるような気がした。


(………少し休まないと………)


 毛布にくるまる。倉庫の中は肌寒く思えた。


『…~~……?…~……』


 反射的に跳ね起きる。どこからか声が聞こえた気がした。聞き取りのも難しいほど小さなものだったが、間違いない。

 この倉庫は音が漏れにくいようなので外からの声は疑いがたい。

 そうなると同じ倉庫の中から。

 それもかなり近くからだ。


 この状況を変えるためには些細な情報も見逃さない。


『~……かな…?……ら、…………~………』


 聞き覚えのある声。


「エレナ‼」


 だがエレーナはロシアにいるはずだ。

 電話か。

 そして声の発生源は紫音の真下にあった。

 千晶を押し退けたとき、彼女は携帯電話を毛布に落としたのだ。

 シュプリンゲンで弱っていた彼女に、自分が落とした電話を見つける余裕などなかった。


 ただちに音声録音のモードから応答に切り替える。


「エレナ‼」

『………え?シオン?なんでティーナの電話に?』


 驚かれても無理はない。しかし紫音は、誰かと連絡が取れた喜びで返事どころではなかった。

 血みどろな記憶からようやく開放された気分である。目が熱くなるのを感じた。


「よかった………よかった………」

『シオン?大丈夫?どうしたの?それにティーナは?』


 そう、これは千晶の携帯電話だ。


「うん。私………」


 捕まってる。と言いかけたが本能がストップをかけた。

 エレーナに教えるということは、千晶の正体も教えなくてはならない。

 だがエレーナはこちらの事情を知らない。


『………シオン?』

「……千晶ちゃんが………」


 言う言葉を選ぼうと、口が動かなくなる。

 紫音がただならぬ状態と察したのか、エレーナは質問をなげかけてきた。


『まさか、ティーナが事故に遭ったとか?』

「………ううん」

『無事なの?今、ティーナは近くにいる?』

「無事だけど………近くには」

『ティーナは今、仕事?』

「まあ………え?仕事?」


 目をぱちくりとさせる。

 千晶は学生だ。仕事らしい仕事など、殺し屋、公にはできないものしかない。だから彼女の仕事を知る人物は限られているはずだ。たとえ家族でも、殺し屋としての事情など………


「………知ってたの?」


 対してエレーナは穏やかな声である。


『詳しくは知らないよ。でも私達家族は皆知ってる』


 目眩がした。

 自分達でも見抜けなかった千晶の正体を、エレーナ達は既に見破っていたのか。それでいて家族として接していたとでも言うのか?


 そこからエレーナは紫音の反応をうかがうように、なにもいってこなかった。

 ぐらぐらしてきた頭を必死におさえながら、紫音は電話を握りしめた。


「………良かったの?千晶ちゃんは………」


 紫音の目の前でも、赤子の手を捻るようにいとも容易く男達を殺した千晶。

 自ら殺した人達を見られてなお、余裕ある態度の千晶。

 彼女の残忍な本性を前にしたら、誰だって………


『最初は、受け入れることが出来なかったよ』


 容易く受け入れるなど、ありえない。

 エレーナの口調はさっきまでとは違い、真摯な語り口へと変わってゆく。


『シオン、昔のティーナの話、しよっか』


 ……………。


 運河へ降りる途中のビル。そこの地下一階に、毎晩ジャズライブを行う小さなバーがある。

 将斗はガラス張りの扉を強く引いた。金属とガラス細工をマッチさせた鈴が夏にふさわしい涼しげな音を奏でる。


 バーのステージではスーツ姿のグループが演奏を始めていた。

 それを観賞する席の、背の高いロシア人が手をあげる。


「はじめましてだな、マサト・タチバナ」


 無愛想、口調も淡々としたもの。


「はじめまして、イヴァン・ベルキナ………千晶の友人だってな」


「友人………確かにその表現は間違ってない」


 イヴァンは将斗にメニュー表を見せた。

 将斗がイヴァンの手元を見ると、無色透明の液体が注がれたグラスが水滴をこびりつかせながら置かれていた。


「ビボロワだ。飲んでみるか?」


「病み上がりなんだ。ノンアルにするよ」


 ナノマシンによる治療で治したとはいえ、数時間前まで骨や内臓はボロボロだったのだ。


 出されたカクテルはオレンジとレモン・パイナップルのジュースを混ぜたものだった。


「………なるほど、ティーナはスバルより君に似ているのだな」


 グラスを眺める将斗を、イヴァンはそう評した。


「……顔か?」


「確かに似ているが………まぁ、全体的にといったところか」


 イヴァンはグラスに口を付けた。


「ポテンシャルの高さ、真っ直ぐな一面………そんなところだよ」


「………俺なんかは低いさ」


 低いから兄にも圧倒されかける。他の敵にも圧される。

 それが将斗の捉え方だ。

 しかしイヴァンは首を振る。


「高い。ただ、ティーナと違って開花するのが遅れているだけだ。あとは自分に合った戦いを身につければいい」


 意外と良い評価を受けていることに驚いた。同時に照れ臭くもなり、話題を変える。


「なあ、あんたの仲間………」

「イゴールか。彼は無事だよ。早急に君が助けてくれたから、命に別状はない」

「………ならよかったけど」

「そういえばイゴールを助けてもらった礼を言ってなかったな」

「いいよ、そういうのは」


 礼を言ってほしかったわけではないし。


「俺はあんたに、紫音と千晶について聞きたかったんだ」

「………確かに私も、そのことについて君に話したいと思っている」


 なんだか含みのある言い方だ。

 最初の演奏が終わり、次の曲に移る。


「君を呼んだのは他でもない。マサト・タチバナ」


 イヴァンは唇だけを動かした。声を出してないので読唇術で読み取るしかない。


 私達は今から秀英運輸を利用して隠れている香龍会の連中を潰しに行く。

 君に協力してもらいたい。そうすれば情報も提供しよう。

 協力しないなら、話はなしだ。だがどのみち解決してからシオン・クサカベは解放しよう。


 どうする?


 と、その唇はつけ加えた。


 ……………。 



『全くしゃべらなかったしあんな事件を生き残った子だから、それは仕方ないと私達は思っていたの。

 でも事件が起きてそれは変わった。

 ある日、私は友人のパーティーに行く途中に男達に襲われた。

 身動きが出来なくて、車に押し込まれて、それで………………』


 少しだけ、声が震えていた。


 紫音と違い、エレーナは手遅れだった。

 手遅れだったが、それでも千晶は殺される前に助けに来てくれた。


『それなのに私はティーナを突き放してしまったわ。あのときの傷付いた顔、今でも忘れることが出来ない。 

 でもティーナは、突き放してしまったのに私を守り続けるために、追ってきた男達と闘って事件は収束したの』


 その後、千晶はエレーナ達の前から姿を消そうとしていたと言う。だが家族としての交流が続いたのは他でもない、エレーナが引き止めたからだ。


『たしかに殺人を仕事としていたティーナは怖いと思う。

 でも私を救ってくれたのも、ティーナだったよ。

 だから私は受け入れる。信じる。だって私はあの子のお姉さんだから』


 それは強い決意の顕れだ。

 紫音にはまだ届かない、尊い心であった。


『あなたはティーナを信じることができますか?』


 ……………。


「決まりだな」


 イヴァンは立ち上がった。将斗もそれに続く。


「君が手伝ってくれるなら、ティーナも無事に任務を終えるだろう」

「随分俺を評価してくれるんだな。てっきり兄貴に応援を頼むのかと思ってた」

「スバル・タチバナは優秀だが、今のティーナの精神衛生上よろしくない。それにあの子は今、スバルに対して良い感情を懐いてないみたいだしな」


 それは将斗も聞いた。

 どうも紫音奪還に水をさしてきた昴にキレたとか………


「千晶も、紫音には気を許してる節があるから」

「それだけじゃない。同性だからなおさらだったのだろう」


 同性だから?なにか理由があるのか?

 尋ねるとイヴァンは目をそらし、財布を取り出した。


「ティーナはテロ事件の直後、モスクワの病院でテロリストの残党にレイプされかけたことがある」


 脚を止めた。

 事件の直後ならまだ学校にも通ってない頃だ。

 それなのにテロリストに?


「だからかあの子は性暴力を最も嫌うし、そういったのに対してキレやすい。スバル・タチバナはそれを見過ごす選択肢を選ぼうとした。だから許せないのだろう」


 昴も言っていた。

 紫音救出の直前、すごい剣幕だったと。


 だから………………


 会計を済ませ、店を後にする。イルミネーションの灯りに包まれた夜の小樽は観光地らしい賑やかさを残していた。


「紫音は」

「シオン・クサカベは我々の方で預かってる。大丈夫、手荒な真似は一切しない」


 それを聞いて安心した。あの子も紫音を大切に思ってくれていることがわかったのだ。

 不意に、将斗はさっきのカクテルの名前を聞いてなかった事を思い出した。

 一仕事終えたら、改めて聞こう。

 ……………。 


「………止めなくて良かったのか?」


 ベッドで眠る昴に投げ掛ける。昴は瞼を閉じたまま返した。


「弟が決めたことです。僕は兄としてそれを信じますよ。それに………将斗が僕らの悩みを解決する術を見出だそうとするなら、邪魔をしてはいけないと思うんです」


 言い切る昴の表情にはどこか寂しそうな色があった。

 弟が自分を置いて前を進むことに、彼なりに悩みや葛藤があったのかもしれない。


「………さっきまで家族関連の話になると周りが見えなくなる奴とは思えない台詞だ。

 ………お前なら、脱走してでも追いかけ、止めると思っていた」

「滅多にしない喧嘩をしたわけです。僕だって考え直したりはしますよ」

「………順応が早いな………」

「それほどに家族を愛してる訳ですから」

「………気持ち悪いな」


 タバコをふかす天田。

 昴は薄く目を開け、それを尻目に見た。


「あなたこそ良かったのですか?せっかくのATCの操縦士をみすみす送って」

「………なに、奴等は将斗を殺す気はないさ。老人の勘ってやつだが、これがよく当たる」

「それは陸軍中野学校で学んだ、心理学や計算からくるものですか?」


 突如、病室内の空気が2℃下がったかのような寒気に包まれる。天田のくわえるタバコの煙がその視線を遮って、昴には相手の目が見えない。


「………おかしなことを言う坊主だ」


「中野学校は戦後も再建されました。

 政治家や資産家とのパイプも持っていたのでしょう。

 たしかに卒業生達で力を合わせれば、パンドラを手にするくらいのことは出来そうですしね」


 パンドラ

 その言葉に天田は不敵な笑みを見せた。


「………知りすぎてる小僧だ」


「まさか弟も使っていたなんて驚きましたよ。千晶は………ロシアも持っていると踏んでましたからね。将斗ほど驚きはしませんが」


「………最新のエンジンかもしれんぞ?」

「まさか。燃料コックは見当たらずあるのはバッテリーだけ。それでいて従来のより馬力はあるし。パンドラが媒介となって出力を上げているとしか思えない」

「………………」

「まさか3人揃って別々の組織で、パンドラを手に入れていたなんて………偶然にしては出来すぎてませんか?」


 ……………。


 ワゴン車の後部座席で将斗は妹を見る。妹はというと、窓に頭を預け、うつらうつらと船を漕いでいた。


「………眠いのか?」

「………ダー………」


 完全に疲れている様子だ。熱でもあるのか、額に汗を滲ませている。


「なんかなぁ………もっと堂々と待っているのかと思っていたんだが………」


 無口無愛想、両腕を組んでどんと構えている。そんな様子を期待していたのだが、見てみればスヤスヤ眠る千晶が待っていたのだから驚きは隠せない。


「今回の様な体調不良は特別だ」


 運転席のイヴァンがフォローを入れた。


「はぁ………ってあんた、飲酒運転って言葉は知ってるか?」


 さっきまでウォッカ飲んでましたよね?


「水割り程度、飲んだうちに入らない」


 言い切りやがった。さすがロシア。皆は真似しないでね。


「警察だけは勘弁だな」


 なにせこちらはナイフや銃で武装した人が乗車しているのだ。飲酒運転で捕まったら銃刀法違反というシャレにならないおまけがついてくる。


「で、体調不良って?」

「シュプリンゲンを使った人間を見たことがあるか」


 将斗は頷いた。

 苫小牧の港で闘った人間は一時的に脅威的な力を手にしていたが、2本目の薬を使う直前、顔中はみみず腫れを起こし、どこか動きも鈍かったように思えた。

 不意に、隣からシュプリンゲンともう一本、謎の薬品が入った注射器を収めたケースが横から手渡された。

 眠たそうにしていた千晶が差し出したのである。


「シュプリンゲンは本来、2つの薬品で成立する。1つはドーピング。もう1つは抑制剤。

 体には耐えきれない負担を強いるドーピングの使用量を誤れば死に至る。だからドーピングの効果を弱める代わりに副作用を抑える抑制剤と並行して使うのが本来の使用法だった」


 イヴァンはお酒を飲んだ人間とは思えない、確かなハンドルさばきで車を走らせる。


「だが、副作用の恐ろしさを知らないロシア兵達が抑制剤を捨ててドーピングだけを使うようになった。その結果死者が大勢出て、配布も取り止めたはずだが………」

「香龍会にシュプリンゲンが出回っている理由は?」

「考えた可能性は身内による流出。流出した分の破壊も含め、その可能性を確立するために私達は動いた」

「あんたが流用したって噂もあるが?」

「自分で流出させたらとっくに首はとんでるよ」


 イヴァンはそこで凄みのある笑みを浮かべた。将斗は背筋の寒気を禁じ得ない。


「まぁ、出所の調査についてはこちらの事情だ。

 が、今回は秀英運輸に住み着いてシュプリンゲンを大量輸入する元凶を叩くことで、大量流出は防ぐことにしようと思う」


 頷いておく。すくなくともその辺の意見は同じだった。


「で、妹の体調不良は」


「シュプリンゲンの副作用に対抗できるよう、私達クレムリンは少しばかり抗体を持っている」


 イヴァンはさらりと答えた。


「元々、シュプリンゲンを最初に使ってテロ国家の軍を撃破したのはクレムリンだ」


 そうなのか。妹に問いかけると、千晶はこくりと頷いた。


「副作用による死は開発の段階で言われていた。だから最初に使う立場にあったクレムリンはそれを防ぐため、抗体をあらかじめ作ることで兵力を温存しようとした」


 抑制剤は後につくられたものであるとイヴァンは語る。


「だから私達は抑制剤なしでもある程度は闘える。しかし副作用はゼロではない。場合によっては死の痛みを受けつつ生きながらえる事だってありうる」


 それはまさに生き地獄だ。


「最低でも発狂寸前の痛みを受ける。シュプリンゲンはそういうものだ」


 将斗は千晶を見た。痛みに、悪化する気分に耐え、意識もどこか怪しい。そんな状態になりながらも戦い続けようとする妹は、昔と違ってとても強く、昔と同じで危なっかしいように思えた。


「………向こうにつく頃には少しはマシになってる。だから心配しないで」


 兄の視線に気付いた千晶は深呼吸をしていた。

 将斗は後部座席を見た。そこには白銀のATCが鎮座している。


「昴兄ぃのせいで薬を使った。使わなければまだ闘えたのに」


「だから仕事を手伝わせようと俺を呼んだのか」


 頷き、次に首を横に振る千晶。


「頑張れば私1人でもいける。手伝ってほしいのも本当。けど、やっぱり将斗とお話ししたかった」


 オレンジ色の電灯が2人の顔を照らす。将斗と千晶、両者の鋭い眼差しはハッキリと互いを見つめていた。


「何を話したい?」

「なんでもいい」

「一番困るやつだ………」


 小さい頃は甘えん坊で、将斗の後ろに引っ付いて離れない子だった。常にお兄ちゃんお兄ちゃんと呼んできたし、表情を見れば喜怒哀楽は一目瞭然。言いたいことはすぐに言ってきた。

 そんな妹がここまで感情を見せない少女に成長したと実感したときは、一種の不気味さと、妹がまるで別人のように思えて、苦手意識すら持っていた。

 今も表情の変化は乏しい。言葉も、何を求めているのか、普段ならさっぱりわからない。


 なのになぜか今は妹の考えを少しだけ察している自分がいた。


「俺が今の仕事を始めた経緯について話すか」


 兄からのOKのサインに、千晶は微笑んだ。

 幼いころと何一つ変わらない、あどけない笑顔がそこにあった。


 ……………。


 このまま千晶の携帯で天田に連絡をすれば解決する。

 そんなのはわかっているのに、携帯を握る手は震え、指は動かなかった。

 人殺しだ。あんなに甘えん坊だった幼馴染みは変わってしまったのだ。


 でも。

 うなされているとき、傍に居てくれたこと。

 男達に乱暴された時に物凄く怒っていた様子。


 ――あなたはティーナを信じることができますか――


 エレーナの言葉が脳内で何度も再生される。

 信じれるわけない。 


 それなのに携帯を握る指を引き留めていた。


 ……………。


 将斗の身の上話を千晶は真剣に聞いていた。

 話したくないようなヶ所は聞いてこなかったし、時おり相槌を打つなど、共感を示していた。


「………そうだったんだ………将斗は………そっか」


 千晶は申し訳なさそうに肩を落とす。


「私、誰かを思って人を殺していた訳じゃない」


 語る時に無意識に出る癖だろう。千晶の右手は胸元のホルスターのナイフを撫で始めた。


「気づけば事件の後。私は保護された病院でテロリストに襲われて、テロリストの持っていたメスで殺していた」


 イヴァンに教えてもらった内容だ。


「それが私にとって初めての殺人。そこからはクレムリンに引き取られて訓練と戦闘へ参加する日々。苦しい、辛い、楽しい。そう思う暇は無かった」


 だがエレーナの家に引き取られて、千晶は感情を覚えていったという。

 家族を得たことで守りたい存在が出来た千晶に、日本での家族の存在が知らされたときは珍しく驚いたという。


「死んだと思ってたお兄ちゃん達、紫音ちゃんまでいて、幸せだった」


 でも怖かった。

 そう付け加える。


 千晶はエレーナ達に人殺しの過去を受け入れてもらったが、兄達家族はどうだろう?

 拒まれるのか。追い出されるのか。いつバレるのか。

 家族を守りたいという感情を抱いても、恐怖心から決意にまでは発展してはいなかったと千晶は言う。


「大好きな家族。でも私には将斗達みたいに、家族を守る優しさはない………」


 そう語る妹はとても寂しそうで、辛そうに見えた。


「だから昴兄ぃも傷付けることができた」

「千晶は。兄貴を傷付けたとき、どう思った?」

「紫音ちゃんを見捨てようとした。ざまーみろ」

「おい!」

「本当だよ。半分は」


 すっぱり、きっぱり言いきりやがった。

 だがもう半分は?


「………胸が痛かった………」


 嘘偽りのない言葉。


「昴兄ぃだけじゃない。紫音ちゃんに嫌われた時も、イゴールが傷付いても指示で助けにいけなかった時も。昔はそんなに痛みは感じなかったのに。なぜかわからない」

 

 わからない。


 もう一度呟き、千晶は目をつむる。

 すると、頭を温かい何かに撫でられた。撫でられたといっても少し乱雑で、ぶっきらぼうであるが。

 目を開ける。将斗は少しふてくされたような、困ったような表情で千晶の頭に手を伸ばしていた。


「今はわからなくて良い」


 兄ははっきりとそう言ってくれた。


「千晶。お前は俺達と違うって思ってるかも知れないけど、全く同じところだってある」


 それは何か。兄は答えず、満足げにうなずいていた。


 普段の千晶は昴より将斗との方が話しやすいと考えている。

 それは将斗の方が歳が近いし、幼いときはいつも頼れる兄として手を引いてくれたから。こうやって頭を撫でてくれたから。


 乱暴だが温かく、つい心が緩くなってしまう瞬間。

 いつのまにか兄の肩に頭を預け、静かに寝息をたてていた。


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