大変よ、ユーキッド!
「大変よ、ユーキッド!」
向こうからそう言いながら駆けてくる少女の姿を見て、木の上に寝転んでぼんやりしていたユーキッドははあ、とため息をついた。彼女の「それ」は日常茶飯事だ。今日はどんな「大変じゃない」ことが起きたのか――めんどくさそうにひょい、と身を起こす。
「まったく、おちおち昼寝もできないぜ」
そうユーキッドがぼやいてみせると、別の枝に腰掛けていたジョージとガッシュがにやにやと笑った。
「そのくせ頬が完璧に緩んでるぜ、ユーキッド」
「かっこつけちゃって」
「う、うるせえ」
ぱっと自分の手で顔を隠し、赤らんだ目元をきっと吊り上げてユーキッドは悪友2人をにらんだ。
***
何の変哲もない、平和とのどかさだけが取り柄のタランツ村に珍客がやってきたのは、今から1年前のこと。村で一番はずれの、空き家となっていた丘の上の大きな家に、王都から一人の少女が引っ越してきたのだ。
遠く離れた王都の人間なんて、この村の人間は一生に一度見るか見ないかだ。子供はもちろん大人も興味津々で越してきた少女の噂話をしていた。それだけならまだしも、村はずれのその屋敷に、見物しに訪れた者もいた。
ユーキッドとジョージ、ガッシュの悪ガキ3人は後者だった。教会の授業をさぼった3人は、窓の外から王都からの珍客を一目見ようと屋敷の庭に忍び込んだのだ。
しかしながら、結局たくらみは失敗する。窓の近くまで寄ったところできっちり髪を結った怖そうな侍女に見つかってしまったのだ。「あんたたち、何してるの!」大声で怒られた3人は一目散に駆け出し、いつもの遊び場である大きな木がある平原に逃げ込んだ。
「おっかねー!なんだあのおばさん!ちょー怖かったぜ」
「引っ越してきたのって俺たちとおんなじくらいの女の子じゃなかったのかよ」
「その侍女ってやつなんじゃねーの。そりゃ女の子が一人であの屋敷住むわけねーよな」
3人でがやがやとそう話す。それで彼らの珍客への興味は薄れた。もともとそこまでどうしても見たかったわけじゃない。ただ、なんとなくの好奇心だ。
ところが次の日、今度はそんな3人のいる大きな木に珍客がやってきた。白いワンピースを着て、帽子をかぶった、色の白い女の子だった。
「ねえ、あなたたち、昨日私の屋敷に来たでしょう?バネッサに叱られて、逃げてた」
くすくすと楽しそうに笑いながらそう告げた女の子が、自分たちが見学に行った王都からの珍客だと3人はすぐにわかった(そして自分たちのことを怒鳴った侍女の名前がバネッサであることも知った)。
「私、ヴィオラ。昨日引っ越してきたの。同じくらいのお友達が欲しいんだけど、お友達になってくれない?」
にっこり笑うヴィオラは、村で見てきた少女たちの誰よりも綺麗だった。真っ白のなめらかな顔、輝くような金色の髪、透き通る海のような瞳、荒れのないお姫様みたいな手、鈴のなるような美しい声。何もかもが初めての女の子だった。
ジョージとガッシュはそれぞれ自分たちの名前を名乗り、ヴィオラと握手を交わすと、「よろしくな、ヴィオラ」と笑顔を返した。それに嬉しそうに微笑む彼女に、ユーキッドはなぜか腹が立った。
「ね、あなたはなんていうの?」
ヴィオラがユーキッドに微笑む。ユーキッドははん、と鼻を鳴らした。
「俺は別にあんたと仲良くなりたくはないね」
「おい、ユーキッド」
ガッシュに咎められても、ユーキッドは彼女の差し出した手をとろうとはしなかった。するすると木の上にのぼり、困惑したようなヴィオラを見下ろす。その困ったような顔がなぜか少し愉快だった。
「オトモダチになりたいのなら、俺に認めさせることだな」
そういうと、ユーキッドは木の上に寝転んだ。ヴィオラがジョージとガッシュに慰められながら踵を返す気配だけは、ずっと追っていた。
***
その翌日、教会の授業(8割寝ていたけれど)を終わらせいつもの木へユーキッドがやってくると、まだ2人は来ていなかった。彼は木の下に座って2人を待つことにした。
すると。
「いっ……たっ!てってて!痛い!なんだよ!」
頭上から、固いものがばらばらといくつも降ってきて彼の頭や肩にぶつかった。衝撃はそんなにないが、痛いものは痛い。見ると、落ちてきたのは木製のおもちゃや、本や果物だった。なんでこんなものが落ちてくるんだ!涙目になりながら上を見上げて、ユーキッドは目を丸くした。
木の枝には、困った顔をしたヴィオラがいたのだ。今日は白いワンピースではなく、身軽なパンツ姿だった。
「なんだよあんた……」
「あ、あの、ごめんなさ、あっ」
木の上から謝りかけて、ヴィオラはその位置が謝罪には適していないことに思い当たったらしい。ひょい、と枝から飛び降りて――そしてべしゃ、と見事にすっころんだ。
「おっ、おい」
「いたたた……あっ、ごめんなさい!あの、痛かったわよね?」
痛かったのはあんたの方だろう、とユーキッドは思った。彼女は未だに尻もちをついている。はあ、とため息をついて彼はヴィオラを助け起こした。
「ありがとう。あのね、昨日、仲良くなりたいなら認めさせろっていうから、いろいろ考えたんだけど……とりあえず、好きそうな物いろいろ持ってきたの。それに、木の上に登ってたら認めてくれるかと思ったし……あ、あとコレ」
彼女はポケットから小さな包みを取り出した。包みを開くと、甘い香りの焼き菓子が数個入っている。
「ジョージとガッシュがあなたは焼き菓子が好きって言うから、作ってみたの。私、お菓子作るの好きなのよ」
困った顔のまま、ユーキッドをじっと見つめるヴィオラ。
なんでこいつは俺のためにそこまでするんだろう。挙句すっころんでるし、というかおもちゃって。俺はもう15だぞ。
彼の脳内はめまぐるしくいろんなことを言いたがったが、とうとう彼が口にしたのはこんな言葉だった。
「あんた、ばかだろ」
しかし、言葉とは裏腹に、彼の口調は優しかった。そして、我慢しきれなかったのか彼の顔は微笑んでいる。ヴィオラは嬉しくなって、つられて微笑んだ。
「昨日は悪かったよ。俺はユーキッド。よろしくな、お嬢さん」
彼は頑なにヴィオラの名前を呼ぼうとはしなかったが、それでも彼女を認めてくれたらしかった。彼らは――ユーキッドとジョージ、ガッシュの悪ガキ3人組とヴィオラの4人は、その日から毎日つるんで遊ぶ親友となった。
***
「大変よ、ユーキッド!」
しばらくすると、それがヴィオラの口癖になった。口癖とは少し違うかもしれないが、ジョージが数えたところでは、週のうち5回か6回は、その言葉を口にしていた。
「なんだよお嬢さん。今度はなんだ。マーグのところの犬が子でも生んだか?」
そして言われる方のユーキッドはそうやってめんどくさそうにそう返す。最初のうちは「どうした!?」と彼らも真剣に――もっとも真剣だったのはもちろんユーキッドだ――返事をしていたのだが、そのうちヴィオラがいう「大変」はたいして「大変じゃない」ことが判明したのだ。
たとえば池のおたまじゃくしがカエルになったとか。昨日の雨で裏庭にたけのこがにょきにょき生えていたとか。教会のリンゴの木が花をつけたとか。とかとかとか。
ヴィオラは、決して彼らをからかっているわけではない。本当に彼女にとっては「大変」なことなのだ。彼女の世界はいつでも驚きと発見で満ち溢れ、毎日きらきらと輝いているに違いない。それがわかっているから、ユーキッドやほかの2人は彼女をないがしろにはしなかった。
そして、なぜかヴィオラは「大変」があるとユーキッドの名を一番に呼ぶ。そこにジョージとガッシュがいても、絶対に「大変よ、ユーキッド!」と言う。それがわかっているのかいないのか、ユーキッドはヴィオラに呼ばれると満更でもなさそうに―どころか、ひどく嬉しそうな顔でめんどくさそうに「なんだよ」と返すのだ。
ジョージとガッシュはそれが楽しくて仕方ない。ユーキッドが王都から来たこの2つ年上の少女に恋をしているのは間違いない。ヴィオラの方はわからないが、決してユーキッドが好ましくないわけではないだろう。親友たちの青春を、2人はにやにやと生暖かく見守っていた。
***
そんなこんなで1年が過ぎた。今日も、彼女の「大変」が近づいてくる。木の下で待っていた3人は、足をもつれさせながらこちらへ駆けてくるヴィオラを出迎えた。
「で、なんだよお嬢さん。今日はなんだ。言っとくけどベレンの姉貴が結婚する話ならとっくに知って……」
「大変なのよ、ユーキッド!」
ユーキッドの台詞を遮ったヴィオラは、興奮さめやらぬ様子で言った。少々お転婆ではあるが、育ちのいいお嬢さんであるところの彼女がこんな風になっているのを3人は初めて見たので、少し驚く。
「あのね、ユーキッド。ジョージ、ガッシュ」
「な、なんだよ」
「私、子供ができたの」
彼女の台詞を、3人は瞬時に理解できなかった。沈黙。平原を風がひとつふたつ、さあっと吹き抜けて、木の葉がざわざわと揺れたころ、「はあ!?」と3人の声が綺麗に重なった。
「それは1年で一番大変なことだなあ」
「こ、こ」
「子供ってなんだよ!?」
一番冷静なようですっとんきょうな返しをしたのはガッシュ。一番まともな言葉を発したのはジョージだ。ユーキッドは壊れたように「こ」を繰り返している。
ヴィオラは困った顔で「子供よ。赤ちゃん」と返した。何もわからない。
「……だよ」
その時、低い声が聞こえた。嫌な予感がしてジョージとガッシュが見ると、ユーキッドが冷たい表情で、しかし瞳に怒りを燃やして底冷えのする声で彼ら2人に詰め寄った。
「相手は誰だ。誰がお嬢さんを傷つけた。合意だろうな、責任とるんだろうな、ああ!?」
「お、俺らに言うなよ!」
「俺らじゃねーよ!ていうかお前じゃないのかユーキッド!」
「俺がそんなことするかばか野郎!」
3人がよくわからない罵り合いをしていると、きょとんとした表情のヴィオラが口をはさんだ。
「いやね、何言ってるのよユーキッド。子供は神様の授かりものよ?神様が私をお母さんに選んでくれたに決まっているじゃない」
その言葉に、3人は違う意味で嫌な予感を覚えた。誰が口火を切るか、視線だけで押し付けあう。負けたのはユーキッドだった。
「おい、お嬢さん。まさかとは思うが、あんた赤ん坊はどうやってできるか知らないのか」
「知ってるわよ?子供は神様が作るの。そして選ばれたお母さんのもとに、マントにくるんで運んできてくれるのよ」
そんなことも知らないの、と言いたげなヴィオラの表情に、3人はがっくりと肩を落とした。
***
ヴィオラの屋敷へ4人そろって戻ると、急きょどこかから調達したらしい古めかしいゆりかごの中で、赤ん坊がきゃらきゃらと機嫌よく笑っていた。そのそばに寄ると、ヴィオラは慈しむような柔らかい笑顔で赤ん坊に語りかけた。
「ほら、デイティ、お母さんのお友達よ」
きゃらきゃら。デイティと呼ばれた男児は甲高い声で笑う。何も言わずその光景を見つめる3人に、今ではすっかり顔なじみとなったバネッサが「今朝ね」と説明を開始した。
「今朝、お屋敷の前にマントにくるまれて捨てられていたのよ。村の人にも聞いてみたけど、どうやら旅の人間が置いて行ったみたいで……どうにもならないからお嬢様がとりあえず保護したんだ」
「というかバネッサ、ちゃんと正しい知識を教えろよな。お嬢さん、自分が選ばれた母親だとかなんとか言ってたぜ」
咎めるように侍女をにらむ。バネッサは「反省はしてるわ」と答えた。ヴィオラは自分より2つ年上だから、もう18歳のはずだ。それなのにこんな初心でいいのか。ユーキッドは思う。いや、でも別にソウイウコトを彼女が知っていてほしいわけじゃない。というか知らないということはこれまでほかの男とソウイウコトになったこともないってことだよな……って何考えてるんだ俺は。妙な独占欲と満足感に支配された心に、ユーキッドは慌てて思考を打ち消した。
「だけど、このままでいるわけにいかないよな?どうするんだよ、ヴィオラ」
まっとうなことを言ったのはジョージだった。確かに、世間知らずでお人よしで純粋なヴィオラと、子育て経験のない侍女のバネッサが2人で住むこの屋敷では、この赤ん坊は育てられないだろう。
しかし、ヴィオラはきっぱり言ってのけた。
「いいえ、私はお母さんよ。お母さんは息子をしっかり育て上げて見せます」
「おい、無茶言うなよヴィオラ」
ガッシュがそれをとめる。けれど、ヴィオラは意思の強い目で宣言した。
「いいえ、無茶じゃないわ。とりあえず、行動しなきゃ。まずは……お父さん探しからね!」
「どうしてそうなる!」
全員が異口同音にそう言った。
***
「大変よ、ユーキッド!」
その日から、彼女の口癖は倍以上に増えた。ガッシュがメモしたところによると、日に3回はその言葉を言っている。しかしこれまでと違うのは、彼女の「大変」が「本当に大変」なことだった。
「デイティがおもらししちゃったわ!」
「デイティが泣き止まないの!」
「私手が離せないの!デイティを抱っこしてあげてくれないかしら!」
ユーキッドは言われるがままあっちへこっちへ走り回る。おぎゃおぎゃと泣きわめく赤子に、泣きたいのはこっちだと心の中だけでぼやいた。
結局、デイティ――ヴィオラの拾った赤ん坊は、教会で育てられることになった。各々が必死の説得を試みた結果だ。赤ん坊の幸せを考えるなら、何も知らないヴィオラが無責任に育てるより、きちんとした大人が育てる方がいい。そのことをヴィオラは理解したのである。
余談だが、正しい赤子の作り方も彼女は理解した。バネッサが淡々と行う性教育は思春期の少年たちにも、そして純粋なお嬢さんにも大変刺激の強いものだった。おかげで数日間、ヴィオラはユーキッドたち3人と顔を合わすとき頬を赤らめたままこちらを見てくれなかった。
閑話休題。
デイティが自分の子供ではなく捨て子であることを理解したヴィオラだったが、それでも自分が彼を保護した責任があると言って、毎日のように朝から晩まで教会で赤子の面倒を見始めた。教会には老神父と幾人かのシスター、そして料理などをこなす女性が数人いて、彼らがデイティの世話をしている。ヴィオラはその手伝いをしているのだ。
そして、そんなヴィオラの手伝いを、なぜかユーキッドが行っていた。
教会で行われる授業すらまともに出たことのなかった悪ガキが、毎日のように教会へやってきては文句を言いながらも少女に言われるがまま赤ん坊を抱っこしている光景に、教会の住人達はにやにや笑いを隠そうともしなかった。
「あーらユーキッド、今日も精が出るわねえ」
「デイティの抱っこの仕方も板についてきて、本当のお父さんみたいよお」
「ということは、ユーキッドとヴィオラが夫婦ってことになるわねえ」
おほほほほほ、という高笑いに、ユーキッドは顔を赤らめて「うるせえ黙れ」ということしかできない。しかも怒鳴ればせっかく泣き止んだデイティがまた泣くので、声を潜めて静かに言うしかなかった。
「さ、ミルクの準備ができたわデイティ……みんなそろってどうしたの?」
厨房からやってきたヴィオラが、シスターとユーキッドの様子に首をかしげる。
「なんでもない、早くしろよ、お嬢さん」
ユーキッドがごまかし気味にミルクを促すと、ヴィオラも笑顔でうなずく。そしてユーキッドの腕に抱かれたデイティを優しい笑顔でのぞきこむのだ。
その瞬間が、ユーキッドはたまらなく好きだった。たとえ誰にからかわれようと、それだけはごまかせなかった。
***
そうして穏やかで幸せで、もう少し先に進みたいような進みたくないような毎日がのんびりと過ぎていき、季節が2つほど変わったころ。
平原の木の上でごろごろしていたユーキッドとジョージとガッシュのもとに、いつものあれがやってきた。
「大変よ、ユーキッド!」
ここ数か月ヴィオラの「大変」はもっぱらデイティに関することだった。「大変、デイティが笑ったわ!」「デイティがたったわ!」「デイティが喋ったわ!大変!」とかとかとか。
今日はなんだ、とユーキッドが身を起こし、それをジョージとガッシュが「おい、お父さんが起きたぞ」「いっそこのまま結婚しろよ」だのなんだのと囃し立てていると、ヴィオラが焦った様子で駆けてきた。
「大変よ、ユーキッド!ジョージ、ガッシュ!」
「なんだよ、お嬢さん。デイティに歯でも生えたか」
「それはこの前言ったじゃない!……そうじゃなくて、大変なの。私、父から王都に戻ってこいって言われてしまったわ!」
それは久しぶりの「本当に大変」なことだった。3人は目を丸くしてヴィオラを見つめた。
***
そもそも、彼女がこの辺鄙な村にやってきたのは、父親の再婚が理由だった。ヴィオラの母は彼女が生まれてすぐ亡くなり、以来父と二人だけの生活をしてきたのだが、少し前に父が後妻を娶る話になったのだ。
父と後妻は年こそ離れていたが恋愛の末の結婚で、新婚の二人に気を利かせたヴィオラがこのタランツ村の屋敷を見つけて越してきたというわけだった。
「それで、この前私に弟が生まれたんですって。父と義母が『家族4人で暮らそう』って手紙をよこしてきたの」
ヴィオラの話を、3人は静かに聞いていた。ヴィオラがちらちらとユーキッドを気にしているような気がするのは、ジョージの願望のせいだろうか。
「ねえ、私どうしたらいいかしら。父も義母も好きだし、弟にだって会いたいけれど、でも私にはデイティがいるし、それにあなたたちと離れるのは寂しいわ……」
瞳をうるませるヴィオラ。ユーキッド、それにジョージもガッシュも思いは同じだった。もう2年近く4人は親友だったのだ。こんな突然の別れなんて嫌だ。
「どうにかして、この村にいることはできないのか?」
ガッシュが問う。思案するようにヴィオラは視線をさまよわせた。
「なにか、絶対的な理由でもあれば父だって無理に戻そうとはしないでしょうけど、でも」
この時、ユーキッドに深い考えがあったわけではなかった。しかし、彼の口からはとんでもない言葉が飛び出していた。
「ならお嬢さん、俺と結婚しよう」
「え?」
「は?」
「あ?」
3人の言葉が重なる。沈黙。ユーキッドはその静かな空間の中で、今自分が何を言ったのか唐突に悟り、今すぐ消えてなくなりたい衝動に駆られた。
「いや、あの……今のは」
「うおおおおおついに本音が出たかユーキッド!お兄ちゃんは嬉しいよ!」
「告白通り越してプロポーズかやるなお前!」
沸き立つ悪友2人だったが、ヴィオラは戸惑ったようにユーキッドの名前を呼ぶばかりだった。ユーキッドはユーキッドで先ほどの勢い任せの告白が一体なんだったのか自分でもよくわからず、次の言葉が出てこない。
「あ、あの、わ、私」
ようやくヴィオラが言ったのは、こんな台詞だった。
「デイティにミルクあげる時間だから……ごっごめんなさい!」
目にもとまらぬ早さで駆けだすヴィオラ。途中で焦りすぎたのか転んでいる。そんな彼女の後姿を呆然と見守るユーキッドに、ジョージとガッシュは声をかけた。
「あれ、これフラれた感じ?」
「玉砕現場な感じ?」
うるせえ、と平原に痛々しい叫びがこだました。
***
夫婦。結婚。告白。プロポーズ。
ヴィオラの脳内で、それらの単語がくるくると延々ダンスしている。ずっとだ。さっき木の下でユーキッドにあの言葉を言われてから、ずっと。
「お嬢さん、俺と結婚しよう」
いつもけだるそうに木の上で寝転んで、ヴィオラが名前を呼ぶとめんどくさそうに「なんだよお嬢さん」と返事をするユーキッド。村の大人にいっつも怒られている悪ガキで、教会の授業はきちんと出やしない。出会ったあの日から、自分の名前を呼んでもくれない生意気な少年。
けれどヴィオラが彼の名を呼ぶと絶対にきちんとこちらを向いて返事をしてくれる。めんどくさそうに、大変なデイティの世話も毎日手伝ってくれた。焼き菓子が大好きなくせに、食べると一瞬嬉しそうな顔をするくせに、すぐに澄ました顔で「まあまあだな」とか言って、でもそのあとまたこっそり嬉しそうに一口かじる、可愛い少年。
「デイティ」
ヴィオラはゆりかごの中で眠るデイティの額を優しく撫でた。自分の子供ではなかったけれど、大切な大切なデイティ。もう少しきちんとした大人になったら、自分の養子として引き取るつもりでいた。
そうしたら、自分が本当にお母さんだ。自分が本当の、デイティの家族。
「じゃあ、お父さんは」
自分には物心ついたときから父しかいなかった。それで困ったことはない。父は忙しかったけれど、きちんと自分を愛してくれた。けれど、本当はずっと憧れていた。家族。父と母と、子供のいる家族に。
王都に帰ればその家族が手に入る。大好きな父。その父を支えてくれた優しい義母。新しく生まれた自分の弟。ずっと憧れだった家族が目の前にあるのだ。なのに、なぜこんなにも自分は迷っているのだろう。
「……お嬢さん」
答えが、目の前に現れた。
本当はわかっていた。なんで自分はいつも彼の名前を呼ぶのか。将来デイティと家族になった時を想像して、お父さんになってほしいのは誰なのか。ジョージでもガッシュでもない。おとぎ話の王子様でもない。たったひとり。自分が困ったとき、嬉しいとき、自分の全部を一番先に伝えて、一緒に分かち合いたい人。
「ユーキッド」
「お嬢さん、さっきは、ごめんな」
ユーキッドは泣きそうな顔でヴィオラに近づくと、デイティをはさんで反対側に座った。彼の手がデイティの頬を撫で、そしてヴィオラの手に重なった。
「なんで謝るの」
「勢いで言っちゃったから。困らせただろ。俺もあんなふうに言うつもりなかったんだ」
謝るのは自分だとヴィオラは思った。あの時、本当はすごくうれしかったのだ。ユーキッドは自分と結婚したいと思ってくれている。自分の気持ちと同じなのだと。けれど、一瞬後に怖くなった。もし今の言葉が本心じゃなかったら。自分がいなくなることに焦って、勢いで言ってしまっただけだったら。自分のことは親友や姉ぐらいにしか思っていなかったら。そう思ったら、怖くなった。冷静になったユーキッドに断られたくなくて、逃げ出した。
「私こそ、失礼な態度をとってごめんなさい」
「結構傷ついたんだぜ」
冗談めかしてユーキッドが言う。もう一度ヴィオラがきちんと謝ろうと思ったとき、ぎゅ、とユーキッドの手がヴィオラの手を握った。
「ユ」
「静かにしてないと、デイティが起きる」
なんて効果的な脅し文句だろう。ヴィオラはユーキッドを見つめた。彼は頬を赤らめながら真剣な瞳で彼女の瞳を見返してきた。
「さっきは勢いで言ったけど、でも、あれは本音だ。俺はお嬢さんが好きだ。あんたが好きだから赤ん坊の世話も毎日したし――いや、今じゃこいつも可愛いと思ってるけど――あんたの『大変』に付き合ってきたんだ。そして、これからもあんたと一緒にいたいんだ。王都になんか戻るなよ。あんたが欲しい家族に、俺がなってやる。だから、ずっとこの村に、俺のそばにいてくれ」
「ユーキッド、私、私もね、あなたのこと」
すきなの、という彼女の小さな告白は、やってきた悪友2人の喜びの声と、それに反応した赤ん坊の泣き声にかき消された。
***
それから、幾年かたって。
平和とのどかさだけが取り柄の、王都から離れたタランツ村の教会で、永遠の愛を誓った男女がいた。村中の人間と、悪友と、そして幼い男の子に祝福された二人は、いつまでも幸せに暮らすことになる。
「大変よ、ユーキッド!」
悪友2人と仕事に励んでいた青年のもとに、愛しい妻が口癖とともに駆け寄ってきて、そして「デイティに弟か妹ができたの」と「大変」を告げるまで、もう少し。了
最近、青春過ぎてにやにやしちゃうようなお話が好きになってきました。
連載の息抜きに。
お読みいただきありがとうございました。