お嬢様学校
なし
話し出したオハラによれば、
彼女は、父、母とともにフランスに住んでいた。
父は、一時期名を馳せた世界的に有名な証券会社に勤務し
ロンドンに継ぐ、ヨーロッパの砦としてその仕事は多忙を極めていた
そんな多忙な会社に嫌気がさし、会社が無くなる前に父が転職したのは
先見の明があったとしかいえない
母が日本人で、何年もの外国暮らしでひどく日本に帰りたがっていたことも父が
仕事を辞めた一つらしい
こうして家族は、彼女が高校2年生の初秋、日本に来た、彼女にとって
里帰りで何度か日本を訪れていたが、暮らすのは初めての日本であった
父は、その温厚な人柄と人脈の広さで、すぐ横浜の貿易会社に勤めることになった
友人がいて一緒に働かないかと誘ってくれた事が大きかったらしい
父は素振りは見せなかったが、母のためとはいえ、後先考えずに会社をやめたので
今後の人生に一抹の不安もあったらしい。フランス人らしくない保守的な考えでもある
友人の貿易会社は、小さいながらも家族的な雰囲気でやめた会社と規模を比較しても
しょうがないが、そこがひどく氣にいったらしい
今も、フランスと日本を行ったり来たりしながら仕事を手伝っているそうだ
さて、母は日本に戻っても相変わらず専業主婦で優しく、夫と娘を見守っていた
母が一番心配したのは娘の教育でとかく日本は帰国子女に冷たいことを彼女は
長年の外国暮らしで知り得ており
役所の縦割り、建前主義も彼女自身の手続き一つをとってもみても
十分おつりがくるくらい身にしみてわかっていた
ただ運がよかったのは、
母は、先を見越して、小さい頃から日本語を丁寧に教え読み書きを特訓。
まさに、この日の備えのようだ。また、フランスで通っていた高校もよかった。
それは日本のいくつかのミッション系の学校と姉妹校を結んでいたからだ
ほどなくF女子大付属の高校に編入することができた
繰り返すが彼女が高校2年の初秋9月であった
街としては大きすぎ高層の建物が多いが、そこはかつて避暑でよく何週間も滞在したニースに似ていた
坂や意外に多い緑がそういわせたのかしれない
坂をのぼると、教会が見える
わざわざ出迎えてくれた理事長はまさにシスターであり
フランスから異国の地日本に来た彼女に優しかった
学校は伝統ある、お嬢様学校であった。その進学先は有名な
Tをはじめ、K、A、J大など幅広かった
普通科2年に編入され、彼女の新たな高校生活がスタートした
さすがに何回も外国からの転入生がきており珍しくないのか
帰国子女のオハラはすぐにとけ込むことができたが、やはり母の
日本語英才教育がものをいったらしい
まわりを取り巻く友人は一様にフランスでの生活を聞きたがった
彼女はきわめて丁寧にかつ親切に一人一人に応対した
全くえらぶるところはなかった。
なし