第十五話「香り」
お久しぶりです。
俺は紗弥香さんをバイトに雇ったことに納得がいっていない。どう考えても人手は足りていると思うのだが……。いったい、亮の母親は何を考えて彼女を採用したんだろうか。見るからにお嬢様育ちで、世間知らずそうに見える紗弥香さんが、うちみたいなラーメン屋で働く姿が俺には全く想像できないのだが……。
あれから二人の間で勝手に話が進み、紗弥香さんには、さっそく明日から働いてもらうことになったらしい。そして、亮の母親はよっぽど彼女のことが気に入ったのか、彼女をその日の夕飯にまで誘った。
「お口にあうかどうかわからないけど……」
なんて、お約束のセリフを口にする母親。紗弥香さんの隣に座っている清美は、なぜか浮かない様子で心ここにあらずといった感じだ。
「清美ちゃん。紗弥香さんったらすごいのよ。音大のピアノ科なんですって」
(おいおい。母さん。そこで清美に話ふるわけ?)
そんなことを心でツッコミながら、清美のほうに視線を移す。
「……え? ああ、ピアノ科? へえ〜、すごいですね。音大のピアノ科なんて……将来の夢はピアニストなんですか?」
それまでぼーっとしていた清美は、母親の言葉で我に返り、少し笑みを浮かべながら紗弥香さんに質問した。
「ええ、まあ」
しかし、また彼女は、さっき亮の母親に訊かれたときと同じセリフを返しただけだった。
(もしかして、このことにはあまり触れてほしくないのか?)
俺は何か別の話題に切り替えなければと思い、とっさに
「いや、それにしても育ちがいいと、食べ方までなんか上品な感じですよね?」
などと、意味不明なことを口が勝手に言っていた。
すると彼女は、箸を休めてこう言った。
「君も箸使い、とても上手ね」と。
夕食の後片付けを手伝い終えると「それじゃあ、お邪魔しました」と言って、紗弥香さんは一人で家に帰るつもりでいたらしい。
「ちょっと、紗弥香さん。もう遅いし、うちの亮が駅まで送っていくから」
慌てて亮の母が彼女を呼び止める。
こうして、俺が彼女を駅まで送っていくことになった。
一歩外に出ると、雪が少しちらついていた。いつの間にか小雨が雪へと変わったようだ。
(どうりで寒いわけだ)
妙に納得しながら傘を広げる。彼女にも傘を差し出す。
二人並んで歩き出すと、彼女が言った。
「今年のクリスマス、雪降らなかったね」
それは何気ない一言だった。
「え? ああ、そうなんですか」
俺の妙なリアクションに彼女はすぐにハッとして
「あっ、ゴメン。私、ついうっかりしてて……」
手に持っている傘と一緒に、顔を下に傾けるのがわかった。
「いえ、全然気にしてないからいいですよ」
彼女に変な気を遣わせないためにも俺は笑う必要があった。
その後しばらく、気まずいような沈黙が二人の間に流れた。遅い時間だということもあるのか、寒いからなのか、街は人通りもまばらで彼女を一人で帰さなくて正解だったな、と思った。
「私ね。今年のクリスマスに雪が降って、ホワイトクリスマスになったら奇跡が起きるような気がしてたんだ……」
沈黙を先に破ったのは彼女のほうだった。
「奇跡……ですか?」
突然、何を言い出したのかと思って、紗弥香の顔を見る。彼女は俺のほうに顔を向けずに、ただ前を向いたまま、歩きながら話を続ける。
「うん。奇跡なんか起きるはずないのに。バカだよね。私」
彼女はまるで独り言のように呟きながら、笑った。俺には、さっきから何の話をしているのか全く見当がつかなかったが、特に深く考えずに彼女の歩くスピードにあわせていた。
そうこうしてる間に、駅に着いていた。
「今日はどうもありがとう。明日からもまたよろしくね」
笑顔で紗弥香はそう言うと「傘は明日返すから」と、付け加えて駅の中に歩き出した。
俺は元来た道を数歩進んだところで、後ろから聞こえた彼女の声に呼び止められる。
「おやすみなさい」
一際大きな声だった。それが俺に向けられたものだとすぐにわかった。驚いて後ろを振り返ると、駅の中に歩いていったはずの彼女が十数メートル後ろにこっちを向いて立っていた。彼女の表情が、今にも泣き出しそうに見えるのは気のせいだろうか?
俺は、そんな彼女の様子がちょっと気になったが、少し笑って「おやすみなさい」と、挨拶を返した。
また前に向き直り、再び歩き出そうとした。そのときだった――。
彼女は何を思ったのか、俺のほうに走って近づいてくる。さしていた傘が宙に舞う。そして、俺に抱きついてきたかと思うと、胸に顔をうずめて泣いていた。
俺は突然のことに激しく動揺する。一瞬、直立不動のまま唖然としていたが、すぐに我に返り彼女を問いただす。
「ちょ、ちょっと紗弥香さん? どうしたんですか。いきなり?」
だけど彼女は、俺の質問には答えない。
「ちょっとだけ。あと三十秒だけ。このままでお願い」
(え? なんで三十秒?)
心の中で彼女のセリフに突っ込みつつ、周囲の人目を
気にしながらも彼女の言うとおり、そのままじっとしていた。
何があったのかなんて知らないけど、彼女にも彼女なりの事情ってものがあるんだろうと思い、それで彼女の気が済むのなら、別に悪い気はしなかった。紗弥香のつけている香水の香りが鼻につく。ふと、それが前にどこかで嗅いだことがあるような気がして驚く。何か、大事なことを思い出せそうで思い出せない。もどかしい。
「ごめん。いきなり変なことして。びっくりしたでしょ? 本当にごめんね。亮くん」
そう言って彼女は、ゆっくり亮の姿をした俺から離れると、ばつが悪そうな顔をし、駆け足でその場を去っていった。
一人になった俺は、自宅への道をとぼとぼと歩きながら、さっき何かを思い出せそうだった自分にあらためて驚いていた。
(香水? なんで俺、香水のことなんか……)
『亮』という名前を呼ばれて、違和感を感じたのもこれが最初だった。
実は、これだいぶ前に書いたものです。
そして、ここまでが今まで下書きを書いておいた部分です。
これから、いろいろ忙しくなるのでなかなか更新しないと思いますが、いつか続き書くつもりなので期待せずに気長に待っていてください。