第十三話「前進」
早朝。まだ薄暗い中、俺は目覚ましの音で起き上がる。本当はこんな時間に起きたくはない。でも俺は、ほかにどんな方法がいいのかわからないから、とりあえず階段を下りていった。
俺は一昨日の母親の一言が、あれからずっと気になっていたのだ。
『生きてさえいれば必ず前に進める』という一言が。
そこで自分なりに考えた結果、店の手伝いから始めてみようと思った。今の俺にできるのは、それくらいしかないような気がするし、変な話だけど、この家にただで置いてもらうわけにもいかないと思った。とにかく、こうなったら俺が亮としての生活に慣れなければいけないとも思ったのだ。
厨房では、亮の母親と従業員の川嶋さんが、仕込み作業に追われている。ひょっこりそこに顔を出してみる。
「ちょっと亮、あんた何? こんなに早く起きてきたりして……」
母親は俺(亮)の顔を見るなり、怪訝そうに言った。
「あ、いや、なんか手伝えることとかないかなーなんて……思って」
「何、言ってんの? そんなのあるわけないでしょ」
そのあとすぐに「邪魔だから、まだ寝てればいいのに」と付け加えられ、全く相手にもされない。
仕方なくしぶしぶ2階の部屋に戻ったが、俺の決意はその後も変わらなかった。
「店の手伝いとか、してみたいんだけど……」
「……」
相変わらず俺が店を手伝うのに反対なのか、母親は黙って掃除の手を休めようとはしなかった。もしかしたら、事故に遭った亮のことを心配しているのかもしれないと思い、
「ほら、もう身体のほうはピンピンしてるし。全然、大丈夫だから」
と、明るく言ってみた。すると母は、こっちのほうに視線を移し、
「あんた、店手伝うのは構わないけど、高校最後のテスト赤点取らないでね。ちゃんと卒業だけはしてくれないと、お母さん困るから」
と、一応OKしてくれた。
「テスト?」
「そう。あるでしょ? 学年末のテストが」
(そっか。そんなのがあるのか)などと思いながら、時計に目をやると家を出る時間が少し過ぎていた。
「あっ、やっべ。もうこんな時間だ」
俺は「行ってきます」と言い残し、清美の家に向かった。
清美と通学路を歩いていると、どこからか急に声がした。
『それにしてもいい考えだね。お店を手伝うの。何か君の手がかりもつかめそうだよね』
ハルカだ。俺は、またうっかりコイツの存在を忘れてしまっていた。いつも突然現れるから心臓に悪い。
『また私のこと忘れてたでしょ? 話しかけても聞こえてなかったみたいだし』
(え? おまえ、俺に話しかけてたのか。全然、気づかなかった)
もしかして、俺はハルカのことを意識していないと、姿も見えないし、声も聞こえない。今のように心で会話することなんてできない、ということなんだろうか。
『私と君は、今、一心同体なんだから君が考えてること、私には何でもわかっちゃうんだからね』
(えっ、そうなの?)
それは初耳だ。それにしても一心同体って、気持ち悪いな。この身体自体、他人のものだということを考えると、余計、気持ち悪いというか、変な感覚だ。俺とハルカの今の状態は、"一心同体"というより、"一身同体"というほうが、近いのかもしれないが……。
(ていうか、おまえ一心同体ってことは、いつも風呂とか着替えとか見てんのか? 変態だな)
『ば、ばか? 何、言ってんの。見てないよ。そういうときは、いつも部屋の外に居るんだから』
そんな会話を脳内で繰り広げているとは知らない清美が、ときどき俺に何か話しかけてきた。でも俺は、相づちを打つことぐらいしかできなかった。ハルカとの会話に集中していたからだ。
『ラーメン屋さんって、出前とかするんでしょ? だったら君自身とつながりのある人と出会えて、君自身の記憶がよみがえる可能性もあるんじゃない?』
(そうか。その可能性もないとは言えないよな。でも、俺がこの町に住んでいる、もしくは住んでいた、っていう根拠はないんだし。そんな運良く、俺の知り合い(?)に会えるとは思えないけど……)
『もう会ってるのかもしれないね』
(えっ?)
『ほら、世間って意外に狭いから』
(そうか。俺が気がついていないだけで、そういうことももしかしたらありえるのか。……いや、待てよ。だとすると、俺が気づかないどころか、相手も俺に気づかないんじゃ……)
そう考えを張り巡らしながら歩いていると、いつもの商店街に差し掛かっていた。
『恵まれない世界の子供達に救いの手を』と掲げられたスローガンを持った、変な数人の若者の姿が目に入った。朝っぱらから、こんな寂れた商店街で募金活動を行っているなんて、見るからに胡散臭い。俺は一言「ああいうのは、詐欺の可能性もあるから気をつけろよ」と、清美に注意して、その場を通り過ぎた。
一瞬、清美がハッとしたような、驚いたような変な顔をしたのだが、このときの俺は、そんなことを微塵も気にしなかった。
校門の近くまでくると、武田がちょうど向こうから歩いてきているのが見えた。その少し後ろに高橋もいる。
「おお、こみやんと今井ちゃん。おはよう」
武田が俺と清美に向って、声を掛けてきた。"今井"というのは、清美の名字だ。
「ああ、おはよ。偶然だね。武田くんが遅刻しないで学校来るのって、珍し〜」
清美が顔に笑みを浮かべながら、武田と言葉を交わす。
「もうすぐ、卒業だしな。残り少ない高校生活をきちんと過ごそうと思って……って、その言い方じゃ、俺がいっつも遅刻してるみたいじゃんか」
「してるでしょ? 実際」
清美は楽しそうに笑っている。
「武田、おまえ卒業できるかどうか心配になってきたんだろ?」
突然、武田の後ろから現れたのは、高橋だ。手には参考書らしきものが握られている。
「なんだよ。よっしーいきなり。てか、なんでそんなもの広げてんの?」
「は? もうすぐ期末だろ。俺は勉強なんかしなくても大丈夫だけど、武田、お前はまたどうせ赤点なんだろうな」
それだけ言い残すと、高橋は昇降口まで一人で歩き出していた。
「『勉強しなくても』って、してるじゃん。あいつ、矛盾してるよな?」
俺が少し笑いながらそう言うと、武田が呆れ顔で「そういうやつなんだよ」と、付け加えた。
「それにしてもよっしーって、変な奴だよな」
靴箱に靴を押し込んでいると、武田が首をかしげながら言った。
「変って、何が?」
「何って、あいつ聞いた話によると、医者の息子らしいぜ。なんでこんな底辺校にきてんだよ。わけわかんねーって、思わねえ?」
「へえ、あいつ医者の息子なんだ」
なんとなく、そんな雰囲気ではあるな。確かに。
靴を履き替えると、俺と武田は教室に向かう。ちなみに清美は、先に友達らしき女子と教室に行ってしまった。武田は、歩きながら話を続ける。
「しかも医者の息子ってだけでも、気に食わねえってのに、口も性格も悪いしな。俺達以外に絶対、友達いねえぞ」
武田は『絶対』という言葉を強調した。
俺達以外に友達がいないということは、少なくとも武田と亮は、高橋と友達らしい。自殺騒動のときに、なぜ高橋までもが俺についてくるんだろうかと、疑問だったのだが、そういうことならとりあえず納得がいく。でも、待てよ。亮は、ともかく、武田のような性格の奴が、高橋のようなタイプの人間と積極的に関わろうとするなんて考えにくい。
「じゃあ、なんでおまえや俺は、あいつと友達になったんだよ?」
俺は素朴な疑問を武田にぶつけた。
「はあ? それはおまえが、あいつにしつこく話しかけて仲良くなったんだろ」
お互いに顔を見合わせると、武田は何か大事なことを急に思い出したような顔で、その場に立ち止まり「ごめん」と、小さく呟いた。
「俺、おまえが記憶失くしてるってこと、今すっかり忘れてて……」
「いいよ。別に。事実だし。おまえが気にしてどうすんだよ」
そう言って、俺は笑ってみせた。
教室に入ると、友達らしき女子と話していた清美と、一瞬だけ目が合った。だけど俺は、特に何も気にもせずに亮の席に着く。
担任が数分後に教室に入ってくると、朝のホームルームが始まった。
『ねぇ? 聞こえてる?』
ハルカの声がした。
(何だよ。聞こえてるよ)
『君、気づいてないようだから言っとくけど、清美ちゃん君のこと、不思議に思ってるよ』
(おまえはいつから俺以外の人の気持ちを読めるようになったんだ? 最初からか?)
『もう、違う。違う。そうじゃなくてさぁ、募金だよ。募金。君のあの態度、言動、亮くんだったら、絶対にありえないよ』
募金だと?
(ああ、俺が清美に「気をつけろ」って、言ったこと?)
『うん。そう。清美ちゃんは、きっと今、君のこと、ものすごく混乱してると思う』
そんなことを後から言われても、今さらどうにもできないんだが……。
ふと視線を清美のほうに向けると、彼女はやはり何か神妙な面持ちで考え込んでいるように見える。
(やばい。俺のこと疑ってる?)