第十話「自殺騒動」
「ちょっと、小宮山くん!!」
担任の永瀬が俺に向かって叫んでいる。だが、そんなことは気にも留めずに、俺は無我夢中でどこかに向かっていた。
なぜ俺は今、廊下を走っているのだろうかと、ふと疑問を持つ。俺の隣には、自分のことを天使だとか言い張っているハルカの姿が、確かにある。ハルカと目が合った俺は、《もしかしてこれは、コイツ(ハルカ)の意志なのだろうか?》と、考える。
「おまえ、屋上に行く道順知ってるよな?」
『えっ?』
ハルカは俺の突然の質問にきょとんとした顔を見せた。こいつが亮に取り憑いていたんなら、当然そういうことを知っていても何ら不思議ではない。
(どうせこの行動もおまえのせいなんだろ?)俺はハルカを横目にそんなことを思った。
「……なんでいきなりまた現れたのか知らねーけど、面倒ゴトはマジ勘弁だからな」
(ていうか、俺を巻き込むな……)
そのとき、ふと後ろを振り返ると、清美や武田、そしてなぜか高橋までもが俺を追ってきていた。……清美と武田は、まあわかるけど、なぜにおしゃれメガネさえもが追ってきているのか、意味不明だ。
屋上へと続く階段を一目散に駆け上がる。俺は少しも迷うことなく、屋上へと向かってひたすら走っている。相変わらず、あの三人も追ってくる。
もうじき屋上に着くというときに、武田が突然こんな発言をした。
「あっ、やべぇ。俺、高所恐怖症なの忘れてた」
(――はぁ? じゃあ、ついてくんなよ!!)
俺は心の中では激しく突っ込んだが、こいつはたぶんそういうキャラなので、あえて口に出しては何も言わない。そのまま無視して、階段を上がっていく。すると、もう屋上の入り口のところまで来ていた。
勢いよく、屋上のドアを開く。真冬の風がさすがに冷たい。
そこにはおそらくこの学校の男子生徒だと思われるヤツが一人いた。そいつは特に何をするわけでもなく、ただぼーっと、屋上の柵のところに寄りかかって一人で空を見上げているように見える。そんな彼と、俺は目が合ってしまった。
「何してんの?」
そう訊いてきたのは俺ではなく、そいつのほうだった。
「えっ? 何って? ……何してんだろ……?」
自分で自分の行動が理解できないのだから仕方ない。俺は笑ってごまかすしかなかった。
すると突然、後ろから誰かの声がした。
「杉本……おまえ、こんなところにいたのか」
その声の主は、俺の存在なんか無視するかのように横をすりぬけ、『杉本』のところに近づいていった。彼はおそらく、杉本の担任か何かだろうと思った。
どうやらこの屋上にいる人物は高橋が言っていたとおり、『杉本』というヤツに間違いないようだ。
「どうしたんだよ、杉本。急にいなくなったりして、先生探したぞ」
杉本の担任か何かだと思われる男性教師は、穏やかな口調でそう言った。まるで腫れ物に触るような態度で、杉本に接しているような感じがするのは気のせいだろうか。
「先生、こないで。これ以上俺に近づいたら、こっから飛び降りるから」
杉本は驚くほど冷静にそう言い放った。男性教師の足が止まる。
そのとき、ふと横に目をやると俺の隣には、清美と高橋。それにハルカがいた。同時に男性教師がこちらを振り向き、俺たちの存在に気づいたようだ。彼は「君たちはもう帰りなさい」と、静かに言った。
「そうだね。亮、もう帰ろうよ。私たちには関係ないんだし」
横にいた清美が急かすようにそう言ったが、俺はなぜだか、まだここにいなければならないような気がしていた。相変わらず、これが俺自身の意志なのか何なのかわけがわからないが……。
(ハルカ。おまえもしかして、俺のこと操ってる?)
ハルカは何も答えない。
(あれっ? テレパシーみたいな感じで、心で会話できなかったっけ?)
まあいいや。そんなことはどーでも。
「……なんで俺についてきたの?」
突然、俺は清美に話しかけた。
「え? なんでって、亮が突然、教室飛び出していっちゃうから……」
「そうだよな。なんで俺、ここまで走ってきちゃったんだろうね?」
「?」
清美と高橋は、怪訝そうな顔を浮かべていた。ハルカは何を考えているのか全く見当もつかない。ただ、そこにいるだけだ。
依然として、その場から立ち去る気配のない俺たち三人(本当は四人?)に対して、男性教師はついにしびれを切らしたかのように、こっちに向かってくる。
「早く家に帰りなさい。君たちには関係ないだろ? 心配しなくても先生がちゃんと彼を説得して家に帰すから」
真顔でそう言って彼は、また杉本のほうに歩み寄っていく。でも俺たち三人は、一向にその場から少しも動かないままだ。俺と俺のことが心配な清美はともかく、高橋がここにいる理由が未だによくわからないが――。
「早く帰りなさいって、何度言ったらわかるんだ!!」
男性教師は、少し歩いたところでこちらを振り向いたかと思うと、突然、怒鳴り声をあげた。
「先生。別に帰らなくてもいいじゃん。こいつらたぶん、人が死ぬところを生で見たいんだよ」
先生の後ろでそう言ったのは、もちろん杉本だ。相変わらず、妙に冷静だ。
「何、言ってんだよ!? なぜ突然、そんなこと言い出すんだ?」
この教師は杉本のほうに振り向き、困惑している様子で彼に訴えた。
「突然、人生が嫌になったんです。理由はそれだけです」
「理由になってない! ちゃんと先生にわかるように説明しろ!! じゃなきゃ、先生は絶対に納得しないからな」
(おいおい。どんな理由でも納得しちゃダメだろ)
「……世の中って、不公平だと思いませんか?」
(はぁ? いきなり何、言い出したの? コイツ)
杉本は、自分なりの理由を述べはじめた。
「俺にはもう、生きている意味がなくなったんです。これから先、ただズルズル生きてても俺にはもう、生きる価値がない」
そう言い終えると、彼は柵をよじ登り、柵の向こう側に立った。
「おまえ、陸上ができない身体になったからなのか? そんなことを突然言い出したのはそのせいなのか?」
杉本は、教師の問いに答えない。
「確かにそのせいで大学の推薦がダメになってしまったかもしれない。でもな、人生これからまだずっと長いんだ。陸上ができなくなったのは残念だが、人生はそれだけじゃない。また、別の楽しみをいくらでも見つければいい」
「気休めなんか言わないでください。もう、決めたんです」
(決めたって、死ぬって? そんな簡単に決めんなよ)
「俺は本気です。今からここから飛び降りて死ぬから」
(――バ、バカだ。コイツ。正真正銘、最悪のアホだな。そんな理由だけでは、さすがにこの先生も納得いかないだろうな。まあ、こいつにとっては、陸上がすべてみたいなところがあったんだろうけど)
たぶんこいつは挫折というものを今まで一度も味わったことがないのだろう。全く、いい迷惑だ。「死にたいのなら、勝手に一人で死んでくれ」と、言いたいところだが、そんなセリフ、口が裂けても言ってはいけないという空気が流れている。
「すんなり思い通りにいっちゃう人生のほうが逆に怖いけどね」
突然、俺の口から自然に出たセリフがそれだった。思わず、杉本と男性教師が俺のほうを振り返る。その二人は(おまえ、まだいたのか?)的な目で俺を見ているような気がしたが、俺はそんなことは気にもせず、勝手に話を進めた。
「別に陸上なんかできなくても、死ぬわけじゃないんだからいいじゃん」
「!?」
その場にいた人間の顔が皆、引きつるのがわかった。
「お、おまえなんかに何がわかるんだよ! てか、おまえ誰だよ?」
「三年一組出席番号八番、小宮山亮」
俺は亮になってから、初めて人に自己紹介した。てか、この状況、客観的にちょっとウケるような気がしないでもないな……。
「確かに俺におまえの気持ちなんかわかんねーけど、そう言うおまえにだって俺の気持ちなんかわかるはずないよ」
「……? ど、どーいう意味だよ」
杉本は、俺が(正確には亮が)交通事故に遭って記憶喪失ってことを知らないようだ。まあ、別にそのことは関係ないからどうでもいいんだけど。
「さっきその先生が言ったことはさ、俺は正しいと思うよ。長い人生の途中で何かをやむおえず、諦めないといけないときってあるんだよ。きっと」
「諦めなくちゃいけないこと?」
杉本が俺に訊き返し、そのあと続けてこう訊いてきた。
「まるで自分が実体験したみたいな言い方するんだな。小宮山くんは何かを諦めたことがあるの?」
その言葉を聞いたとき。俺はハッとした。杉本の言うとおりだった。俺は何かを諦めて生きてきた……?のだろうか。わからない。今は。そんなことは知らない。憶えてない――。
「たとえばの話だよ。自分の力じゃどうにもならないことがさ、世の中にはあるんだ」……と、俺は思うよ。
たぶん人はそれを運命と呼びたがる。
「ハハハ。なんかもう、バカらしくなってきたよ。死ぬとか生きるとか、どーでもいいよ」
何を思ったのか、杉本は突然笑い出し、そして、柵を再びよじ登るとこちら側に戻ってきた。
「なんかよくわかんないけどさ、この彼が必死に説得してくれてるみたいだし。元々俺、本気じゃなかったから」
(は?)
「じゃ、俺もう遅いし、家帰るわ」
(は?)
「先生、ゴメンネ。なんか突然変なこと言い出しちゃって」
「いや、別に。それならいいんだが……」
突如、気が変わった杉本にその場にいた誰もが唖然とした。
(だいたい、こいつの心変わりした理由がわかんねーよ!!)
「小宮山くん……だっけ?」
杉本は俺のほうを振り向いて言った。
「なんか君があまりにも真剣だったから、逆にこっちがシラケてきちゃって……」
笑いながらそう言うコイツの顔を俺はまともに見ることができなかった。なんかこっちが恥ずかしい。
(真剣って、おまえマジじゃなかったのかよ! 本気だって言ってただろーが!!)
「……でも、君が言うこともほんとにそうなのかもしれないね」
「え?」
「自分の力じゃどうにもできないことって、あるんだよね。やっぱ俺、諦めきれなくてさ、いろいろ。男らしくなかったよな」
(はあ……)
「俺、君のおかげで踏ん切りついたから」
そういい残すと、彼は何事もなかったかのようにその場を去っていった。