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ほむら  作者: 工藤るう子
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2回目



久しぶりに結界から出ていた太智花の鼻先をふと過ぎったものは、聞き覚えのある薫香だった。


 貴珠の流す血の匂いだと、わかる。


 貴珠の血も、千差万別である。


 ただ匂いだけがよいものもあれば、逆もある。濃い匂い、淡い香。まろやかな、後を引く味わい。ねっとりと濃い、一度口に含めばしばらくは口にしたくないと思うような味もある。


 しかし、それは、これまで聞いたどれとも違う。


 独特な、匂いだった。


 なんと表現すればいいのか。はかなげでさえあるのに、妙に無視することができないような、不思議な吸引力を持つ、香だったのだ。


 だから、もうすでに、貴珠には興味もなくなっていた太智花ではあったのだが、行ってみる気になったのである。


 炎に照らし出された、紅蓮の地獄絵図の中で、今しも鬼が、少年に喰らいつこうとしていた。


 赤と黒の壮絶なまでの明暗に魅せられていた太智花は、なぜか、鬼の行動を止めていた。


 そうして、捧げられた、貴珠を、受け取ったのだ。


 鋭いもので傷つけられた首から流れる血は、固まりかけていた。


 そっと、太智花は、それを、舌先で、舐めた。


 その瞬間、口内に広がった芳しさを、いったい何にたとえればいいだろう。


 死にかけの貴珠など、血を最後の一滴まで絞り取り、打ち捨ててしまえばいい。そう考えるともなく考えていた太智花を圧しとどめたのは、その、血の、味の故だった。


 結界に戻る途中、太智花は、町から、人間の医師をひとり攫った。


 自身の治癒能力が人間に与える影響が強いことを慮っての行動ではあった。そうして、また、死なせるには少年の血の味は惜しい――そう、思ったからでもある。




 ――――――だというのに。




 太智花は、自分を、呪った。




 目覚めた貴珠の血を、しかし、太智花は、啜らなかったのだ。


 何故かはわからない。


 暗い、黒に近いような、褐色のまなざしだった。


 太智花を見ても、驚きもしなければ、恐れもしない。


 ただ、無機物を見るかのように、その双眸に映しているだけだった。


 太智花は、手をこまねいていた。


 まったく、太智花らしくないことに、だ。


 毎日、少年のようすを見、食事をさせた。


 そう。この太智花が、手ずから、貴珠に――である。


 口元にやわらかく煮込んだ食べ物を運んでやれば、一口か二口は、食べる。しかし、それ以上は、頑として、食べなかった。いや、食べることができないというのが、真実ではあったろう。一度、無理に食べさせた時、少年は、苦しげに、吐き戻したのだから。


 ―――心の病です。


 少しはここに慣れたのだろう、医師が、以前よりは落ち着いた風情で、こともなげにそう、告げた。


 心の――――――。


 貴珠とは、人とは、なんと脆い存在なのだ。


 このままの状態で太智花が血を啜れば、この少年は、永劫このままである。そう。心の病に囚われたまま、太智花が飽きるまで、生きつづけることになる。


 ただの貴珠なら、それでもかまいはしない。そう思う心が、確かに、太智花にはある。


 しかし、これは、違うのだ。


 何故かはわからないが。


 いや、違う。理由なら、すでに、わかっている。


 そう――認めよう。


 太智花は、この貴珠に、心を奪われているのだ。


 愛している。


 愛しているのだ。


 太智花のことを、この貴珠が認めぬまま、生きつづけることなど、太智花には、堪えられそうになかった。


 そう。


 いまだ、この貴珠は、太智花の存在すら、本当の意味では知らないままなのだ。




 そんなことが、どうして、許せるだろう―――――――――――












 母親にそっと隠すようにして手渡されたそれを見て、少年の表情が、泣き笑いになる。


 それはかつて勾引されたおりに母の手荷物の中にあったという、彼らの出自を証立てする唯一の物だった。


 身重の母は夫を亡くし、親戚の元へと向かう旅の途中で、この村の人間たちに攫われ今に至るのだ。


 素肌にまとった丈の短い着物の懐に、そっと、少年は、それを隠した。


 村人達に連れてゆかれる母が、最後に、少年を振り返る。


 そのくちびるが動いた。


 青ざめ、ひび割れた、血色の悪いくちびるが、音のないことばを紡ぐ。


 その先には、深く掘られた、穴が口を開けている。


 からからに乾いた地面に人を埋められるだけの穴を掘るのは、大変なことだっただろう。


 このために、自分たちは、生かされているのだ。


 自分たちが攫っておきながらお荷物と蔑み、穢れた血と忌み嫌いながら、それでも、生を繋ぐだけの物は与えつづけた。


 ただ、村人達に代わり、なにかがあれば命を差し出すものとして。


 かあさん。


 母親が、穴の底に下ろされてゆく。


 生きながら、埋められるのだ。


 水を乞う代償として。


 いらない。


 かあさんが殺されて、それで与えられる水など、ほしくない。


 この村に、未練も愛着もない。


 あるとすれば、ただ、嫌悪と、憎悪だけだった。


 いつか、逃げ出そう。


 そう、思い続けていた。


 かあさんを連れて、どこか、忌者いまれものの伝承がない土地に。――けれど、少年は、知っていた。




 忌者の伝承がない土地など、どこにもありはしないのだと。




 ただ、人知れず、身を隠していたかった。


 ただ、ふつうに暮らしたかった。


 畑を耕して、実りに感謝する。それだけでよかったのだ。


 それが、自分たちには――自分には決して許されないことだとしても。


 少年は、手の中にあるものを、そっと、見下ろした。


 村人達は、少年の母親に注目している。


 今だけだ。


 そう思った。


 自分たちを閉じ込めてきた、岩屋から出るのは、今だけしかない。


 岩屋から出て、かあさんを助けて、それで、逃げる。


 自分たちも渇いているけれど、村人達も渇いている。


 体力的に、そんなに差がないのに違いない。


 少年は、岩屋の格子に、母親に手渡された懐剣をつきたてた。


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