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みずち  作者: jibriel
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弐 雨宿りの店






 町はあるようで、しかして、はっきりとは始まらない。


 道の片側に、低い軒が続く。店先に吊るされた布は、雨に濡れて色を含み、藍は藍以上に深く、灰は銀を帯びる。人は歩いている。皆、急ぐ風でもなく、かと云って立ち止まりもせぬ。見知らぬ顔ばかりであるのに、こちらを見て怪しむ眼がない。誰も驚かないのである。月がふたつに見えても、川が逆に流れても、見慣れぬ男が濡れた橋から歩いてきても。


 空の匂いが変わる。

 ふむ、雨。


 そう思ったときには、もう降り出している。細い糸のような雨で、はじめは見えず、衣の肩口だけがしっとり重くなる。


 水血は、ある店の軒先に入る。

 男もそれに従う。


 店には反物が積んである。絹とも麻ともつかぬ手触り。見たところ、上等の品である。柄は控えめだが、色の沈み具合に値がある。男はそう見て取る。商売人の眼である。布地の癖、傷み、保管の具合、売先。見ればだいたいわかる。その確信だけは、まだ失っていない。


 店の主らしい老女がいる。

 顔の皺が、濡れた紙の折り目のようである。


「見ますか」


 と老女が云う。


 男は一反、手に取る。軽い。しかも重い。指に馴染むようで、滑って逃げるようでもある。不思議な布である。


「いい品だ」


「昨日までは」


 と老女が云う。


「今日は違うのですか」


「今日は、雨ですから」


 男は微笑する。値付けの駆引きか、土地の言い回しかと思う。


「雨でも、売れるものは売れる」


「売れることはあります」


「それで」


「残りません」


 男は反物を置く。


「代金を払っても、品が残らない?」


「残ることもあります」


「どういう条件で」


「条件は、雨の具合です」


 噛み合わぬ。

 だが、まるきりの出鱈目とも聞こえぬ。


 男は店の奥を見る。帳場がある。算盤もある。銭らしいものも見える。取引の形は、こちらの世とそう違わぬのだ。ならば、成立の規則があるはずだ。いや、規則があると思いたいだけかもしれぬ。規則のない市場など、男は信じたことがない。


「では、試しに」


 と云って、男は懐を探る。財布はない。名刺入れもない。あると思ったものが、どれもない。


 水血が袖から小さな銀色の片を出す。貨幣とも、貝ともつかぬ。


「借りてください」


「いいのか」


「返ることもあります」


 男はそれを受け取って、老女に差し出す。


「この反物を」


 老女は受け取り、頷き、反物を包む。取引は済んだように見える。男は、ほっとする。形式が整えば安心するのは、長年の習いである。


 包みを受け取って、脇に置く。


 次の瞬間、包みがない。


 男は目を見張る。たしかに脇へ置いたはずである。床を見る。足許を見る。何もない。老女は平然としている。


「どこへやった」


「どこへか、行きました」


「今、売ったろう」


「はい」


「代金も受け取った」


「はい」


「ならば、品は客のものだ」


「そういう時もあります」


 男は老女を睨む。怒りより先に、奇妙な眩暈が来る。契約が完了しているのに、成果が手に残らぬ。投下した価値が、実体を結ばぬ。こんなことは商売ではない。遊戯でもない。悪夢である。


 だが水血は、いかにも静かに、


「雨の日は、布が向うへ移ることがあります」


「向うとは、どこだ」


「乾いているほうです」


 男は言葉を失う。


 雨音が軒を打つ。

 軒端から、糸のような水が垂れる。

 店の前を、赤い花が一輪、流れてゆく。


「おや」


 と男はまた呟く。


 水血は、その花を見ている。


「赤は、持ちません」


「あなたが避けているからか」


「そうです」


「嫌いなのか」


「そうでもありません」


 女は振り向かぬ。

 ただ、濡れた道に浮く花だけを見ている。


「濡れると、よく見えるので」


 男は、何を云ってよいかわからぬ。

 だが、その一言が妙に胸へ残る。


 濡れると、よく見える。


 病のことを隠したまま、電話口で笑っていた恋人の声。

 出張帰りに買った、名ばかり高価で、軽すぎる赤い口紅。

 会えば渡そうと思って、とうとう渡せなかった。


 雨は、まだやまぬ。


 男は老女へ向き直る。


「では、この店の儲けはどうなる」


 老女は、しばらく考えるように目を細めたあとで、


「昨日のぶんが、今日へ来ることがあります」


 と云った。


 男は低く笑う。


「会計としては最低だな」


「でも、潰れません」


 その返答に、男は黙る。


 潰れない。

 伸びもしない。

 勝ちもしない。

 負けもしない。


 男のいた世界では、そんな会社は緩慢な死を待つだけである。だが、この町では、老女の店は今日も雨宿りの客を受け入れ、反物を売り、品を失い、なお軒を保っている。


 水血が云う。


「ここでは、続くものがあります」


「積み上がらないのにか」


「はい」


「そんな馬鹿な」


「でも、あります」


 そのとき、軒の外の雨脚が急に細る。

 見ると、雨は地から空へ上がっている。


 男は思わず一歩出る。

 頬を、水が撫でて昇ってゆく。


 冷たい。

 たしかに雨だ。

 だが、落ちてはこない。


 町の誰も、見上げない。

 濡れに濡れて、地の雨も気にならぬということは、はた歩いているのも疑わしい。




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