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みずち  作者: jibriel
1/2

壱 橋










気がつくと、男は橋の袂に立っている。


 橋、と云っても、町なかの頑丈なものではない。細く、長く、濡れた木を渡したばかりのような、頼りない橋である。欄干は低く、霧のなかへ溶けて、どこまで続くのか知れぬ。下には川があるらしい。あるらしい、というのは、水の音がたしかにするのに、水面は見えないからである。


 夕暮の霧は薄ぼんやりと赤く輝くような。

 それから、遠くで啼く、名の知れぬ鳥。


 男は、胸のあたりに手をやってみる。痛みはない。熱もない。息苦しさもない。けれども、何かひどく大切な勘定が、最後の一行だけ抜けたまま帳簿を閉じたような、そういう気持がする。


 己の名前は何であったか……。

 それから、勤め先を思い出す。

 都心の高いビル。会議室。資料。買収された地方の中堅商社。自分はそこへ送られた。整理と再建。人の顔色を見ながら、数字を見て、人を動かし、金を流し、滞った血を通わせる。うまく行きかけていたのである。あとひと月、いや、三週間あれば、見事に立て直せた。そういうところまで来ていた。


 恋人のことも思い出す。


 病のことを、深刻には伝えていない。流行り病だった。皆が罹る。皆が怯える。だが大抵は治る。自分も治るつもりでいた。実際、そういう顔をしていた。電話では声を張った。熱のことは笑って誤魔化した。再建が片づいたら、落着いたら、あらためて話そうと思っていた。そうして、次の季節には――。


 そこまでで、男は目を上げる。


 橋の半ばに、女が立っている。


 長い髪。黒く見える。だが霧の薄いところへ差しかかると、銀にも見える。風のないのに、裾だけがわずかに揺れる。地味な衣の色で、花も刺繍もない。赤だけがない。そこだけ、わざと避けたように見える。


 女は振り向かない。


 ただ、橋の向うを見ている。


 男は、なぜだか小声になる。


「もし」


 女は答えぬ。


「ここは、どこです」


 すると女は、ややあって、


「今は、上のほうから流れています」


 と云う。


 男は眉をひそめ、橋の下の霧を見た。たしかに、水の音がする。だがそれが上から下へ落ちる音なのか、下から上へ昇る音なのか、わからない。


「地名を聞いているんですが」


「名は、あとで附くことがあります」


 女はそう云って、やはり振り向かない。


 男は少し苛立つ。質問に正面から答えぬ人間は、交渉の相手として厄介だ。だが厄介と感じる一方で、妙に馴染むものもある。世の中には、答えを曖昧にしたまま、こちらに決断だけを迫る局面が、幾らでもある。そういう時、男は自分が他人より幾分うまく立ち回れると信じてきた。


 橋の上へ足を載せる。


 濡れている。

 けれど、滑らぬ。


 女の背へ向かって、男は歩く。

 歩くごとに、霧は橋板を撫で、木の匂いが立つ。橋は長いようでもあり、二十歩ほどでもあるようでもあり、距離が定まらぬ。


「あなたは」


 と男が云うと、女は初めて少しだけ顔を傾けた。


 横顔。白い。

 まぶたが薄い。

 口許に、笑いとも、疲れともつかぬ影。


「水血」


「みずち」


「そう呼ぶひとがあります」


「あなたの名ですか」


「花の名でもあります」


 男は橋の下を見た。霧の裂け目に、いっとき、赤いものが見える。花である。水ぎわに咲くのか、流れているのか、判然とせぬ。けれどたしかに、赤い。


 女は云う。


「橋を渡ると、戻ることもあります」


「戻れるのですか」


「同じではありません」


 男は、そこで小さく笑う。


「それは、どこの世界でも同じだ」


 すると水血は、今度はほんの少し、こちらを見た。

 男の顔を見たのではない。眼差しは、その向うにある、男の失くしたものを見たようである。


「そうですか」


 橋の中ほどに着いたとき、霧が濃くなる。女の姿が霞む。手を伸ばせば届くようでもあり、すでに遙か彼方にいるようでもある。


 男はふいに思う。

 橋を渡れば、二度とは会えないか。


 けれど、それが誰のことなのか、すぐにはわからぬ。橋のこちら側に置いてきたものか、橋の向うに立つものか。


 霧が薄れたとき、二人はもう向う岸にいる。


 橋はたしかに渡った。

 だが、渡りきった感じがしない。


 男は思わず振り返る。橋はまだ半ばのように見え、しかも向う岸にある。こちらへ渡ったのか、あちらへ行ったのか、それも定かでない。


 水血は先を歩き出す。


「町があります」


「宿は」


「雨の来る前に、店が」


「雨が来る」


「来ることが多いです」


 男は空を見上げる。夜になる寸前の色である。だが、その寸前がひどく長い。紫とも青ともつかぬ空の底に、白い月がひとつある。いや、ふたつかもしれぬ。目を凝らすとひとつに戻る。


「おや」


 と男は呟く。


 水血は、その声だけを聞いたように、


「驚くひとは、すぐ慣れます」


 と云った。



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