壱 橋
気がつくと、男は橋の袂に立っている。
橋、と云っても、町なかの頑丈なものではない。細く、長く、濡れた木を渡したばかりのような、頼りない橋である。欄干は低く、霧のなかへ溶けて、どこまで続くのか知れぬ。下には川があるらしい。あるらしい、というのは、水の音がたしかにするのに、水面は見えないからである。
夕暮の霧は薄ぼんやりと赤く輝くような。
それから、遠くで啼く、名の知れぬ鳥。
男は、胸のあたりに手をやってみる。痛みはない。熱もない。息苦しさもない。けれども、何かひどく大切な勘定が、最後の一行だけ抜けたまま帳簿を閉じたような、そういう気持がする。
己の名前は何であったか……。
それから、勤め先を思い出す。
都心の高いビル。会議室。資料。買収された地方の中堅商社。自分はそこへ送られた。整理と再建。人の顔色を見ながら、数字を見て、人を動かし、金を流し、滞った血を通わせる。うまく行きかけていたのである。あとひと月、いや、三週間あれば、見事に立て直せた。そういうところまで来ていた。
恋人のことも思い出す。
病のことを、深刻には伝えていない。流行り病だった。皆が罹る。皆が怯える。だが大抵は治る。自分も治るつもりでいた。実際、そういう顔をしていた。電話では声を張った。熱のことは笑って誤魔化した。再建が片づいたら、落着いたら、あらためて話そうと思っていた。そうして、次の季節には――。
そこまでで、男は目を上げる。
橋の半ばに、女が立っている。
長い髪。黒く見える。だが霧の薄いところへ差しかかると、銀にも見える。風のないのに、裾だけがわずかに揺れる。地味な衣の色で、花も刺繍もない。赤だけがない。そこだけ、わざと避けたように見える。
女は振り向かない。
ただ、橋の向うを見ている。
男は、なぜだか小声になる。
「もし」
女は答えぬ。
「ここは、どこです」
すると女は、ややあって、
「今は、上のほうから流れています」
と云う。
男は眉をひそめ、橋の下の霧を見た。たしかに、水の音がする。だがそれが上から下へ落ちる音なのか、下から上へ昇る音なのか、わからない。
「地名を聞いているんですが」
「名は、あとで附くことがあります」
女はそう云って、やはり振り向かない。
男は少し苛立つ。質問に正面から答えぬ人間は、交渉の相手として厄介だ。だが厄介と感じる一方で、妙に馴染むものもある。世の中には、答えを曖昧にしたまま、こちらに決断だけを迫る局面が、幾らでもある。そういう時、男は自分が他人より幾分うまく立ち回れると信じてきた。
橋の上へ足を載せる。
濡れている。
けれど、滑らぬ。
女の背へ向かって、男は歩く。
歩くごとに、霧は橋板を撫で、木の匂いが立つ。橋は長いようでもあり、二十歩ほどでもあるようでもあり、距離が定まらぬ。
「あなたは」
と男が云うと、女は初めて少しだけ顔を傾けた。
横顔。白い。
まぶたが薄い。
口許に、笑いとも、疲れともつかぬ影。
「水血」
「みずち」
「そう呼ぶひとがあります」
「あなたの名ですか」
「花の名でもあります」
男は橋の下を見た。霧の裂け目に、いっとき、赤いものが見える。花である。水ぎわに咲くのか、流れているのか、判然とせぬ。けれどたしかに、赤い。
女は云う。
「橋を渡ると、戻ることもあります」
「戻れるのですか」
「同じではありません」
男は、そこで小さく笑う。
「それは、どこの世界でも同じだ」
すると水血は、今度はほんの少し、こちらを見た。
男の顔を見たのではない。眼差しは、その向うにある、男の失くしたものを見たようである。
「そうですか」
橋の中ほどに着いたとき、霧が濃くなる。女の姿が霞む。手を伸ばせば届くようでもあり、すでに遙か彼方にいるようでもある。
男はふいに思う。
橋を渡れば、二度とは会えないか。
けれど、それが誰のことなのか、すぐにはわからぬ。橋のこちら側に置いてきたものか、橋の向うに立つものか。
霧が薄れたとき、二人はもう向う岸にいる。
橋はたしかに渡った。
だが、渡りきった感じがしない。
男は思わず振り返る。橋はまだ半ばのように見え、しかも向う岸にある。こちらへ渡ったのか、あちらへ行ったのか、それも定かでない。
水血は先を歩き出す。
「町があります」
「宿は」
「雨の来る前に、店が」
「雨が来る」
「来ることが多いです」
男は空を見上げる。夜になる寸前の色である。だが、その寸前がひどく長い。紫とも青ともつかぬ空の底に、白い月がひとつある。いや、ふたつかもしれぬ。目を凝らすとひとつに戻る。
「おや」
と男は呟く。
水血は、その声だけを聞いたように、
「驚くひとは、すぐ慣れます」
と云った。




