心の優しさと温かさの炎 ~失われたものを取り戻して~
お読みいただき、ありがとうございます。本編の内容は、著者に関する数多くの実話のエピソードを、私が思い描く小説の中の世界観に合うように、個人情報を伏せ、様々なアレンジを加えたり、エッセンスのみを抽出したりして盛り込みました。人の心の優しさと温かさに焦点を当てて、ハラハラドキドキではなく、安心しながら読めるような構成になるように工夫いたしました。
また、現代の社会問題にも少し焦点を当て、何か考えさせられるような、社会問題について考えるきっかけを提供できるように、意識して書きました。
最後までお読みいただけますと幸いです。
今日も頑張ったな。嫌なこともあったけれども、充実していたな。いつものように、炎太はベッドで寝に就いた。朝が来た。さて、大学に行くか。炎太は地元の大学に通い、農学と環境工学について学んでいる大学生で、毎日の講義で学びに勤しむのは勿論、ボランティアサークルに所属し、代表を務めて自分が中心となり、数々のボランティアを行ってきた他、自主的に道端のごみ拾いをしたり、駐輪場で強風で倒れた数多くの自転車を立て直したりするなど、小さな善行を日常的に、特に意識することもなく、自然と行っていた。
炎太は昔から人の幸せを願っており、心からの願いと信念があった。困っている人がいたら力になりたい。苦しんでいる人がいたら闇の底から引っ張り上げて救いたい。頑張っている人がいたら応援したい。自分に優しくしてくれた人には恩返しをしたい。誰ひとり傷つかず、取り残されることがない社会を創りたい。これらの心からの願いと信念が、炎太に無限のエネルギーを与え、炎太を鼓舞し、ボランティア活動などに駆り立てた。炎太の心からの願いと信念は、独りで創り上げたものではなかった。炎太には今は亡き優しい祖父がいて、炎太の幼少期に炎太に沢山の愛情を注いでくれた結果、炎太の心の中に、緑色の心の優しさの炎とオレンジ色の心の温かさの炎が生まれた。
緑色の炎とオレンジ色の炎は、炎太の心の中で燃え盛り、特に炎太が、主に現在は在学中でない元生徒や高校生以下の生徒を対象とした学習支援ボランティアに勇往邁進するエネルギーとなった。炎太は学習支援ボランティアの教室から次々に巣立っていく生徒たちから、炎太先生のおかげで合格できたなどと、お礼を言われることも多く、その生徒たちの合格という結果や明るい未来の幸せが、更に炎太の緑色とオレンジ色の心の炎に薪をくべたのであった。
ある時、炎太は大学の友人の信子から相談に乗ってほしいと言われた。炎太は人の役に立ちたいと常日頃から思っていたため、快諾した。信子はどうやら、アルバイト先の人間関係に悩んでいるようだった。意地の悪い先輩もいれば、生意気な後輩もいて、週に数日、ストレスフルな職場で働かなければならず、深刻に悩んでいて、自尊心が傷ついており、自分に対する自信を失いかけていた。炎太は、大学では比較的良い人間関係を築いていたが、高校生時代はあまり人付き合いは良い方ではなく、人に傷つけられたこともあった。そのようなこともあり、炎太は信子のつらく、苦しい気持ちがよく理解できた。炎太が大学では比較的良好な人間関係を築くことができているのは、人にはそれぞれの価値観があり、個性があるため、全ての人と仲良くなることは無理だと割り切っているからであった。そのため、炎太は、自分とは合わない人とは軽く挨拶を交わす程度に留め、それ以上は関わろうとせず、趣味や期待する将来像、価値観などが合う人とのみ、深く関わることを心掛けたのだ。信子とも仲良くしていられるのは、信子と趣味が合うからであった。炎太は、信子に自分が大学での比較的良好な人間関係を築くにあたって、どのように心掛けてきたかを伝えた。その上で炎太は、信子のことをとても大切な友人だと思っていることも伝え、今回だけでなく、何か他にも困っていることがあれば相談に乗るし、この先、困難に直面した時は一緒に解を考えるから、いつでも自分に頼っていいのだと、励ました。信子は目に涙を浮かべ、炎太に「ありがとう。」と言い、ぎこちない顔で笑顔を見せた。炎太は、少し元気を取り戻した信子を見て安心し、笑顔でまた今度と、自宅へと向かった。その翌日に、何が起こるかも知らずに。
炎太に励まされ、少し元気と自尊心を取り戻した信子は、少し冒険がしてみたくなり、気分転換も兼ねて普段は行かないようなアパレルショップへと向かった。ショップに着いた時、信子は異様な雰囲気を感じた。すると、ピリつくような空気を切り裂くかの如く、マスクをして帽子を被った一人の男が現れ、信子の横を突っ切り、ショップの中へとずんずんと入っていき、刃渡りが20センチ以上ありそうな包丁を懐から取り出し、中にいた客を片っ端から切りつけていった。通り魔である。信子は足がすくみ、その場を離れることができず、座り込んでしまった。逃げなくてはと必死に自分に言い聞かせたが、時既に遅し、男は信子の目の前に出てきて、信子の顔を切りつけ、悠然とその場を去っていった。信子はあまりの痛みに顔を手で覆いながらも、指の間から離れていく男を見た。
信子は自分の身に降りかかった突然の不幸と痛みに動揺し、切りつけられる前に見えた男の正面の姿と指の間から見た後姿に、なぜか炎太の姿を重ねてしまった。恐怖がどんどん増していき、混乱して我を失った信子は、炎太を通り魔であると思い込んでしまった。信子は混乱しながらも、自力で病院に行き、手当てを受けた。幸い、顔のけがは軽く、跡はほとんど残らないとのことだったが、心に深く傷を負った信子は、動揺が収まらず、一週間、大学を休んだ。
一週間後、そんなことは露知らず、炎太は大学の講義室で信子を見かけ、話しかけた。炎太の姿を見た信子はあの日を思い出し、戦慄を覚えて悲鳴を上げ、混乱して炎太が通り魔であると叫んでしまった。すると、周囲にいた学生たちは騒ぎ出し、事態が錯綜した。通り魔のレッテルを貼られた炎太は、困惑して周りの友人たちに何が起きているか尋ねようとしたが、誰一人として、炎太と話そうとはせず、炎太から離れていった。炎太は何が何だか訳がわからず、その場を後にしたが、炎太の心の中では、紫色の小さな火が燃え始めていた。信子は混乱のあまり、一週間大学を休んでいる間に、友人や家族、親族などに炎太が通り魔事件を起こし、自分を含めて大勢の人々を凶器で傷つけたと流布してしまっていた。そしてまるでとどめを刺すかのように、大学の講義室で炎太を通り魔であると糾弾してしまった。噂は留まることなく広がり、何を伝ってか、炎太がボランティアで関わってきた生徒たちや、ボランティアで救ってきた人たちの間にも広まってしまっていた。信子が講義室で叫んでから3日後、信子は友人から、事件日の犯行時間帯に図書館で炎太が学習支援ボランティアに使える参考書は無いかと探していたことを耳にした。その友人は炎太に一緒に良い参考書を探してほしいと頼まれていたとのことだった。そこで初めて信子は己の犯した過ちに気が付いたが、もう手遅れであった。炎太は友達を一人残らず失い、ボランティアで関わってきた生徒や救ってきた人たちからも冷たくあしらわれ、罪のレッテルを貼られてしまっていた。そして、炎太の心に変化が生じた。
炎太の心の中では、自分を襲った理不尽さへの憎しみが、紫色の炎となって大きく燃え上がってしまっていた。信子は炎太から復讐されるかもしれないと恐れながらも、炎太に謝罪したが、焼け石に水で、信子は炎太から何も仕返しをされることはなかったが、炎太の目にはもはや信子は映っていなかった。炎太は思った。「人の幸せを願い、全力で尽くしてきて、多くの人々の役に立ってきた結果、理不尽な仕打ちを受けるくらいなら、もう人の幸せを願うのはやめ、人を憎み、自己中心的に生きてやる。」と。炎太は失意のどん底に落ち、深く暗い闇の底に堕ちた。
炎太の考えが変わり、心からの願いと信念が失われてから数日後、炎太は強い憎しみを抱きつつ、心の中で紫色の憎しみの炎を燃やしながら、街をぶらぶらと投げやりな気持ちで歩いていたところ、突然、激しい雷鳴と伴に炎太を雷が襲い、炎太は意識を失った。
意識を取り戻した炎太は、目が見えず、耳も聞こえず、四肢は動かせるものの、感覚はなく、寒くて震えていたところに、一人の女性が現れ、温かい毛皮を掛けてくれた。炎太は感覚がなく、寒さが少し和らいだことしか認識できなかったが、段々と左目だけがうっすらと見えてきて、女性を認識できた。炎太は、女性の胸の辺りで何か緑色とオレンジ色の光のようなものが見えた気がした。周囲を見渡すと、大自然の中で原始的な自給自足生活を送る民族らしき人々が左目に映った。ここはどこだろうか。古代へタイムスリップか?炎太は疑心暗鬼になりながらも、必死に現在の状況を分析していた。すると、女性は笑顔でもう一枚、毛皮を重ねてくれた。その瞬間、左耳が少し聞こえるようになった。どうやら、この民族の間では、日本語が使われているらしい。古代のように見えるのにも関わらず、日本語が使われていることから、信じ難いが、異世界に転生したのだろうという結論に至った。また、女性が毛皮を重ねてくれた時に、身体の感覚の一部が戻ったことから、炎太は心の優しさや温かさに触れると、身体の感覚が一つずつ少し戻っていくことに気が付いた。炎太は女性に感謝を伝えようとしたが、声帯が動かず、声が出なかった。
その時、突然、盗賊たちと思われる集団が現れ、炎太を連れ去って何をするかと思えば、何もせず、道端に雑に捨て去った。炎太は現在、四肢は動かせるものの、感覚はなく、左目がぼんやり見え、左耳が少し聞こえる程度の状態で、誰かの助けが必要だと思い、人を探して歩き始めた。前世では、ボランティア活動を通して人を助ける側だったが、現世では人に助けてもらう側になってしまったと思いながら、炎太は何とか助けを求めることができないかと辺りを見渡したところ、老婆らしき人物が道端で疲れて休んでいるのを見つけた。炎太は声帯の感覚がなく話せないので、老婆の前で首をかしげる動作をして見せたところ、老婆からここから一キロメートルほど先に自宅があるので、そこまでおぶっていってくれないかと頼まれた。炎太は、助けてほしいのは自分の方だけれども、幸い四肢は動くので、助けるのは可能だと考え、老婆の頼みにうなずき、老婆の家までおぶってあげた。老婆は別れ際に「ありがとう。」と炎太に言い、手を振って再び道に送り出してくれた。すると、ぼやけていた炎太の左目がはっきりと見えるようになった。炎太は、この世界では、人の心の優しさや温かさに一度触れると身体の感覚の一か所が半分程度回復し、そして自分が人に心の優しさと温かさを提供すると、その半分程度回復した感覚が完全に回復することを悟った。
炎太は前世で自分の心の優しさや温かさを理不尽な仕打ちで返され、人を憎み、心の中に紫色の憎しみの炎を宿すようになったが、この世界で人の心の優しさと温かさに触れ、そしてそれらを自分も提供することで、心の中に再び緑色の心の優しさの炎とオレンジ色の心の温かさの炎を復活させることができた。炎太は、この世界で出会う人たちと、心の優しさと温かさを交換し合い、身体の感覚を取り戻していき、前に進んで行こうと固く決意した。そして、この世界の心の優しさと温かさの原点の、あの温かい毛皮を掛けてくれた〈はじまりの女性〉に「ありがとう。」と言えるように、緑色の心の優しさの炎とオレンジ色の心の温かさの炎に薪をくべ、大きくしていき、紫色の憎しみの炎を燃やし尽くすのだと、この世界で生きる希望を見つけたのである。
炎太は、まずはこの世界で友人をつくりたいと思い、また、激しい喉の渇きと空腹を何とかするため、とにかく歩いて人を探し続けた。すると、一人の男性が歩いているのを見つけ、男性の目の前まで急いで歩いていき、身振り手振りで、自分は声が出せなくて、独りで何も持ち合わせがなく、お腹が空いて困っていることを伝えた。有難いことに、男性は何となく状況を察してくれて、男性の家に招いてもらえることになった。男性は勇太と名乗り、炎太に名前を聞いてきたため、炎太は近くに落ちていた枝で地面に自分の名前を書いた。お互い名乗り合った後、二人は家に着くと勇太は、熊の毛皮だろうか、布団のように家の床に毛皮を敷いてくれて、そこで横になって休めるようにしてくれた。そして、勇太は動物の骨で作ったと思われるコップのようなものに水を入れて、炎太に持ってきてくれた。激しい喉の渇きに苦しんでいた炎太は思わず一気に飲み干したため、噎せてしまった。すると、急にこれまでの疲れがどっと出て、炎太は気分が悪くなってしまった。顔色の悪い炎太を見た勇太は、たっぷりの野菜と少しばかりの肉が入った温かいスープを持ってきてくれ、「良くなりますように。」とスープの温かさに負けない温かい言葉を掛けてくれた。すると、炎太は右目がぼんやりと見えるようになった。炎太は声は出せなかったが、勇太にお礼として何度も頭を下げた。やはり、人の心の優しさと温かさに触れると、身体の一部の感覚が戻るようだ。スープを飲んだ炎太は、少し元気を取り戻した。顔色が良くなった炎太を見た勇太は、少し困った素振りを見せ、もしよければ、畑の作物の収穫を手伝ってくれないかと炎太に頼み込んだ。勇太に優しくしてもらった炎太は快諾してうなずき、外に出て畑のじゃがいもや人参、ブロッコリーなどを勇太と一緒に収穫した。古代のように見えるこの世界に、前世の世界と同じものがあることから、やはり炎太は、自分が異世界へと転生したことを確信した。少しそのような考えを巡らせていたところ、勇太は畑の傍にある木になっていた栗を指差し、自分は栗を食べたことがないから食べてみたいと言い、休憩がてらおやつとして食べようと誘ってきたので、木登りが上手な炎太は毬栗を次々と木から落としていき、勇太はそれを拾って籠に集めた。再び家に入った二人は、栗を食べようとして動物の棒状の骨を使って毬栗から栗を外そうとしたが、勇太はその作業が苦手なようで、苦戦していた一方、前世で祖父とよく毬栗から栗を取り出していた炎太は、サクサクと作業を進め、あっという間に栗を全て取り出してしまった。炎太は栗の焼き方も知っていたので、家の外に出て、落ち葉と小枝を集めて竈から火を持ってきて、焚火をした。炎太はその火の中で栗を焼き、頃合いを見て回収し、動物の骨を使って中身を取り出して、勇太に食べさせてあげた。勇太は味わったことのないあまりのおいしさに目を輝かせ、嬉しそうに笑い、炎太に「ありがとう。」と言った。その瞬間、ぼんやりと見えていた炎太の右目ははっきりと見えるようになった。炎太は気が付いていなかったが、毬栗を収穫した時に、少し手を怪我していた。それに気が付いた勇太は、炎太に手を井戸水で洗わせた後、綿で作った包帯を手のひらに巻いてあげた。すると、炎太は左足の感覚が少し戻った。炎太はまた勇太に感謝して頭を下げた。腹ごしらえを終えた二人は、少し休んだ後、また会おうと約束をして別れ、炎太は再び身体の感覚を取り戻す旅に出た。別れ際に、勇太は炎太に保存の利く干し肉やドライフルーツと、動物の皮で作った水筒に井戸水を入れて、餞別としてくれた。
再び荒れた道を進んで行くと、遠くに一人倒れている男性を見つけた。炎太はすぐにそばに駆け寄り、身体を起こしてあげた。すると、その男性も炎太と同じように、盗賊に攫われて道端に捨てられてしまったと話した。炎太と異なり、盗賊たちの溜まり場で、三日間も何もない大きな箱部屋のような所に閉じ込められたそうだった。幸い、その男性は自宅からそれほど離れていないところで捨て去られたので、家に帰る算段はついているらしいが、なんせ三日間も閉じ込められたせいで、お腹が空いて、喉もカラカラに乾いていて、動けなくなってしまったとのことだった。運の良いことに、炎太は勇太から食料と水をもらっていたので、半分ほどその男性に分けてあげた。男性はとても喜び、炎太に「ありがとう。」と言った。男性はお腹を満たした後、ゆっくりと立ち上がり、この先に小さな村と市場があることを教えてくれた。すると、炎太の左耳がはっきりと聞こえるようになった。
しばらく歩いていくと、炎太は川の向こう岸に小さな村を見つけたが、川を渡るにはどうしたらよいのかわからず、困っていたところ、近くに木船と船頭を見つけた。船頭は、普段は客から運賃を取るらしいが、炎太がお金を持っておらず、食料と水も少ししかもっていないことを知って可哀想に思い、今回は大サービスだと言って、無償で船に乗せてくれ、向こう岸まで運んでくれた。その瞬間、炎太の左手の感覚が、少し麻痺は残るが、戻ったのだった。炎太は船頭に頭を下げてお礼した後、小さな村へと向かっていった。村人は炎太を見てすぐに近寄ってきて、丁度今、人手が足りなくて困っていたから、仕事代を出すから、薪割りを手伝ってほしいと言ってきたので、この世界で一文無しの炎太は、これは助かるぞと思って快諾した。現在の炎太の四肢に感覚があるのは左手のみで、しかもその感覚は完全ではなく、四肢は動かせるが、両目の視覚と左耳の聴覚以外のあらゆる感覚が不足している炎太にとっては、薪割りは非常に大変なものであったが、何とかこなして、村人たちの役に立ち、対価としてお金をもらった。お金は前世で流通していたものと同じ種類のものだった。炎太はまた一つ、身体の感覚が戻るかと期待したが、実際は何も戻らなかった。どうやら、対価をもらうことを条件に、人の役に立っても、それは心の優しさと温かさの炎による行動ではないため、身体の感覚は戻らないようだ。それがこの世界のルールらしい。逆を言えば、前世で失ったかと思われた緑色の心の優しさの炎とオレンジ色の心の温かさの炎をこの世界でこれまで大事に育ててきたからこそ、完全な両目の視覚と左耳の聴覚、不完全な左手と左足の感覚を取り戻すことができたと言えるのだろう。そのようなことを考えながら、炎太は市場へと向かった。
市場は人でごった返し状態であったが、これまであまり多くの人々と出会ってこなかった炎太にとっては、新鮮だった。市場には子供もいて、一人で遊びに来ている子もいるようだった。その時、ふと炎太の目に留まったのは、ボロボロの服を着ていて、一人で指を銜えながらお菓子とおもちゃが売られている一角に突っ立っている少年だった。炎太は少し少年が心配になり、そして可哀想に思い、その子に身振り手振りでお菓子やおもちゃが欲しいのか聞いてみたところ、少年は静かにうなずいた。炎太は先ほどの村で少し働き、お金を得たため、そのお金を使って少年が欲しがっていたものを買ってあげた。少年は暗い顔から満面の笑みに変わり、「ありがとう。」と言い、胸にお菓子とおもちゃを抱え、去っていった。その瞬間、炎太の左手の感覚が完全に戻った。お菓子とおもちゃが想像以上に安く買えたことと、その他の物価も安かったことから、炎太は皮のバッグと飲食料品を買いそろえることができた。また、自分の洋服や靴もボロボロであったため、洋服と靴も買い揃えた。最後に、この先の旅で野生動物に遭遇した場合に備えて、鉈も一本買ったところで、再び炎太は一文無しとなった。
市場を離れて、そろそろ旅をするのも疲れてきたなと思いながら、道端に目をやると、ごみが散乱していた。ごみと言っても、この世界にはプラスチックなどの近代的な技術で作られたものは存在せず、割れた陶器や瓶、汚れて破れた衣類などであった。前世で農学と環境工学を学んでいた炎太は、自然の中にごみがあるのが許せず、ごみを処分しようと、とりあえず一か所に集めたところで、その後はどのようにして処分すればよいのかわからず、ぶつぶつと呟きながら思慮していたところ、見るからに有識者らしき男性が近づいてきて、ごみ拾いをしているということは土地開発などに興味があるのかと、炎太に尋ねてきた。炎太は前世の大学で農学と環境工学を学んでいたことから、土地開発には多少興味があり、この先の旅で水資源が十分に確保できていない村などを見つけたら、井戸をつくるなどして村などに貢献し、困っている人の力になり、人の役に立ちたいなどの、前世で抱いていた信念を述べた。それを聞いた男性は、炎太の思いに感動したと、自らを井戸先生と名乗り、是非うちの学び舎で無償で井戸のつくり方を学んで技術を身に付けないかと誘ってきたので、渡りに船だと思った炎太は、井戸先生の下で学ぶことにした。しかし、炎太は放浪の身で、どこにも住むところがないと打ち明けたところ、井戸先生は、自分には使っていない空き家があるから、そこに住んでもらって構わないと、快く住処を提供してくれた。また、学び舎では、希望者には給食が出るから、食には困らないとのことだった。その瞬間、炎太の右足の感覚が少し戻った。
炎太は定住の地を得て、井戸先生の学び舎で必死に勉強し、実習にも精を出し、半年間の懸命な学びの結果、井戸先生が最終試験として出した課題をクリアし、井戸を自力でつくるのに十分な知識と技術を会得した。井戸先生の好意で、炎太は学び舎の卒業後も空き家に住み続けることができ、作業服も傷んだら交換してもらえて、学び舎での給食もいつでも食べに来てよかったため、衣食住には困らなかった。再会することを約束していた勇太にも自分が安定した生活を送れるようになったことを報告しに行ったところ、勇太はとても喜んでくれた。
炎太はこの世界で、人の心の優しさと温かさに触れて自分も心の優しさと温かさを提供することで、自らの緑色の心の優しさの炎とオレンジ色の心の温かさの炎に薪をくべてきた。その営みの中で体の感覚を徐々に取り戻してきた。声帯の感覚が戻り、この世界に転生して初めて心の優しさと温かさを教えてくれた、あの毛皮を重ねてくれた〈はじまりの女性〉に「ありがとう。」を言えるようになる日はいつになるかわからない上、〈はじまりの女性〉の居場所もわからないが、炎太は諦めず、緑色とオレンジ色の炎を燃やし、人々を次々と救っていこうと決意し、前に進んでいくことにした。
井戸先生から聞いた、学び舎から10キロメートルほど離れた集落で、炎太は初めて現地での井戸づくりに取り組んだ。炎太は水資源不足に喘ぐ村人たちを集めて身振り手振りで指示を出し、自らも作業に加わって、地面を掘削していった。この世界では前世のような重機は存在しないので、数か月にもわたって手掘りでひたすら作業を進めた結果、何とか綺麗な水を汲むことができる井戸をつくることができた。井戸の完成の瞬間、村人は歓喜し、炎太は同時に左足の感覚を完全に取り戻した。
炎太の訪問井戸づくりは続いていき、炎太は次々と身体の感覚を取り戻していったが、声帯の感覚が戻ることはなく、いつまで経っても言葉を話すことができなかった。しかし、炎太は諦めず、九十九件目の井戸づくりを終え、声帯以外の感覚を、自覚できる限りでは殆ど全て取り戻した。基本的に、まずは村人が炎太を歓迎し、優しくそして温かくもてなすことで、炎太の身体の一部の感覚が戻り、炎太が心の優しさと温かさを様々な形で返すことで、身体の感覚の一部を完全に取り戻していったが、人の幸せを願い、人の役に立とうと、緑色の心の優しさの炎とオレンジ色の心の温かさの炎を燃やしたエネルギーで行った善行は、それ一つのみで身体の感覚を一つ完全に取り戻すことができるケースもあった。
炎太は、水資源に困っている村に訪れてはただ単に井戸をつくるという単純作業をしてきたわけではなかった。村の子供たちの遊び相手になってあげ、水資源不足だけでなく、貧困にも喘ぐ村には井戸先生と協力して大量の飲食料品と料理道具を持ち込んで、大人だけでなく子供たちとも一緒に楽しく料理して、お腹いっぱいご飯を食べさせてあげる活動もしていた。そしてその食の支援が一時的なものとならないよう、村が自立できるようにするため、農作物を自分たちで作り、食料を確保できるように農業を教えた。また、教育が十分に行き渡っていない村では、子供たちと一緒に楽しく文字や数字の勉強をする活動も行い、国語的な教育のみならず、人を思いやることの大切さなどの道徳教育や防災教育も行い、川が近くにある村では洪水に備えた防災訓練を行っていた。さらに、井戸づくりの技術を応用して、堤防を造って村の強靭化を図るなど、活動は多岐に亘った。炎太は数々の活動の中で、人の心を大事にしており、悩みを抱える子供たちの相談相手になってあげたりもした。ただ、声帯が動かず、言葉を話せなかったので、地面に炎太の想いを書き、何とかメッセージを伝えたのだった。それだけでなく、孤独感を感じている子供たちがいるような村には何度も訪れ、子供たちに出会うたびに笑顔で手を振って、独りではないのだと、炎太は話せないなりに懸命に子供たちを元気づけようとした。
炎太はこの世界に生を受けてから、毎日を全力で生き、心の優しさと温かさを人々と交換し合い、緑色とオレンジ色の心の炎を燃やしていく中で、井戸先生と出会い、活動の幅が大きく広がり、より多くの人々を助けることができた。その大きく優しく温かい営みは、〈はじまりの女性〉に端を発していた。炎太はずっと〈はじまりの女性〉に「ありがとう。」を言いたいと思っていたが、彼女に関する情報がなく、彼女に会う方法がわからなくて、常に悩んでいたが、日々舞い込んでくる村の土地開発の依頼や、子供たちへの支援に忙殺されていた。
炎太がこの世界に生を得てから約10年が経っただろうか。記念すべき、百件目の井戸づくりの依頼が来たため、炎太はいつも通りの支度をして、現地へと向かった。炎太は現地に着いた時、何かを感じた。それが何なのかわからないまま、井戸づくりを始め、1か月程度かけて完成させた。その瞬間、炎太は喉に違和感を感じ、これまで経験したことのない衝撃が走った。声帯の感覚が戻ったのである。炎太はまさかと、信じられないと思いつつも、この景色、この雰囲気はあの時そのものだった。
炎太は後ろに心の優しさと温かさの匂いを始めて感じた。振り返るとそこには一人の女性が立っていた。当時は左目しか見えず、それもぼやけていたが、今ははっきりと見える。〈はじまりの女性〉である。彼女の視覚的記憶はぼやけているものしかないが、心が見えるのだ。彼女の胸の中で緑色とオレンジ色の炎が燃えている。心の優しさと温かさの炎である。やっと会えた。これでやっとお礼が言える。「ありがとう。」そう炎太が言うと、女性はにっこりと微笑んだ。炎太がこの世界で初めて発した言葉は確かに〈はじまりの女性〉に届いた。
「僕は炎太。あなたのお名前は?」
美しくて綺麗な声が耳の中で響いた。
炎太の心の中で、緑色の心の優しさの炎とオレンジ色の心の温かさの炎が燃え滾り、紫色の憎しみの炎を燃やし尽くした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。何か大切なものが読者の皆様の心に残りましたら、幸いです。




